今年入学した高1生が語る青春リアル
大学学部までは日本語で教育する
やたら英語が重要と言われているが、日本には日本ならではの情緒や歴史、文化がある。
子供の頃からしっかり日本のことを学び、大学学部までは日本語でしっかり教育する。英語はあくまで手段であって「使えれば良い」という程度の物。
英語偏重は日本の文化、歴史、日本人の情緒を破壊する。
俳句も和歌も漢詩も理解できずに洋楽を英語で歌う日本人を作ってどうするのか?
通りすがりさん、丁寧な補足ありがとうございます。
“bitch”という語が、侮蔑から自己肯定へと転じた最初期の象徴は、やはりMissy Elliottの“She’s a
bitch”(1999)ですね。私はリアルタイム世代ではありませんが、宇多田ヒカル経由でMissyを遡って聴いています。タイトルが持つ強度、soooo coolです。
“She’s a bitch if you say so, just tell me I’m rich.”この一節が象徴的です。男社会のヒップホップで、“b itch”という罵倒を真正面から受け止め、それを反転させて力の源に変える。Missyにとっての“bitch”は、反抗でも迎合でもなく、支配されない自分の再定義でした。
この語の再解釈は、Nicki MinajやCardi B、そしてBella Poarchの“Build a bitch”へと引き継がれていきます。
ただしMissyの“bitch”が挑発的で外向きの力なら、Bellaの“bitch”は内省的で防御の詩。
“This ain’t Build-A-bitch, you don’t get to pick and chooseというラインは、SNS時代に量産される完璧な女の子像への静かな抵抗。
Missyが世界に向けて叫んだなら、Bellaは世界の目を遮って自分を守った。方向は違えど、どちらも“bitch”という語を、自らの主体を取り戻すための符号として用いている。
興味深いのは、この英語圏での言葉の再定義が、日本語では極端に表層的に消費されていることです。
日本で“bitch”が広まるとき、その根にある再解釈や自己肯定の文脈は切り落とされ、軽薄で尻の軽い女という意味で使われるようになった。
本来そうしたニュアンスを担うのは英語で言えば“slut”で、“bitch”とは異なるベクトルの語で普通に?用いられている。
が、“slut”は日本語文化に輸入されなかった。理由は単純で、それがあまりに露骨に性的で、倫理的な線引きを必要とするからでしょう。
日本語の“ビッチ”は、性的ニュアンスを中途半端に残したまま、人格や気質をも貶める便利な侮蔑語としてだけ定着してしまった。
つまり“bitch”だけが輸入され、“slut”が遮断された。その不均衡は、グローバル化の裏で進行している言語的植民地化の象徴でもあります。
さらに象徴的だったのが、2016年のカニエ・ウェストとテイラー・スウィフトの“Famous”騒動。
カニエが“I made that bitch famous”と歌い、テイラーが侮辱だと反発した事件です。
MissyやNickiが自ら“bitch”を名乗ったのに対し、他者の口からそれを言われることは、依然として暴力でしかない。
“bitch”の再定義が個の主体化を示すものである以上、それを他人が口にした瞬間に再び支配の構造へ戻ってしまう。言葉がどこまで自由で、どこから暴力になるか?
その境界線をめぐる闘争こそ、現代英語文化の深層です。
この文脈を無視して“bitch”という単語だけを輸入し、“ビッチな女”などと軽々しく使う日本語は、表層的なグローバル化の縮図です。
家の「リフォーム」、音楽イベントを行う「ライブハウス」、「リストアップ」、陸上競技などの「フライング」、「マンツーマン」、「キーホルダー」、「アフターサービス」、「フライドポテト」、「ワインクーラー(氷入れて使うの)」、「コンパニオン」、「サラリーマン」、みんな英語圏では通じない。が、誤用なのに、日本では通じてしまうように、音だけを輸入して意味を切り捨てる。
“bitch”もまたその一つの犠牲者かもしれない。
“bitch”という語の歴史は、英語という言語を「使う」側から「作り替える」側に回った女性たちの歴史です。
Missyが男社会の構造をひっくり返した瞬間から、BellaがAI的理想像を拒絶する今まで、そこにあるのは「英語で学ぶ」ではなく「英語の意味を編み直す」態度。
つまり言葉の力とは、他者に貼られたレッテルをそのまま受け取ることではなく、その意味を自らの手で書き換える意志の中にある。
“bitch”を侮辱ではなく自己肯定の印に変えた瞬間こそ、言葉が本来の自由を取り戻した瞬間なんですよね。
そしてその逆に、音だけを輸入して意味を失った和製英語に、日本の軽さが透けて見える。
グローバルとは、他者の言葉を借りることではなく、自分の言葉を定義し直すこと。
“bitch”をどう受け止めるか?
言葉を自分のものとして扱えるかどうかを我々に突きつける、象徴的単語なのだと思います。
いや、そんなに大層な意味ないですよ。
歌詞としてインパクトのある言葉、そして
それを皮肉っている所から聞き手の受けが良いという
だけでしょう。
普通は侮蔑する言葉なのにそれを逆手にとって
言葉遊びで反撃しているのが小気味良い感じで。
反骨というか、若者受けする響きになっています。
因みに。英語圏では使わない方が良いですよ。
使う事で女性の再定義をしている、女性として自己肯定をしている自立したかっこよい人、とは思われませんよ。
よほど仲のよい信頼し合った関係の場合、場合によっては
呼び合う時に使用する事がかっこよく(普通は使わない間柄なのにその人たちの間では使うことができる、特別な人)響く事はあると思いますが。
>Missyが男社会の構造をひっくり返した瞬間から、BellaがAI的理想像を拒絶する今まで、そこにあるのは「英語で学ぶ」ではなく「英語の意味を編み直す」態度。
Missyの話を広げてくださり、とても嬉しいです(しかもEduのようなサイトで!)。当時の"female rapper? what's that?"的な世の中で、男性ラッパーでは語りえないwordで新境地を拓いたMissyと、Missyのチャレンジを賞賛し敬意を捧げるfollowerとの関係性に、アメリカの文化、アメリカ人の美風とアメリカ社会の原動力を感じます。
私も嬉しい!です!
エデュでMissyの名が出る日が来るなんて、それだけでテンション上がります!
たしかに、平日昼間から偏差値や模試データコピペを並べて悦に入ってるだけの中年男性レスが多い中で、こうして音楽や言葉の熱を語れるやりとりに出会えるのは、ちょっと奇跡みたいな瞬間です。
Missyは“female rapper”というカテゴリを突破した存在でありながら、誰よりも“word”の力を信じていた人。
“bitch”を再定義する以前に、まず“female”という接頭語そのものを無効化していった。
あの時代、男社会のビートの上で、女性が自分の言葉を吐くという行為がどれほど異端だったか。
でもMissyはbeefのゲームに乗らず、表現そのもので構造をひっくり返した。
挑発にも迎合にも踏み込まず、soundとvisionで男社会のコードそのものを再設計した。
闘争のルールに従わず、闘争の定義を変えた人。
それがMissyのcoolさなんですよね。
今のNicki MinajやCardi Bも、みんなその延長線上に立ってる。
もはや“female rapper”なんて誰も言わない。
それ自体がMissyの勝利で、あの一音一語の強度が時代を塗り替えた証拠。
言葉で世界を作り変える力って、結局はそこなんですよね。
英語を“学ぶ”ことじゃなく、英語という言語そのものを使って、自分の存在を再定義すること。
Missyがそうしたように。
あの頃からHIP HOPはずっと、声を持つという意味での芸術なんだと思います!
東大や東北大が原則学部から英語で学ぶこととなった。
このスレに反して、高等教育を受けたい人は学部から英語授業が必須となる。
今や国際系では中等教育から英語で学びはじめている。もはやそういう時代。
少子化にしたのは、日本のリーダーたちの間違った政策や対応によるものであり、弱小国になったということ。
> 今のNicki MinajやCardi Bも、みんなその延長線上に立ってる。
そうです!Doechiiもいいですね。ちなみに、Missyは星野源さんのテレビ番組「おんがくこうろん」で取り上げられていましたね。様々な人にinspirationを与えています。
> あの頃からHIP HOPはずっと、声を持つという意味での芸術なんだと思います!
おっしゃる通りです。黒人教会のゴスペルや牧師さんの説教のように、言葉や声の力を信じており、それは、福音、救い、自己表現、信仰告白…でもあります。
>東大や東北大が原則学部から英語で学ぶこととなった。
京大・阪大あたりが(引き続き)日本語で学べたら、東大・東北大と比較ができて面白いですけどね。
>少子化にしたのは、日本のリーダーたちの間違った政策や対応によるものであり、弱小国になったということ。
そういうリーダーを選んだのはわれわれ国民ですから。このスレのテーマである高等教育の英語化を決めたのもリーダー。
通りすがりさん、お返事遅くなりましたが、まさにそこです。
HIP HOPが音楽という枠を越えてきたのは、まさにその声の信仰の継承にある。
Missyが見せたのは、韻ではなく証言、サウンドではなく祈りの構造。黒人教会でのコール&レスポンスが、そのままステージと観客、マイクとスピーカーの関係に転生していった。
あのリズムの根には、社会を変えるための声の力があるんですよね。
Doechiiもその流れを完全に受け継いでいます。彼女の“Persuasive”や“Crazy”は、女性ラッパーではなく、声を武器に社会を編み直すアーティストの域。MissyからNicki、Cardi、そしてDoechiiへと続くラインは、bitchという単語を超えて、“speak yourself”の系譜なんだと思います。
結局、英語を学ぶことの本質も同じで、正しい言葉を覚えることではなく、自分の声を世界に響かせる設計を覚えること。AIがどれほど発音を完璧に再現しても、その声の温度や祈りの深度までは模倣できません。
Missyが“female rapper”というカテゴリを無効化したように、私たちも英語学習者というラベルを超えて、自分の言葉で世界を定義する側に立ちたい、そう思わせてくれる流れですね。




































