アートの才能を伸ばす女子教育
受験学力以外のもの
受験学力を上げるためにせっせと予備校通いして青春時代の貴重な時間を費やすことに意味があるんだろうか?
共通テストレベルで基準点が取れればもう受験勉強点取りレースはやめて、部活や運動、読書、趣味などに時間を使った方が将来有望な大人が出来るのではありませんか?
アメリカのようにAO入試で本人のやる気や将来性、適性見て入学させる方が良い人材選べるのでは・・・と思います。
GDPは中国、ドイツ、インドに抜かされ、研究力は世界13位と落ちるところまで落ちた。
今のままだと衰退するのみ。まずは教育を根本的に変えるべき。東大入試が変われば多くの中高進学校は無駄な受験勉強をせず、課題設定能力、課題解決能力、創造力等の社会が求める能力を培うことができる。
衰退という言葉を教育改革の根拠に使う議論は、いつも少し単純化され過ぎているように思います。
GDP順位の変動も、研究力ランキングの低下も、教育だけで説明できるほど単純な現象ではありません。人口構造、産業構造、投資の規模、政策の継続性、そうした複雑な要因の積み重ねです。
そして、課題設定能力や創造力という言葉も、すでに教育現場では何十年も前から語られ、導入されてきました。探究学習も、総合学習も、推薦入試も、すでに制度として存在しています。塾サイドも普通に対策講座を開いている。
それでも社会が劇的に変わらないのは、問題が入試制度ではなく、その先の社会構造にあるからでしょう。
寧ろ、日本の教育は極めて効率的に基礎学力を底上げしてきました。
その安定性が、日本社会の持続性を支えてきた側面もある。
教育を変えれば社会が変わるという発想は魅力的ですが、現実はもう少し静かです。
社会は教育を変えるほど単純ではなく、教育もまた社会を一気に変えるほど万能ではない。
衰退を語るときほど、単純な処方箋には慎重であるべきだと思います。
大学入試は旧帝等の難関国立大もすでに12%が総合型選抜入試や学校推薦で入学している。
来年は東大新学部や東北大ゲートウエイカレッジが創設されるので、さらに総合型選抜入試等の比率が高まる。
AIが東大の問題をほぼ満点取れる時代に、どれだけAIに近づけるかという無駄な競争をさせるべきではない。入試を答のある問題を解くことができるだけで選抜すべきではない。
OECDは教育はウェルビーイングを目標とするとして、世界の教育は探究型に大きく転換している。
日本の学習指導要領に探究を教科に位置づけ、次期指導要領では情報と探究が連携してさらに深化する方向で議論が進んでいる。
こうした中、答のある問題を解くことができるだけの人材を選抜する一般選抜入試を続けていくことは少数派となっていく。
東北大が一般選抜入試を廃止するとし、早稲田が6割を推薦入試とするように、すべての大学は大学のアドミッションポリシーに沿った学生像を選抜していくようになっている。
わたしは探究型教育への転換そのものを否定しているわけではありません。
むしろ問題にしているのは、制度化された瞬間に探究が性質を変えてしまう点です。
OECDが探究を掲げ、学習指導要領に組み込まれ、全国で同じ形式の探究が行われる。
その時点で、それはすでに探究というより標準化された教育手法になります。
本来の探究は、他人と違う方向に進む行為です。
しかし制度化された探究は、評価される探究の型が生まれ、テーマ設定も発表形式も似通っていく。
結果として、優秀層にとっては演習、大多数にとっては安全な体験学習になる。
この構造はすでに各校で見られています。
探究発表会に並ぶテーマの均質性や、指導教員主導の「良い探究」の量産は、その象徴でしょう。
また、一般選抜が少数派になるという見方もやや飛躍があります。
推薦や総合型が増えているのは事実ですが、難関大学ほど基礎学力を担保する筆記試験を完全には手放していません。
理由は単純で、探究型評価の再現性と公平性が極めて難しいからです。
これは理念ではなく、制度運用の現実の問題です。
世界の潮流は確かに探究へ向かっています。
しかし同時に、真の探究は制度の外側から生まれるという逆説もまた、世界共通の現象です。
制度化された探究と、制度を超えて生まれる探究。
この二つは似ているようで、実はまったく異なるものだと思います。
社会が必要とする能力は、自ら課題を見いだし、その課題解決に向けて取り組む人材、新しい価値を創出する人材、そうした人材を東大等が入試で選抜すれば、社会に出ても活躍できる。
他方、東大等が従来のように一般選抜入試を続けていては、その努力を大学受験で利確するという意識に変わり、社会に出ても失敗しないように行動するだけの人間に終わる。
今の日本社会を覆うのは、こうした答のある問題を解くだけの一般選抜入試で入学した人材が多数を占めてきたことが衰退の要因となってきた。
日本人は兵隊は優れているけど、経営層や管理職がどうしようもない。つまり、東大等難関大に合格したリーダーたちが全体としてどうしようもないから衰退した。
米国は95%の人は日本人よりできないかもしれないけど、トップ5%の人がものすごく優れている。米国トップ大と東大との教育の差は大きすぎる。それはすべて日米の大きな差になってあらわれている。
社会が必要とする能力、などと軽く言いますが、あなたは一体、どの立ち位置でそれを語っているのでしょうか。
プライム上場企業の人事ですか。
上場間近のスタートアップの創業者ですか。
実際に採用と評価を担っている現場の側ですか。
少なくとも、そうした現場にいれば、社会が求める能力が単一のスローガンに収まるほど単純ではないことはすぐに分かる筈です。
自ら課題を見いだし
課題解決に取り組み
新しい価値を創出する人材
このフレーズ、もう何年も教育界で繰り返されてきた賞味期限の定型句です。
呪文のように反復されていますが、同じ方?
皮肉なことに、その種の能力は、今まさにAIが最も得意とし始めている領域です。
市場を分析し
未解決課題を抽出し
解決策を提示し
新しい価値を定義する
こうした一連のプロセスは、既に人間よりも高速かつ網羅的にAIが実行しつつある。
AGIが実用段階に入り、ASIが視野に入り始めた現時点の臨場感。
課題設定能力や価値創出能力といった従来の人材概念そのものが再定義される可能性すらある。
更にポストシンギュラリティの世界では、人間の知的優位性そのものが前提ではなくなる。
そうなれば、いま語られている能力モデル自体が陳腐化する可能性も高い。
つまり、あなたが掲げている理想像は、未来志向どころか、すでにポストAI時代では古典的なスローガンになりつつあるのです。
加えて、日本の衰退を東大入試に結びつける議論も、かなり単純化されている。
人口構造、産業転換、資源制約、投資環境、為替、政策継続性。
国家の競争力は複雑な要因の積み重ねで決まるものです。
兵隊は優秀で指揮官が無能、という話も、分かりやすい物語ではありますが、分析としては粗い。
社会が求める能力、という言葉は便利ですが、あまりにも抽象的です。
そして、その抽象性のまま教育や入試を語ると、どうしても現実から遊離したスローガンになります。
せめて、あなたがどの社会の、どの立場から語っているのか。そこが見えない限り、その議論は少し浮いて見えますが。
御自覚はお有り?
来年は東大新学部だけでなく、東北大ゲートウエイカレッジが創設される。
東大離れが止まらない、本当の秀才に見放された東大
という東大生の記事のように、
最優秀層は東大ではなく、海外大学を目指している。
東大が東大新学部を創設したのは、海外大を目指す最優秀層をとどめるために、世界標準の入試に近づけた。という分析をしているように、社会は大きく変わっている。日本の教育も大きく変わりはじめている。
今までの大学序列や中高序列は崩れ、大学のアドミッションポリシーに沿った学生像にあう人材を選抜するようになる。学生は課題設定能力、課題解決能力、創造力や構想力等を有する人材を選抜するようになる。今までの答のある問題を解くことができるだけの一般選抜入試はなくなっていくだろう。































