充実した教育環境の日大付属高校
受験学力以外のもの
受験学力を上げるためにせっせと予備校通いして青春時代の貴重な時間を費やすことに意味があるんだろうか?
共通テストレベルで基準点が取れればもう受験勉強点取りレースはやめて、部活や運動、読書、趣味などに時間を使った方が将来有望な大人が出来るのではありませんか?
アメリカのようにAO入試で本人のやる気や将来性、適性見て入学させる方が良い人材選べるのでは・・・と思います。
社会が求める能力は、課題を自ら見仕出し、その課題を解決する能力。新しい価値を創造する能力等である。
答のある問題を解くだけの人間を大学で選抜しても社会や企業はそんな能力は求めていない。だから筆記試験のみの一般選抜入試は無駄だ。
答のある問題を解くことは高校の成績や学力検査で十分。あとは社会が求める課題設定能力や課題解決能力、創造力などを評価すべき。
> 社会が求める課題設定能力や課題解決能力、創造力など
課題を発見し設定するだけで実行しない人、(課題を与えられると)課題解決に邁進する人、創造性はあるけど形にできない人、いろいろいますよね。これらを全部備えるにはどうすればよいですかね。日本の社会は「言い出しっぺの法則」が働いています。課題やアイデアを見つけたとしても、「言うとやらされるから、あえて言わない」という社会になっています。海外ではどうでしょうか。「予言の自己成就」のように「あえて言うことで、自分自身に実践を強いる」という感じでしょうか。そういうところから変えていけますかね。
全部備えた人材を育てるというより、全部を一人に求める発想自体が日本的なのかもしれません。
課題設定が得意な人、実行力のある人、創造性のある人。本来はそれぞれの強みを持つ人がチームとして機能するのが自然です。
寧ろ日本社会の問題は、言い出しっぺが損をする構造と同時に、役割分担よりも個人の万能性を求めがちな点にあるように思います。結果として、言わない人が合理的になり、動かない組織が生まれる。
海外が特別というより、言った人が評価され、実行する人が評価されるという、当たり前の分業と評価の仕組みの違いだけかもしれません。
能力の問題というより、評価と構造の問題。そこが変わらない限り、個人にすべてを求めても動きにくいままだと思います。
> 全部備えた人材を育てるというより、全部を一人に求める発想自体が日本的なのかもしれません。
おっしゃる通りですね。うろ覚えですが、一つものでなんでも代用できること=機能的と考えるのが日本流、目的に応じて最適な手段に変えること=機能的と考える欧米流?(例. 様々な形のフォークやスプーンがある)という表現を思い出しました。
個人に万能性を求めるマネジメントゆえ、なんでもできる人に業務が集中してしまう…、評価と構造の問題が変わらない限り、教育によって「課題設定能力、課題解決能力、創造力」を伸ばしたとしても、社会はそれらをうまく引き出すことができないままになってしまいますね。
興味深い例えですね。
ただ、日本が万能志向、欧米が分業志向というのも、やや単純化し過ぎかもしれません。実際には、日本でも高度な分業は存在しますし、欧米でも「できる人に仕事が集中する」現象は普通にあります。
寧ろ違いがあるとすれば、役割の明確さと責任の切り分けかもしれません。
例えば、課題を設定した人が必ずしも実行責任を負わない、あるいは実行担当者が別にいても評価が分かれる、そうした仕組みがあると、アイデアを出すこと自体のハードルが下がります。
一方で、言った人が最後まで抱え込む前提だと、合理的に「言わない」選択が増える。結果として、能力があっても表に出ない。
教育で能力を育てること自体は意味がありますが、それを活かす場の設計が伴わないと、確かに社会全体としては活性化しにくいでしょうね。
能力開発と制度設計は、本来セットで考えるべきなのだと思います。






























