今年入学した高1生が語る青春リアル
大学学部までは日本語で教育する
やたら英語が重要と言われているが、日本には日本ならではの情緒や歴史、文化がある。
子供の頃からしっかり日本のことを学び、大学学部までは日本語でしっかり教育する。英語はあくまで手段であって「使えれば良い」という程度の物。
英語偏重は日本の文化、歴史、日本人の情緒を破壊する。
俳句も和歌も漢詩も理解できずに洋楽を英語で歌う日本人を作ってどうするのか?
2022年度の学習指導要領から「総合的な学習の時間」が「総合的な探究の時間」に変わったので、どの高校にも探究学習のカリキュラムがあるのではないでしょうか?
筑駒の場合、「総合的な学習の時間」が導入された2001年度から教科主導の探究型プログラムを実施しているとのことです。
カリキュラムをバッチリ組んで学校があれこれお膳立てしているようです。
それでも、探求のやり方を学んだり探究心や思考力などを育むことに効果や意義があるのではないでしょうか。
寄稿論文
筑波大学附属学校での探究的学習プログラムの実践紹介
一附属駒場中高での6年間の取組を中心に一
より
附属駒場では,「総合的な学習の時間」の導入時より,中3及び高2を対象に
教科主導の探究型プログラムを実施している。どちらも, まず教員が大テーマを
設定し,第1回目のオリエンテーション
でのプレゼンテーションで生徒の興味と
関心を煽る。生徒は希望するテーマを選
択し,担当教員の下で研究を開始する。
研究は進行とともに生徒の主体性が重視
され,その成果は同学年ばかりでなく,
下級生や他校の生徒にも発信される。
制度の中で探究を語った瞬間、それは探究でなくなる。枠の中に置かれた探究は、未知への跳躍ではなく、予定調和の再現だ。問いは管理され、偶然は排除され、成果はプレゼンに変わる。そこに残るのは思索ではなく要領のよさだけ。
伝統校が強いのは制度の緩さではなく、測れないものを測らない文化があるからだ。成果を待てるというのは、結論を遅らせることではなく、結論のない状態を意味として受け止められる共同体の強さを指す。
探究の本質は、問いを立てることではない。答えを急がない構えにこそある。教育が探究を教えるのではなく、探究が教育を選ぶ。
> 制度の中で探究を語った瞬間、それは探究でなくなる。
制度の中でも「探究」は起こり得ます。
制度は枠ではなく環境であり、完全な自由よりも「制約の中でどう問いを生むか」が現実の探究です。
> 問いは管理され、偶然は排除される。
管理や評価がある中でも、偶然や発見は生まれます。
むしろ、現実的な制約の中で偶然を拾い上げる力こそ、探究の成熟形です。
先ずはやってみる(動く)ということが次を生んでいく。
1つの探求を一定の所でまとめあげる。(まとめる区切りを自分でつけていく)
1つやりきれると次はもっと敷居が低くなります。
中学生ならこれで十分。探求の世界に足を踏み入れることになります。
教育現場でやるべきは「探求心を涵養すること」であって、探求を授業時間に組み込んで、制度的に「探究させる」ことではないです。探求心のある子どもは、探求の授業の有無にかかわらず、自分で考えたり調べたりしている。そのきっかけはきわめて個人的なもの(こだわり・わだかまり)だったりする。探求の時間のための探求となれば、他者に共有可能な(無難な)テーマを選ばざるをえないでしょうね。




































