充実した教育環境の日大付属高校
国公立大を目指す理由
子どもの進路選択で迷っています。
都内在住、早慶の附属中も狙える位置にいると言われていますが、周囲には国公立大を目指して桜蔭やJGなどを選ぶお子様が多く、迷っています。
主人も私も早慶の出身で、特に就職で困ることもなかったので、国立大学を目指す理由が今ひとつ実感を伴って分かっていません。
特に中高からせっかく受験して入るなら早慶の方がゆったり勉強できるよのではないかと考えてしまいますが、国立大学を目指すメリットについて教えていただきたいです。
上は娘(小5)、下は息子(小3)です。娘は理系が得意ですが、息子は算数が苦手で、今のところ国語が得意です。歴史が大好きで、歴史マンガで読んだことはだいたい頭に入っているようです。
宜しくお願いいたします。
相談者が早慶出身の方なので遠慮していたというのと、解像度というか、全体の傾向の話なので、一万人を超える学生を一つの形容詞でくくる話なので、ステレオタイプ化されるのは当然という前提は置いておきます。
熊は危険というステレオタイプに対して、それは何千頭もいる熊の中には大人しく危険でない熊もいますけどという話ですね。
国立と私立の違いを一つだけ上げるとなると、それぞれいい学校もあるでしょうが、国立は国が費用の大半を持って育成するに値する生徒を教育するのに対し、私立は自腹で自主的に勉強するならどうぞってことです。
私立は生徒にとっても投資ですから、就職に直結する実利が重視されるのはやむを得ないところです。大学の雰囲気、学生の関心も就職就職という傾向は明らかにあります。
国立はその辺りに余裕があるということと、大学が生徒の何を合格不合格の基準としてるかというと、能力のある学生の中でもより抽象度の高い問題に対処できる学生を選抜してるということでしょう。
そして、元のよしあしというより適性だという話に戻りますが、早慶私立でいいんだという人は具体的な分かりやすさ。即物的な現世利益重視の人だと思います。国立はより抽象度の高い真実を知りたいという人向きですね。
これは本当に上下ということではなく、どのレベルの面白さが好きかという話で、映画を見て大抵あー面白かったと思える人と、細部のリアリティや飛躍が気になる人がいるので、早慶的に満足する人と違和感の残る人の感覚の違いとしか言いようがないです。
基本的には100万円のワインと一万円のワインの違いが分からない人はいても100万円のワインの方がまずいと言う人はあまりいないので、東大一橋に受かる可能性があるなら早慶に決めずに東大一橋狙っておいた方がいいと思います。下げる方はいつでもできるので。
たぶん一番危ういのは、本人は抽象度の高い話をしているつもりなのに、実際にはかなり素朴な学歴エッセンシャリズムへ戻ってしまっている点なんですよね。
国立は真理探究、私立は現世利益。
東大一橋は100万円のワイン、早慶は1万円のワイン。
言葉だけ見ると知的に整理されているようで、実際にはかなり乱暴です。
しかも、そのワインの例え自体、あまり上手くない。
100万円のワインの方がまずいと言う人は少ない、とありますが、普通にいます。
人間の味覚って、価格に比例して機械的に高級品を美味しく感じるほど単純ではない。
むしろ、人は飲み慣れた味を美味しいと感じやすい。
実際、高級ワインを普段飲まない人が、渋みや複雑さを、
重い、
酸っぱい、
飲みにくい、
と感じて、普段飲んでいる数千円帯の軽いワインの方が好き、なんて普通に起きる。
ラーメンでも同じで、ミシュラン店より地元チェーンの方が落ち着く人なんて大量にいる。
つまり、価値って、絶対的序列だけではなく、経験、文化資本、身体性、慣れ、記憶と結びついているんですよね。
だから教育の話になると、なおさら単純ではない。
東大卒でも極めて即物的・権力志向・出世志向な人間はいくらでもいるし、早慶側に、異様に抽象思考へ強い人も普通に存在する。
実際、現代の日本社会で強いのって、純粋抽象型でも純粋実務型でもなく、その両方を往復できる人間です。
市場も読める。
制度も読める。
資本も理解できる。
思想も扱える。
つまり今の時代、単純な、
国立=高次、
私立=俗、
みたいな図式そのものが、既にかなり古い。
あと、個人的に最も違和感があるのは、
国が金を出す=高次、
自腹=低次、
みたいな無意識の価値付けです。
それを言い始めると、国家資本主義的選抜システムへ過剰な権威付与をすることになる。
でも現実には、国家が正しく資源配分できる保証なんてどこにもない。
日本なんて特にそうで、研究費配分も大学政策も、かなり政治性と制度慣性に左右されてきた。
つまり、
国が選んだ=真理に近い、
では全くない。
そして最後に。
本当に抽象度が高い人って、自分の属する共同体をそこまで神格化しないんですよね。
東大だろうが早慶だろうが、結局は巨大な社会システムの一部でしかないことを理解しているので。
なので、国立的人間、私立的人間、という類型へ過度に人格本質を読み込み始めた時点で、むしろ議論はかなり具体レベルへ落ちている気がします。
ステレオタイプ化の話で、さらに国家資源配分だから合理的とは言っておらず、余裕の差がある、それも学校全体の雰囲気としてという話です。
早慶の附属にもそれなりに教養主義の人もいるわけですが、受け皿となる早慶大学の学生全体のレベルが就職就職なので、なかなかそういう対応のできる教授はいません。というか慶應は教授にあまり教授に給料を出さないで、生活費は慶應の看板使って自分で稼げというビジネスモデルなので、全体的にカネカネモードはかなり強いですよ。
御三家と早慶附属を対比すれば、御三家にはやはり東大受験などそもそも歯牙にもかけてないトップ層が1〜2割はいます。
あなたは知らないでしょうが一族東大の鳩山、宮沢ファミリーみたいなのは結構いて、えらい教養主義なんですよ。
いや、むしろその話を始めると、逆に早慶附属側の優位性まで説明してしまっている気がしますけどね。
だって結局、東大受験など歯牙にもかけていない、という超上位層の存在を持ち出した瞬間、それは既に、受験競争から自由でいられるほどの世襲的文化資本と経済資本を持つ階層、の話になっている。つまり、その人たちが凄いのであって、御三家システムそのものの優位性を証明している訳ではない。
しかも、鳩山家や宮沢家みたいな、一族東大級の教養主義ファミリーを一般化し始めると、今度は完全に日本の上位0.1%階層論になる。でも現実には、大半の家庭はそこではない。
だから実際の教育選択では、どちらが純粋教養へ近いか、より、どちらが人生期待値を安定させるか、の方が遥かに重要になる。
あと、慶應の教授が自分で稼げモデル、という話も、別にそこまで特殊ではないんですよね。むしろ現代の研究環境って、国立ですら競争的資金、外部資金、共同研究、産学連携、コンサル、知財、全部へ接続されている。つまり、金から自由な純粋知、みたいなものを大学へ幻想投影し過ぎると、かなり現実を見失う。東大ですら巨大な資金調達組織です。
あと、個人的に一番違和感があるのは、就職就職、をどこか低次なものとして扱う感覚です。でも資本主義社会で、自分の労働を市場へ接続し、キャッシュフローを作り、生活基盤を維持することって、本来かなり重要な能力なんですよね。
むしろ日本の高学歴層って、抽象議論は強いのに、市場感覚や金銭感覚が弱く、結果として組織依存へ沈む人も少なくない。だから、教養主義、をあまり神格化し過ぎると、今度は逆に、市場との接続を失った内輪的知性、へ陥る危険もある。
そして本当に教養のある人って、東大だの早慶だのを、そこまで人格本質へ結び付けて語らないんですよ。なぜなら、教養って所属機関名ではなく、その後どれだけ世界を読み続けたか、でしか最終的には決まらないことを知っているので。
世襲的文化資本や経済資本の話なんかしてない。遺伝、地頭の話をしてるんだから。
人格本質と東大早慶のつながりについては、現実、早慶では知的刺激が得られないから成長しない。だから河野太郎もイヤでジョージタウン行った。キミの天敵の海外大がーくんの言うことは早慶には当てはまるよね。ハーバードだと東大出身者ばかりだから。
一流企業に就職できて嬉しい程度なら早慶附属で問題ないとは思う。ただ、公立小でgiftedの吹きこぼれが苦しむような話は早慶附属なら余裕である。御三家上位2割に入る能力ある子なら早慶附属に入れるのは虐待になる可能性はある。
いや、むしろそこまで行くと、かなり危うい方向へ踏み込んでいると思いますよ。
まず、世襲的文化資本や経済資本の話ではなく、遺伝、地頭の話だ、と言いますが、現代の認知科学や教育社会学って、そもそも、その二項対立自体をかなり素朴なものとして扱っています。
人間の能力形成って、遺伝だけでも、環境だけでも説明できない。例えば、高い認知能力を持っていても、それがどの方向へ伸びるかは、幼少期の言語環境、周囲の期待、所属共同体、読書経験、可処分時間、心理的安全性でかなり変わる。つまり、地頭という便利ワードで全部を説明し始めると、逆にかなり雑になるんですよね。
しかも、河野太郎氏や海外大学の話を持ち出して、早慶では知的刺激が足りない、という方向へ一般化し始めると、今度は完全にサンプルバイアスへ入っていく。
そもそも、海外トップ大へ行く人間って、知的刺激不足だけで動いている訳ではない。研究環境、国際ネットワーク、言語環境、キャリア市場、政治性、家柄、資産、全部が絡む。しかも、東大から海外大へ行く人も大量にいる訳で、そこから、早慶は知的に劣る、へ直結する訳でもない。
あと、本当に違和感があるのは、giftedや吹きこぼれという言葉を、かなりロマンチックに扱っている点です。
実際の高IQ層って、必ずしも、東大一直線、抽象知へ飢えている、みたいな存在ではない。数学オリンピックへ行く子もいれば、起業へ行く子もいるし、ゲーム制作へ沈む子もいるし、投資へ向かう子もいる。つまり、高能力層ほど進路分散する。
にもかかわらず、御三家上位2割なら早慶附属は虐待、みたいな言い方を始めると、今度は教育論ではなく、かなり危うい能力主義イデオロギーへ近付く。
というのも、その発想って結局、高能力者は国家中枢競争へ投入されるべき、という戦後日本型エリート観の焼き直しなんですよね。でも現代って、東大法学部から官僚になって国家を支える、みたいな物語自体が、既にかなり揺らいでいる。
むしろ最近は、超高能力層ほど、日本型組織から距離を取る、海外へ行く、資本市場へ行く、テックへ行く、起業する、みたいに分散している。つまり今は、能力があるなら東大ルート一択、みたいな時代では全くない。
そして最後に。
本当に知的刺激に飢えている人って、学校名だけで知的環境を判断しないんですよ。本を読む。論文を読む。海外へ行く。研究会へ行く。ネットワークを作る。つまり、知的環境って、所属校から一方向的に与えられるものではなく、自分で接続しに行くものなので。
だから、学校名へ人格本質や知的運命を過剰に読み込み始めた時点で、むしろ議論の抽象度はかなり下がっている気がします。
ステレオタイプ化しているし、当然認知バイアスはあるわけだが、それを危険だの素朴だの2項対立だの雑だのサンプルバイアスだの言われても、そりゃ言葉ってそういうもんでしょと。
早慶附属や早慶大学はそりゃ頭切りになって、並に優秀な子は多いけど、一定水準以上の子は入って来ない仕組みになってるわけだ。サンプルバイアスと言ったところで、一番優秀な子が御三家に100人いるところが10人とかな訳で、御三家ではその100人向けの授業はあるけど、早慶では10人はいないことにされる。マスプロ授業で個別指導じゃないから仕方ない。
物語がそうじゃないって、じゃあキミらが海外大がー日本のGDPがーって日柄エデュでやり合ってるのは何なの?
老子荘子が世俗に汚れないと言ったのに対し、孔子は自分は人間だからいくら汚れていようと鳥獣とともに暮らせないて言った。
時代というような軽薄な理由では生きる意味は理解できないよ。なぜなら今天に瞬く星は今の老人が少年の頃から天にあり、人は何千年経っても変わらんからな。






























