充実した教育環境の日大付属高校
別学共学はもう古い、雑学の時代到来
別学共学の議論が繰り返され、別学の都立校を作ろうなどというスレが立っていますが、別学とか共学という分類自体が古くないですか?
どうして性別だけをそんなに意識しなければいけないのか。
もう性別を一切問わない雑学の学校があっても良いと思います。
・生徒は性別も性自認も性嗜好も自由
・男女別の募集や選抜を行わない
・制服もユニセックスのパンツスーツのみ又は私服
・体育の際の更衣は個室
・トイレは全て男女共通の化粧台付き個室
・宿泊行事は希望者のみ、部屋はシングルユース
どうでしょう
> しかしそこでなぜ男子は調理だけ、女子はプログラミングだけになるのかがやっぱり理解できないのです。
単なる一例であって、必要なら多数決をとればいい。まあ、男子は調理になるだろうけど、女子はどれがいいかは正直わからんね。情報関連の技術は本来はコンピュータの仕組み、通信、セキュリティ対策、アプリケーション、プログラミングなど多岐に学ぶ必要があるが、時間が限られているし興味のない人が多いので、女子は一部だけでいいと思う。一方男子は全部やることになるが、そうすると家庭科に割く時間が減るので、調理に絞らざるをえなくなる(食事は毎日のことで健康に影響を与えるから)。
技術家庭に関しては、男子と女子が学ぶことを同じにすると、時間の関係上中途半端にしかならないから、一方が幅広い範囲を学んでおいて、大人になったときに互いに協力し合えばいい。
>あなたが証明すべきは「男子と女子とでコミュニケーション能力に差がない」ということではないの?まあ仮に生得的な違いはなかったとしても、幼少期に作られる男子グループと女子グループとで社会性が異なれば、育つ能力は異なるだろうな。
→科学的議論では「差がある」と主張する側に立証責任がある。
「差がない」側は証拠を提示する必要はなく、実際に人類学・心理学は「生得的差の証拠は確認されていない」と結論づけている。
更に、幼少期のグループ差異を理由にするなら、それは環境要因であって生得的差ではない。自分で自分の主張を崩している。
>そうは思えないね。英語のように比較的簡単な言語では差がつかないが、日本語のように複雑性が高い言語では差がつくんじゃないか。これは数学も同様で、SATのような共通テストよりずっと簡単なテストでは差はつかない。
→「言語の複雑性が性差を生む」という証拠は存在しない。
OECDのデータでも日本語圏と英語圏で差が逆転する事実はなく、説明要因は教育制度や文化的期待に帰着している。
数学についても同じで、Hydeらのメタ分析は基礎からGREレベルまで全範囲を含むが、どこでも差は誤差レベル。
難易度を上げれば差が出るという説は実証的に否定済み。
>被害妄想が強いな。できない理由をいつも社会や環境のせいにしている。誰も意図的に発信していないのに、統計的なデータを勝手にみて自分はできないと思い込んでいる。国連が毎年出すジェンダーギャップ指数の日本の教育面は100点中95点前後でほぼ男女差はない。発展途上国にはまだ教育機会等に差があるのだろうが、日本はもはやそのような国ではない。
→「誰も意図していない」ことと「バイアスが存在しない」ことは別問題。社会規範は無意識の内面化によって維持されることが社会心理学の定説。
ジェンダーギャップ指数の教育項目は「就学機会」を見ているだけで、自己効力感や進路選択の差を測っていない。日本が形式的に95点だからといって、心理的・文化的な格差が消えるわけではない。
>自分の好きなように外見を飾っておいて、行動や内面は磨きませんというのは自分勝手すぎないか。外見だけに気を取られて行動や内面が無頓着な人は、見苦しいし周りに不快を与える。本来は押し付けられてするものではなく、自主的にするものではないのか。
→個人の態度批判にすり替えているが、議論は社会規範の押し付けが存在するかどうか。個人の好悪感情を持ち出すのは論点のすり替えに過ぎない。
>そういうのを押し付けているのは他の女性であって、男性でも一般社会でもない。女性の世界で起きている問題を勝手に一般社会の問題にしては困る。女性の敵は女性と表立って言えないから、一般社会のせいにしているに過ぎない。
→歴史的事実として、戦前の女子教育令や家制度には「良妻賢母」「淑徳」などの規範文言が国家制度として明記されていた。押し付けの源泉を「女性同士」に帰すのは一次資料を無視した責任転嫁。
>状況証拠はいくらでもある。環境や社会制度が大きく左右するといっても、具体的に何がどう左右するのか何一つ出てきていない。
→stereotype threat の実験、女子校の進学実績、自己効力感の国際比較など、具体的証拠はいくらでもある。出ていないのではなく、提示されたものを理解していないだけ。
体育以外で男女を分ける必然性は、実のところほとんどありません。成長曲線や身体能力の差から考えても、性差を意識せざるを得ないのは体育くらいでしょう。
他の教科で「男子は競争」「女子は協調」といったやり方を敷くのは、時代錯誤に過ぎません。
むしろ本当に使うべきは、MBTIやLoveType16診断のような、子どもたち自身が夢中になって受け入れる「パターン分け」の仕掛け。
私はこれらを科学的に全く信じてはいません。韓国人親子が作った診断にしても、日本人親子が仕掛けた血液型マーケティングにしても、実証性は極めて怪しい。
しかし一方で、人間がこうした「枠組み」に惹かれ、そこに自分を投影して行動や学び方を変えていく力は否定できない。寧ろ、教育でこそ活用すべき。
プログラミングや家庭科、技術といった分野も、性別で分ける必要は全くない。AIや専門家による緻密な質問や評価を通じて、その子の特性を浮かび上がらせればいい。
競争心が強く論理で突き進むタイプには、一人でコードを書いて成果を叩き出す体験を。共感性が高く協調を重んじるタイプには、チームでアプリを作り上げる体験を。それぞれの性格や動機に合った学びを設計すれば、本人にとっても社会にとっても有効なスキル獲得につながる。
大切なのは、性別を軸に教育を分けるのではなく、特性と能力を軸に最適化すること。人は「自分はこのタイプ」と思い込むと、そのレンズを通して自分を動かす。たとえその分類が疑似科学的なものであっても、その作用を教育に利用すれば、学ぶ方向性の自己決定や自己理解を促すことができる。
これはポストAI時代において、性の意味や多様性が問い直される中でこそ価値を持つ視点だと思います。
どないでっしゃろ?
血液型占いに科学的根拠がないことは、誰でも知っている。
けれども、その「まやかし」がこれほどまでに社会に浸透し、今も人々の言動に影響を与えているという事実を軽んじてはいけません。
血液型占いがここまで日本に定着した理由は単なる偶然ではありません。
その背景には能見正比古が仕掛けた緻密な「マーケティングの構造」がありました。日本人最大派閥のA型に、日本人のプラスの特徴である几帳面、真面目を当てはめる。OはA型にも一部入っているので、可もなく不可も無い、おおらかなどを当てはめる。
一番少数のABは、天才肌を当てはめ、Aの要素もBの要素も持っているから二重人格を追加。
そして、これが血液型マーケティング最大の普及理由、ヒールを作った事。それがB型。
良いことばかりで八方美人な占いなら、ここまで普及しなかった。B型を自己中、気分屋と、悪役に仕立て、例えB型の人間が、「血液型占いなんてバカバカしい」とソッポを向いても、真面目で几帳面というプラスの評価をされたA型人間の支持を得て普及する。そこまで計算されたマーケティングだったのです。この構造こそが、血液型占いを普及させた決定打だった。
一旦普及すると、なんら科学的根拠も無い占いが、A型なんだから、俺は真面目、O型だから私大雑把と、逆に人々がティピカルな血液型の性格に順応してしまい、更に血液型占いの信ぴょう性を上げさせた。
自己中心的、気分屋、協調性がない。こうした負の属性をB型に押しつけることで、AやOの「自分はまともだ」という優越感を裏から支えた。良いことばかり並べても人は飽きる。悪役を用意するからこそ物語は成立し、血液型占いは社会現象にまで広がった。しかも「几帳面と言われたA型が几帳面に振る舞う」ように、予言の自己成就や確証バイアスが働き、人々の行動そのものが占いの枠組みに回収されていったのです。
つまり血液型占いは、科学的根拠はゼロでも「人を動かす仕組み」としては非常に完成度が高い。
人は合理ではなく、物語や枠組みによって行動を決めてしまう。これは教育に応用できる重要なヒントだと思うのです。
たとえばMBTIやLoveType16といった現代の性格診断は、血液型以上に若者の関心を惹きつけています。科学的厳密さを、私なぞが見れば全く欠いているとしか思えなくとも、人を動かす力があるなら、その力を教育的に利用する方が賢明なのです。
「あなたはこういう傾向があるから、この科目で力を伸ばせる」というラベルを与えることは、本人の意識を変え、行動を変え、結果をも変える。
占いと同じ心理的メカニズムを、遊びやまやかしの次元で止めず、AIや専門家の知見と組み合わせれば、性別や出自に縛られない、特性ベースの学習最適化システムが構築できる。パターン化してそのパターンに最適化されたカリキュラムを用いることで、細分化されているのに教師の負担は減る。
>個人ごとにカスタマイズしていたら教師がもたないし、学校としての統一感がなくなる。
実はパターンという型にはめているだけなのに、生徒には自分のためのオーダーメイドにカスタマイズされたプログラムの様に感じるのです。
そして、その個々に細分化されたプログラムは、科目毎にメンバーを変えて混ざり合う事で、実は学校としての統一感すら演出もできる。
血液型の「ヒール構造」や「物語効果」は、愚かな迷信の産物であると同時に、人間の動機づけの深層を示し、尚且つ「共同体」として一体感をも生み出せる実験例でもあるのです。
血液型占いの構造をここまで解き明かすと、それが単なる迷信ではなく、人間社会を動かす「物語装置」であったことがはっきりと見えてきます。合理も科学もないのに、多くの人々が行動を変え、共同体の一体感すら形づくった。教育の未来を考えるうえで、この事実は決して軽んじてよいものではありません。
科学的に正しいことだけが人を動かすのではなく、しばしば「まやかし」や「物語」のほうが強く人を駆り立てる。ならば、それを巧みに編み直し、学びの現場に取り込むことで、教育はもっと柔らかく、もっと強く、人を伸ばす仕組みになりうる。
人を惑わせるはずの虚構が、時に人を導く羅針盤となる。血液型というささやかな迷信は、今、改めて価値を与えられて、教育を再編する鍵となる。
そして、この方法論を最も創造的に編み直すことができるのは、物語に弱く、物語に強い、この国の人々に他ならない。
MBTIに世界を席巻されるのを指をくわえて見ているのではなく、新たな「物語装置」を編み出すことこそ、日本の教育が切り拓くべきアップデートなのです。
ごめんね。長いので読み飛ばしています。
「基準は何であれ、枠組みを作って人を分けている。
日本の教育現場は「男女」という枠組みを規範として
行ってきていた。」
という事かな?そして
「そろそろ新しい枠組みを作ってそこに人を配置し、枠にあった教育を行った方がステレオタイプの教育効率は良くなるよ」って事?
つまり男女の枠組み撤廃はした方がよい?
私はやはり内容を絞って男女同内容で良いと思います。、というか調べたら既にそうなっていますよね。
プログラミングについても書かれていますが、中学までは同内容共修で既に実施されています。
https://www.manabinoba.com/edu_watch/023898.html
「技術・家庭科」は、中学校で必修となっている教科のひとつで、技術分野と家庭分野を統合した科目です。この教科の歴史は1947年(昭和22年)の新制中学校創設にまでさかのぼり、当初は「職業」や「職業・家庭」と呼ばれていました。その後、1958年(昭和33年)に「技術・家庭科」と改められ、当時は技術分野を男子、家庭分野を女子が学ぶという性別役割分担が明示されていました。しかし、1989年(平成元年)の学習指導要領改訂により男女共修となり、1990年度から本格的に共修が開始され、現在に至っています
効率化のために男女が得意領域を分担して将来助け合う発想は分からないではないですが、皆が結婚するわけではないし、結婚するとしても独身時代もあるのだから、それは違うなと。
それを言い出したら男子が算数を、女子が国語を担当する話にまで発展してしまいますよ。少なくとも生活に関連する内容については最初から誰かをあてにする想定の教育はするべきではないでしょう。






























