充実した教育環境の日大付属高校
私学中学の価値 3校め
引き続き よろしくお願いします。
動機さん、視点さん・・に次いで、私の公立志向ですが、
私は、高学歴者サロン・・この雰囲気が嫌いという意味での、中高一貫私学への抵抗感・・自然体が大事という意味での公立志向なんですね。
だから、自然に優秀な人が集まったかつての伝統公立校は好きだけど、行政が受験重点校なんていってテコ入れした受験公立校は、どうなあ・・と抵抗感があります。
そういった意味で、私の公立志向は、視点さんの方に近いかもしれません。
高学歴者サロン・・スノッブ趣味ですよね。
まあ・・ひばりヶ丘ですよ。
今日は3月10日。
* * *
昭和二十年三月十日の大空襲から三日目か四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは地面に顔をつけてうずくまっていた。着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。
その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。どこからか来て、もはや、と覚悟して、指で固い地面を掘り赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためか、その赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。どの顔も涙で汚れゆがんでいた。一人がそっとその場をはなれ、地面にはう破裂した水道管からチョロチョロこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。
「花があったらなあ――」
あたりは、はるか彼方まで焼け野原が続いていた。私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
* * *
昭和45年に新聞に掲載された文章から
昭和40年代は、あらゆることに重さ・・ある種の「重量」がありましたね。人々の記憶もしかり、政治、社会的な事件もしかり、生活もしかり・・両親や祖父母から、戦争の記憶も何度も聞かされた。でも、それから10余年、いつのまにか日本全体から、その「重量」が失われましたね。
昭和末期には、「重い」のはうっとおしい、「軽い」方がカッコイイ・・このようになっていました。
重厚長大→軽薄短小
石油ショックで、産業構造が変わるのは仕方がないけど、人の意識がカルクなるのは、いかがなものか。
受験サロンで親御さんが、昔話を楽しむ時代も結構ですが、戦争の記憶はカルクなってはいけませんね。






























