今年入学した高1生が語る青春リアル
大学学部までは日本語で教育する
やたら英語が重要と言われているが、日本には日本ならではの情緒や歴史、文化がある。
子供の頃からしっかり日本のことを学び、大学学部までは日本語でしっかり教育する。英語はあくまで手段であって「使えれば良い」という程度の物。
英語偏重は日本の文化、歴史、日本人の情緒を破壊する。
俳句も和歌も漢詩も理解できずに洋楽を英語で歌う日本人を作ってどうするのか?
海外では自己主張しないと存在さえ認めてもらえない、そうだな、確かに。そうだったな。
いろいろな意味で必死だった。
日本は講義型で黙って座っていればいいという教育。今の子どもの世代はグループワークや議論、自分で調べて発表する等、少しずつだが主体的な学びになっている
こういう通俗的な対比そのものが、議論を何十年も停滞させてきた元凶です。
海外は自己主張、日本は受動学習という二元論は、旧来の教育分類をなぞっているにすぎず、今の世界の学習環境の本質とはまったく噛み合っていません。
主体性を決めるのは授業形式ではなく、学びの回路を自分で設計できるかどうかです。
AIとオープンデータが標準装備になった時代では、黙って座るか声を出すかといった形式は決定因子ではありません。世界のトップレベルの人材は、講義型だろうがPBL型だろうが、自分の探索路を組み替えることで知を拡張しています。
つまり本質は、主張の強弱ではなく、認知負荷を自分で操作し、必要な知を即座に引き寄せる能力に移っているという点です。
そこを見落としたまま「海外では〜日本では〜」と語ってもね。
違うよ。受動的な学びの日本で結果が出ていないのだから、結果が出ている米国などの主体的な学びに変えていく必要があるということ。
本来、個人の探究心、好奇心等に基づく主体的な学びを教育はサポートするべきであって、教職員や塾が教える受動的な学びでは結果が出ていないということに本質がある。
結果とは、例えば起業、研究、開発等、あらゆる指標で日本は転げ落ちている。教育は抜本的に改める必要がある。
最も主体性をもって学ぶべき大学生が、最も早く最も大きく変わるべきですよね。
予算も人的資源も限られているので、学力選抜された大学生を変えるのが最も効率良いと考えます。
そのためには、授業のあり方、成績の付け方、そして大学教員、即ち大学教育がいの一番に変わる必要があります。
Luke Skywalker said, “Amazing. Every word of what you just said was wrong.”
受動的だと言われる中国も韓国も、日本よりはるかに成果を出しています。
詰め込み、テスト中心、階層化した進路。形式だけ見れば日本と大差ありません。
それでも研究も起業も技術競争力も日本を抜き去っている。
この時点で、主体性が結果を左右するという前提そのものが成り立っていません。
つまり、キミの言う主体的な学びへの転換という主張は、根本的に原因を取り違えている。
結果が出ない理由を授業形式に押し付けているだけで、構造の問題を見ていません。
成長している国は、受動か主体かという教育形式ではなく、人材を吸収し、挑戦を支え、失敗のコストを引き下げ、成果を社会に循環させる仕組みを先に整えています。
学習者がどう座るかではなく、挑戦がどう受け止められるかの回路を作っているのです。
日本は逆で、挑戦の回路が壊れているのに、学習者の姿勢だけを直そうとしている。
それでは構造は1μmも動きません。
主体性の有無を語っても意味がない理由はそこにあります。
結果を決めるのは授業形式ではなく、社会がその学びをどう展開できる設計になっているかです。
主体か受動かという二分法で議論を進める限り、日本はずっと同じ場所で足踏みし続けるだけですよ。
君の根本的な誤りは、中国は大学受験に約1300万人。日本は約60万人。まったく質量ともに比べものにならない。
中国では競争力ある人材が育つだけの人材が無数にいるが、日本はそうではない。
中国と同じ土俵ではまったく歯がたたない。だからこそ、日本はあらゆる指標で中国に抜かれてきた。
日本はこれだけ高等教育を学ぶ人が少ないのだから、教育はまったく変えないと中国に勝ち目はない。
大学が英語授業にして、留学生半数受け入れ、総合型選抜入試にするのは日本人の探究型の主体的な学びをした人間と中国やインド等の知識詰め込み型教育の達人がコラボすることで日本は少し可能性がでてくる。
従来の学びが駄目なのは日本の結果をみればわかる。あらゆる指標で落ちまくっている。教育を変えること。探究心や好奇心を育むこと。それが不可欠。
人口規模を持ち出した時点で、議論の射程が完全にずれている。論点は教育形式が結果を決めるかどうかであって、人口の大小は根拠にならない。中国は確かに受験人口が巨大だが、私が述べたのは受動的な教育形式であっても成果を出している事実であり、それは人数の問題ではなくシステム設計の問題だ。
君が無視したのはそこだ。私は最初から中国と韓国を並べて挙げている。韓国は人口規模で日本に近い。それでも研究、起業、技術競争力で日本を抜き続けている。つまり人口の規模論では説明できない領域がすでに存在しているということだ。それを都合よく無視して人口を盾にしても、論証にはならない。
教育を変えれば日本が変わるという主張も、原因と結果が逆転している。挑戦を受け止める回路が壊れている社会で、主体性だけを磨いても成果が循環しない。中国や韓国は受動か主体かという授業形式にこだわったのではなく、人材が挑戦し、失敗し、復帰し、成果を実装できる土台を先に作った。その土台があるから人が育つ。順序が逆なのだ。
探究心や好奇心を育てること自体は否定しない。問題は、育てた先の出口が日本にはほとんど存在しないことだ。挑戦の回路が閉じている国で、主体的学習だけを改革の軸に据えても構造は動かない。
人口でも教育形式でもなく、成果が戻ってくる仕組みを持っているかどうか。そこを見ずに表面だけを入れ替えても、日本はずっと空回りするだけだ。




































