アートの才能を伸ばす女子教育
受験学力以外のもの
受験学力を上げるためにせっせと予備校通いして青春時代の貴重な時間を費やすことに意味があるんだろうか?
共通テストレベルで基準点が取れればもう受験勉強点取りレースはやめて、部活や運動、読書、趣味などに時間を使った方が将来有望な大人が出来るのではありませんか?
アメリカのようにAO入試で本人のやる気や将来性、適性見て入学させる方が良い人材選べるのでは・・・と思います。
自分がコメントしてきた方向性で国の教育改革や大学改革が進んでいるので、特に君に理解してもらう必要はない。
個人の関心、好奇心、探究心に基づく主体的な学びが、これからの教育の柱になること、それを踏まえた総合型選抜入試に移行していくこと、世界の優秀層を受け入れていく方向性で大学改革は進んでいること、大学教育が受け身の講義型教育から脱却していくこと、
こうした改革で育った人材が今の日本の衰退を変えていくものと考える。
その返し、逃げとしては典型的すぎて逆に整理しやすい。
まず「自分が言ってきた方向性で国の改革が進んでいるから理解不要」。これ、論証を放棄した宣言でしかない。政策が存在することと、その妥当性や有効性は別問題。審議会が何を掲げようが、結果が出ていない以上は仮説段階に過ぎない。そこをすり替えて「進んでいる=正しい」と置くのは、思考ではなく追認。
加えて、その一人称の「自分」。組織の中で意思決定や成果責任を担っている人間ほど、自分語りではなく主体を明確に切り分ける。自分、で曖昧に包む書き方は、当事者性も責任範囲もぼかす癖が出る。現場で通る言葉遣いではない。言葉の選び方ひとつで、どの層の発話かは透ける。
中身に入る。
「主体的な学び」「探究」「総合型選抜」。全部スローガン。問題は、その設計でアウトカムがどう変わったか。論文数、特許、スタートアップ創出、国際競争力。どの指標で、どれだけ改善したのかが一切出ていない。理念の列挙は誰でもできるが、制度は結果でしか評価されない。
「世界の優秀層を受け入れる」。それ自体は否定しない。ただし受け皿の研究環境、資金、言語運用、キャリアパス。この基盤が弱いまま入口だけ広げても、短期滞在の消費で終わる。米国が機能しているのは制度単体ではなく、巨額のエンダウメント、流動的な労働市場、研究と産業の接続があるから。そこを無視して入口論だけ語るのは、また切り取り。
「講義型からの脱却」。これも半分正しいが半分雑。基礎の体系化を担う講義を崩した結果、知識の穴が拡大しているケースは現場で既に出ている。アクティブ化は手段であって万能薬ではない。どの領域で講義を残し、どこで転換するかの設計がないと、単なる希釈になる。
そして決定的なのがここ。
「こうした改革で育った人材が衰退を変えると考える」
考える、で止めている時点で仮説。検証計画も、失敗時のピボットも書かれていない。教育は不可逆性が高い。1世代を丸ごと実験に使う以上、最低限の評価軸とフィードバックループは必須。その骨格が見えない「改革」は、やっている感の生産に終わる。
結論は前と同じだが、もう少しはっきり言う。
政策の羅列とスローガンの反復では、現実は1ミリも動かない。必要なのは、どの介入がどの指標に効いたのかという因果の特定と、再現可能な設計。そこを出せない限り、「進んでいるから正しい」という信仰と、「自分」でぼかした当事者不在の語りに留まる。創造を語るなら、制度の話ではなく成果で示せ。出せないなら、やはり中身は空だ。
個人の関心や好奇心がどのように生成されるのか。そのプロセスでは、既存の文化に、体系的なものであれ断片的なものであれ、それに触れております。「個人の関心絶対主義」は、つまり、タダ乗りの言い逃れです。interactionの切り捨ては、ちゃっかり利益を独占する
ための予防線ですね。
西千葉さんの指摘は筋がいい。そこを一段だけ解像度を上げて補強する。
関心や好奇心は無からは立ち上がらない。既存の知の体系、他者との往復、評価や摩擦。その総体の中で輪郭を持つ。だから教育の役割は、単に「好きにやらせる」ことではなく、どの順序で何に触れさせ、どの密度で相互作用を起こすかの設計にある。
ここで言われている「個人の関心絶対主義」は、制度側の責任回避と相性が良すぎる。うまくいけば本人の資質、失敗すれば本人の関心不足に帰せる。これでは制度の検証が成立しない。タダ乗りという表現は的確で、環境が用意した蓄積や他者の成果を前提にしながら、成果の帰属だけ個人に寄せる構図になる。
さらに言えば、interactionを削ぐ設計は、短期的には主体性を演出できても、中長期では分業と協働の質を落とす。創造の現場は単独作業では回らない。異質な知の接続で価値が立ち上がる以上、相互作用を軽視した時点で出口の性能が下がる。
だから論点は単純で、関心を尊重するか否かではない。関心が生成される条件と、その後に価値へ変換される回路をどう設計し、どう測るか。ここを外した主体的学びはスローガン止まりになる。
西千葉さんの仰る通り、個人に寄せ切る語りは予防線になりやすい。制度として語る以上、成果の帰属だけでなく、失敗の責任も引き受ける設計を示すべきだ。そこが出てこない限り、やはり中身は空のままだ。
探究学習は仮説でも何でもなく、筑駒等の国立実験校で探究学習の成果が出ているからだ。
私学では何十年も前から、例えば開智系など探究学習をしている。
それに私学共学新興校は探究型、グローバル教育を創設当時から組み込んで、成果が出ている。
世界の教育も探究型に移行している。
現在の学習指導要領は一部教科にも導入されており、成果が出ている。教員のほとんどが探究学習の効果を認識している。一から新しいことをはじめるわけではない。すでにモデル校等で探究型教育が成果が出ているから実施するんだよ。
頭が古すぎるよ。昔の受験勉強ばかりしてきた人間にはなかなかついてこれないだろうけどね。
探究の成果は、難関校の総合型選抜入試等ではっきり明確になる。
東大推薦で圧倒的トップの渋渋
東京科学大総合型選抜入試トップの広尾
早稲田総合型選抜入試トップの三田国際
2位の渋幕
つまり、渋幕、渋渋、広尾、三田国際等の国際系私学の教育は、海外トップ大の合格者数が多いように海外トップ大が求める能力を培う教育が行われているだけでなく、日本の東大等の難関大の総合型選抜入試等で求める能力を培う教育が行われているということ。
中高生が社会課題の関心を喚起するツールとしてはビジコン等がある。日本企業との協業等もある。こうした企業との接点は社会課題を認識するのに必要だ。
また、最も社会課題の関心を喚起するのは留学等の経験だ。留学で日本と世界の違いを認識し、世界の課題を認識するのは留学だろう。
こうした学外活動を広げることで社会課題を良く認識できるようになる。学内においても外国人留学生の受け入れで様々な考え方の違いや価値観の違いを認識し、社会課題を喚起するきっかけとなろう。
東大新学部が留学、インターンを必須化し、民間企業の人たちと議論するのは、学外との接続を増やすことで社会課題を喚起する仕掛けを多数つくることが必要だとの認識に基づくものだろう。






























