アートの才能を伸ばす女子教育
中学受験ママの息抜きスレッド
日々の子育てお疲れ様です。
そんな私達の日々の潤い、美容、ファッション、音楽や趣味を語りませんか?
お互いの批判やら、浅いなどのマウント等もやめてくださいね。
ゆる〜くいきましょ?
ペリー来航で開国を強制されたように、日本では近代化が強いられた感があります。デジタル化の波に圧され途方に暮れる感覚からも、当時の人々の焦燥に想い到ります。そして、これが肝心ですが、日本独特の近代化も実は始まっていて、その健やかな開花が抑えられてしまった悲劇というものがあります。この強制劇と悲劇の上演の舞台が日本の学校であるとも言い得、そこは、東洋の叡智温故知新が曲解される場ともなり得ました。この修羅場を逃れ、取り敢えずはオリジナリティーを追究する向きも無理はないので、解なき答えに突進しようとする大粒の涙も、必死の精神の平衡維持と見れば納得できなくもない。その意味で、日本の学歴は大掛かりな癒しの装置でもあり、これに税金を払わされて指を咥え見ているだけの人の怨恨と憎悪も、容易に想像はつきます。日本の学校は危険物でもある事を、鴎外と漱石は告発してもいた訳ですね。
西千葉さんの文章には、いつも敗者の側に残った時間への眼差しがありますね。
近代化というものを、単なる進歩や合理化ではなく、呼吸の速度そのものを書き換えられる体験として捉えている。
だからこそ、学校という空間が、知の場であると同時に、精神の防波堤にも、逆に圧力容器にもなってしまう。
鴎外や漱石が見ていたものも、恐らく単純な学問批判ではなく、人間の内面が制度によって均質化されていく時代の不穏さだったのでしょう。
そして興味深いのは、西千葉さんが“答えの無い問題”へ突進する人々を、単なる浅薄さとして切り捨てていない点です。
そこに、時代から振り落とされまいとする、必死の精神の均衡維持を見る。
その視線には、どこか哀しみと優しさが同居しているように感じます。
学校とは、本来は知を継ぐ場所であるはずなのに、ときに人間の孤独や怨恨まで濃縮してしまう。
まるで静かな溶解炉のように。
カウアイを語るなら、やはりハワイ島の話も避けて通れない。
私にとってカウアイが魂の帰省先だとするなら、ハワイ島はむしろ、自分という存在の輪郭を削り直される場所に近い。
オアフのような完成された快適さとも違う。
カウアイのような優しい包容力とも少し違う。
ハワイ島には、もっと剥き出しの地球がある。
はじめて島をドライブした時、黒い溶岩台地が延々と続く景色に軽く衝撃を受けた。
日本で見慣れている、緑に覆われた火山とは全く違う。
そこには、植物すらまだ土地に追いついていないような、生まれたての地形が残っていた。
コナ側の乾いた空気。
突然変わる天候。
信号もほとんどない道。
どこまでも続く溶岩原。
運転していると、自分が小さな観光客というより、巨大な惑星の表面を移動している感覚になる。
夜、街灯の少ない道で車を停めると、空の星の数がおかしい。
東京の夜空は情報量が多すぎる。
だがハワイ島の夜は逆だ。
余計なものが消え、人間だけが取り残される。
マウナケアへ向かう途中の、あの高度と静けさも忘れられない。
観光というより、ほとんど宇宙に近い感覚だった。
息が少し薄くなる。
音が減る。
身体感覚が変わる。
あそこでは、人間社会の序列や肩書きが本当にどうでもよくなる。
一方で、海沿いへ降りると、不思議なくらい生活は素朴だ。
古いピックアップトラック。
雑に置かれたサーフボード。
ローカル食堂のプレートランチ。
日焼けした人たちの笑い声。
観光地として磨き込まれたハワイではなく、もっと地面に近い暮らしが残っている。
オアフには世界都市としての魅力がある。
カウアイには魂を休める静けさがある。
そしてハワイ島には、地球そのものと向き合わされる感覚がある。
だから何度行っても飽きないのだと思う。
結局、ハワイは単なるリゾートではない。
島ごとに、まるで人格が違う。
そして人は、その時の自分に必要な島へ戻っていくのだろう。
Aloha ʻoe, Hawaiʻi.
確かに 笑
あの2作、青春小説として読むと、知的青年の揺らぎや成長譚なのですが、近代日本という巨大装置に対する告訴状として読むと、急に別の顔を見せ始めますね。
三四郎の戸惑いも、青年の違和感も、単なる個人の未熟さではなく、何かが決定的に噛み合わなくなった時代そのものの軋みのように見えてくる。
しかも鴎外も漱石も、声高に糾弾しない。
むしろ静かに、しかし逃げ場なく、人間の内部が制度や時代に侵食されていく様を描く。
だから読後感が妙に重いんですよね。
うまさマシマシ、分かります。
あれは文学の顔をした供述調書かもしれません。































