充実した教育環境の日大付属高校
私学中学の価値 3校め
引き続き よろしくお願いします。
>彼は深層心理で自分の態度•性癖を理解してると思います。
それが過敏な反応となって現れる事の理由です。 (多分さん)
深層心理って、普通は「無自覚」なものなので、
「理解してる」というのは、「なんとなくは気がついている」と
いう意味なんでしょうね。
「過敏に反応する」というのは、事象→反応 パターンで、ごく一般人がごく常識的に、
① A→B
② C→D
③ E→F
・・と反応するだろうと思われることについて、
なぜだか、ある特定人物は、①と②はやり過ごせるのに、③だけにやたらこ固執する・・
そういうことだと思うのですね。
あくまでも、常識的な反応の範疇のものだと思うのですよ。
しかるに彼の場合はどうか・・というと、
④ A→B
⑤ C→B
⑥ E→B
すべて、Bに行きつく、ヘンな反応をするわけですね。固執するBとはなにか?・・
「私には個人的な責任は無い」
これです。
ひとことに、「責任」といっても、世のなかには、いろいろな立場、概念があって、
法律的なものに限定しても、自然人、法人、過失責任、無過失責任・・いろいろなバリエーションが
あるわけで、さらに法律以外の領域に立ち言っていけば、社会全体で責任を負わなければならない
道義的責任みたいなものがあるわけですね・・・こんなのは個人単位に責任を還元できません。
こういった理解無しに、彼はいきなり・・
「私には個人的な責任は無い」
・・これなんですね。
彼の反応は、ある事象に過敏に反応する・・という常識的な範疇ではなくて、
「私には個人的な責任は無い!」と帰結する、かなりクセのあるものです。
たとえば、「私学行政の公費助成の問題」・・これを国家、国民の問題として論じているのに、
「私学保護者が悪いのか!」と個人の問題に矮小化して、交通事故の被害者のごとく、
文句をつけるわけです。
多分、彼には自覚症状が無いと思います。
中受と私立中高一貫校のメリットを享受して、いわゆる波に乗って順風の中高生活を送る者から、
中受で無理をするデメリットと中高一貫校の生活を中だるみとして過ごす者へと、
その両極の間で山形に近い分布のいずれかに落ち着く理由は何なんでしょう。
ようは、自分にとって道標のない将来への航路に対して、
同じ道を歩んだ親子からフィードバックを受け想像力と行動を持って自分の対面する現実に向かい合って良い成果を得る者から、無理や好ましくない状況に直面し自らが望んでいなかった結果に落ち込む者へと
幅広い分布のいづれかへと道を分けるポイントなのではないでしょうか。
私立、公立という2元に分けての話はあまり意味が無いですね。分かれ道は、構想力と意思の違いなのでしょう。
受験を自学で乗り切った世代から観ると、
おっしゃるとおり、公立、私学などといった学校の問題ではないのですね。
公立、私学の違いは、単に高い料金を
払う分、受験関連サービスが良いだけの
ことです。(受験私学を前提に)
私は、これを教育だとは思っていません。
じゃあ、本質は、親子の問題か?・・
というと、そうでもない。
本質は、本人の自立・・脱皮したか?・・
の問題です。
昔の自学受験は脱皮につながったけども、
現在の親子、私学のいたれりつくせり受験が、自立につながるか?・・これは教育か?・・という疑問があります。
ここのスレッドでは、最近は、書き込みの中心的な方が抜けられていて
話題振りに困っていらっしゃるとのことでしたか。
大津の事件などは、教育現場の問題が根深く、私立、公立校を超えて
学校や教育、社会と幅広く話題にできるかと思います。
ここの常連の方は、時間的にも余裕がある多投稿の方が多いとお見受けします。
私は、読み手に徹しさせていただきますが、よろしければ色々なご見解をお願いいたします。
別スレへのコメント
>肩書きや所属先は「想像」しかもたらさない。
私ほど、肩書や所属先を問題にしない人も少ないと思いますけどね。
ダメな人のことをダメだと言っているわけで、ダメでなければそれでいい。
灘卒の東大経済学部。登山家で起業家の彼なんて、すばらしいと思ってますよ。
ポイントは、灘では稀有な経済学部。
野依先生も、灘では稀有な京大工学部。
きっと偏差値の呪縛から解放されている人達でしょう。
>つまり息子は、私の質問の裏にある、友人の出身高校という属性で彼のひ
>ととなりを推測しようとする(なかば無意識な)意図を見透かして、あの
>ようなつっけんどんな受け答えをしたのだと思ったということなのです。
息子さんは他大学の学生の大学名も聞かないのかな。
私は属性に引きずられないから普通に聞きますけどね。
>人は皆ストーリーを持っていると思うのです。
そこを尊重出来ない人は「~な生き方、選択はダメだ」みたいなもの言いになる。
それって??って私はすごくおかしいと思うのですよ。
その集団に属しているからこう。
みたいな集団で個人を批判する事にものすごい拒否反応を覚えるのですね。
・・・・
肩書きや所属先は「想像」しかもたらさない。
その「想像」は己の尺度。
相手はその尺度におさまりきる人なのか?
相手がその尺度におさまりきる人である。と思う事を私は「傲慢である」と思います。(地域、時代さん)
地域、時代さんが、大変素晴らしいことを書いておられるので、
意見を書かせていただきますが、それでは・・
「相手が肩書きや所属先といった尺度におさまりきる人である」と思う「傲慢である」人たちについて、
その人たちを排除する・・「傲慢と思う」グループで集団で固まる・・この言動は「傲慢ではないのか?」
排除スレは傲慢ではないのか・・言動が一致しているか?・・
これを是非、一度考えて欲しいのですね。
私は、それは傲慢であると思うから、「発言の自由」に大変こだわっています。(ご存知のとおりですね)
オウム事件は大変深刻な事件ですが、刑事、民事双方で、法的責任を問うたうえで、
法的責任を問うことが出来ない後継団体の人たちに対して、「また、何か悪いことをやるかもしれない」
と予断を持って語る人物がいたとしたら・・
それはまさに、「相手が肩書きや所属先といった尺度におさまりきる人であると思う人物」
ではないのか?・・
地域、時代さんの言いたいことは、分からないでもないけど、
そういった意見って、むしろ排他性の強い人たちから、出やすいものではないのか・・自己点検が必要では?
そこを考えて欲しいです。





























