アートの才能を伸ばす女子教育
別学共学はもう古い、雑学の時代到来
別学共学の議論が繰り返され、別学の都立校を作ろうなどというスレが立っていますが、別学とか共学という分類自体が古くないですか?
どうして性別だけをそんなに意識しなければいけないのか。
もう性別を一切問わない雑学の学校があっても良いと思います。
・生徒は性別も性自認も性嗜好も自由
・男女別の募集や選抜を行わない
・制服もユニセックスのパンツスーツのみ又は私服
・体育の際の更衣は個室
・トイレは全て男女共通の化粧台付き個室
・宿泊行事は希望者のみ、部屋はシングルユース
どうでしょう
そうなんですよね。
あるものをありのまま受け入れて、そこに美を見いだし、おもてなしをする。
招かれた側もその心遣いに想いを馳せて、その内に込められた思いを読み解く。
そんな静かなやり取りが無言の内に行われる奥ゆかしさと宇宙。
この感覚は西洋のセレンディピティにも通じると思うんですよね。
一期一会、不易流行、その二度とない時間を共にする縁と別れ。
>茶の湯はその一時を楽しみ、全ては無かったかのようになるのが良いのでしょうね。
エデュの不毛なやり取りとは別世界です。
>私は骨壷は要らないかな。人生が終われば何も無かったように忘れ去られれば満足。
散骨とか樹木葬とかご希望ですか?それすら要らない?
私は普通にお墓に眠りたいですね。もちろん死んだら無だと思っていますが、お墓参りが大好きなので。子にもこのお墓に参る気持ちと清々しい気持ちを分かって欲しいです。
> だからこそ東京医科大の件は「女子の数学力が劣っている」ことを示すどころか、むしろ合格基準を操作しなければ均衡が崩れる現実を逆説的に証明したのです。
それだけでは女子の数学力が男子と差がないことの証明にはならないよ。
> さらに15歳以降の高度な数学領域に進んだ女子の実績を見ると、大学レベル・大学院レベルでは男女差は統計的に消えています。
では高校レベルは?躓く人が多いのはこの段階だから、ここを議論の対象にしないと。大学レベルはできる人を試験で選抜しているのだから男女差が統計的になくなるのはある意味当たり前。
> 刷り込みや制度的バイアスが介入しにくい段階では差がないのに、大学受験の段階で差が出る。
誰がいつどう刷り込んでいるの?それは何のため?ここを具体的に示さないと単なる思い込みか、できない言い訳をしていると思われるだけだよ。それに女子校ならばバイアスがかかりにくいのに、差が共学校とあまりかわらないのはなぜ?
> 女子は女子の扱いをして、女子として教育する、その考えが女性の能力にフタをしているんじゃないかな。
逆だよ。戦前は男子しか旧制中学、旧制高校、旧帝大に行けなかったことを考えると、大学の一般入試は男子の能力に最適化されている。だから女子の能力を最大限引き出すために、女子に適した教育をする場として女子校が作られたと考えるほうが合点がいく。語学に重点を置く女子校が多いのはそのため。また、礼法や作法を学ばせるのも女子は美を追求するから。外見だけでなく行動もきれいにしなければ真に美しくはなれない。
>それだけでは女子の数学力が男子と差がないことの証明にはならないよ。
そもそも「差がある」という前提証拠が示されていない以上、こちらが「証明責任」を負う話ではないんですよ。OECDやTIMSSの15歳時点の数学到達度データを見ても、先進国では性差はほぼゼロ〜ごくわずか。統計的に有意でない国も多い。つまり、差が「自然に生じている」という仮説の方が反証されているんです。
>大学レベルはできる人を試験で選抜しているのだから男女差が統計的になくなるのはある意味当たり前。
むしろ逆です。選抜で「能力差が温存される」なら、大学レベルでは差は拡大していくはず。ところが現実には、大学・大学院の段階で男女差は消えていく。これは「高校までの差が実力差ではなく、環境・制度由来」だったことを裏づけています。
>誰がいつどう刷り込んでいるの?それは何のため?
これは心理学で既に膨大な実証があります。「ステレオタイプ脅威」で検索すれば、女子に『数学のテスト』『性差がある』と告げるだけで点数が下がることは繰り返し示されている。*1
誰か特定の人物が「意図的に」やっている必要はない。社会的メッセージの積み重ねが、無意識に影響しているんです。
>女子校ならばバイアスがかかりにくいのに、差が共学校とあまりかわらないのはなぜ?
女子校の利点は「外的な比較バイアスを下げる」ことですが、教材・入試制度・社会的評価基準そのものがバイアスを持っているため、完全には遮断できません。むしろ女子校の生徒が「自分たちの内部で伸びる」事例は無数にあり、東大や医歯薬系に女子校出身者が突出して多い事実こそ、環境要因が大きい証拠です。
*1 具体例いるよね。
Spencer, Steele, & Quinn (1999)
米国の女子大学生に数学テストを受けさせる実験で、「このテストは性差がある」と告げた群では女子の成績が大きく下がった。一方、「性差は出ない」と告げられた群では男女差は消えた。
Steele & Aronson (1995)
黒人大学生に「知能テスト」として問題を解かせると成績が下がるが、「単なる課題」として解かせると差が縮まる。この応用形として「女子と数学」も同様に確認されている。
OECD (2015, PISA報告)
15歳時点で女子は数学に対して「自己効力感(自分はできるという感覚)」が男子より著しく低い傾向があり、これは実際の成績以上に大きな差を生んでいると指摘。
> 女子は女子の扱いをして、女子として教育する、その考えが女性の能力にフタをしているんじゃないかな。
それはスレ主さんの主張だね。
ですが、今はスレ主さんは仲間なので、私の意見。
旧制制度下で女子が進学できなかったのは「能力が男子向きだから」ではなく、単に制度的に排除されていただけでしょう。
「男子に最適化された試験」などといいますが、たとえば戦前戦後を通じて女子はそもそも受験する権利すら制限されていた。最適化というより、女子を外に置く前提で作られた仕組みです。
語学や礼法を女子に割り振ったのも「女子はこの役割」と社会が決め込んだ結果であって、女子の能力を伸ばす科学的必然性ではない。現に現代では女子が理数系でも成果を挙げ、礼法や作法を「美の追求」と結びつける理由も根拠は乏しい。
「女子に適した教育」という言葉は耳触りがよくても、実態は女子の挑戦の幅を削る装置として働いてきた歴史があるのではないですか??






























