在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
昔の四谷大塚
数年前、子供を入塾させるときに、一番心配だったのが、「入れるかどうか?」でした。
なぜなら、私が子供の頃、四谷大塚には入塾テストがあって、成績が足りないと入れなかったと記憶していたからです。
そのため、四谷に入るための孫塾があり、そこでまず四谷に入るための勉強をする(人もいる)と聞きました。
現在では、入塾テストはクラス分けのためであり、断られることは無いですよね。いつごろから、全員入れるようになったのか・・・?
自分が子供だったので、もしかしたら全くの勘違いかもしれません。昔も全員入れたのかもしれません。
でもずっと気になっていて、もしかしたらエデュをご覧の方の中には御存知の方がいらっしゃるかもしれないと思い、スレッドをたてさせていただきました。
それを調べてどうする?といわれると、う~ん・・・
自分の記憶が間違っていたかどうか知りたいのです。子供が塾に行くようになって(近所に四谷大塚がなかったので他塾ですが)、自分のときと色々違うな~~と思うことが多いので。授業は今のほうが昔より親身で解かりやすいと思います。先生も優しいし。(模試で四谷の先生に解説していただいたことが数回あります)なんか、昔は、もっと厳しかった気がします。
・・・子供だったからそう感じただけかも知れません。
私は現在46歳ですが、午前は四谷に午後は日進に通っていました。
ちょうど学園祭だった拓大会場でのテストの途中に、荒井(松任谷)由美が歌っていた「いちご白書をもう一度」が聞こえたのが今でも思い出されます。
池袋(場所が思い出せません)会場の時は、帰りにパルコでオレンジのソフトクリームを食べるのを楽しみにしていました。
いつも電車で1時間かけて一人で通っていましたので、都内の交通網と各大学の位置には詳しくなりました。
今思えばそれも自立の一歩だった気がします。
私も仲良くなったお友達と電話番号を交換してました。
季節講習では秋田から来ていた子もいました。
今は中受ブームと言われていますが、35年前ですが私の小学校(各学年6クラス)のうち6割が中学受験をしていました。
(ちなみに残念組と非受験組の一部は都内の公立中学校に越境してしまうので地元の公立中学に行くのは学年の2割程度でした。)
クラスメートの殆どが四谷に通っていたので、会員か一般か、テスト会場でなんとなく序列を感じていたものです。
また会場や午前、午後のレベルによって、大学の序列も自ずと刷り込まれてましたね。
前の方もおっしゃていましたが日進はどうなったのでしょうね。
四谷のほうはピリピリムードでしたが、日進は大学生のお兄さんお姉さんととても楽しくおしゃべりしました。
私は希望校には合格出来ませんでしたが、あの時の勉強は無駄ではなかったですし、四谷大塚にはなつかしい思い出がたくさんあります。
親は中学受験に全く無関心だったが、仲のいい友人がいっていたため親に頼んで入会試験を受けたのが5年の春。それまで学校の勉強以外にやっていたのは公文式のみで、算数に全く歯が立たず、結果準会員にすら不合格でした。理社も意味不明な問題ばかりでしたね。
地元公立小ではクラスで不動の一番だったので、四谷大塚のレベル高さ、自分が井の中の蛙だったことを思い知らされました。その後全く対策せずに臨んだ5年秋の入会試験で何とか準会員に引っかかって、家から1時間以上かかる蒲田会場へ。子供ながら蒲田の場末感漂ういかがわしい雰囲気に衝撃を受けました。
次の試験(確か資格審査試験と銘打たれたもので、会員も準会員も試験結果次第で降格や準会員資格喪失となる試験でした。)では準会員のまま目黒会場へ移りました。
成績は順調に伸び、6年春に会員となって早稲田会場へ。当時は成績順に中野→お茶の水→池袋→四谷→早稲田→飯田橋でしたので、会員の中では下から二番目でしたが、とにかく会員になれたことがとても嬉しかったです。
最後の組分けで池袋まで上がって本番を迎えましたが、中野、お茶の水には縁がなかったです。
長々とすいません。
四谷大塚懐かしいです。
同じ小学校に6年最後の組み分けで野国二、茶国二、池慶二、谷慶二、早国二(うろ覚えですが)と会員が5人いて、みんなで一緒の電車で通っていました(自分がどこだったかは内緒です)。当時普通の公立小学校に正会員5人というのはかなりレベルが高かったんじゃないかと思います。
5人で同じ電車で一列に座りながら社会の暗記問題の出し合いをしたり、お互い(といっても中野の奴に聞く感じでしたが)わからないところを教えあったりしてました。それが楽しくてついつい盛り上がりすぎてしまい、周りの大人から注意されたことも何回かありました(すいません、、。)。
奇しくも全員会場が違ったので、途中の乗り換えで別れるときに「じゃあ今日の日曜テストもがんばろうぜ!」といって散らばっていくのが、子供心に「○○小学校四谷大塚正会員5人衆が各会場でがんばっている!」「そして俺もその一員!」というのがなんだかカッコよく感じられました。
会場は違いましたが大抵1人か2人とは帰りの電車が一緒になるので、日曜テストの開放感もありくだらない話をしながら楽しく帰宅してました。本当にいい思い出です。
結局上位校舎の2人は順当に御三家へ、池慶二は某国立へ、谷慶二、早国二は横浜御三家へ行きました。
その後上位校舎3人は東大へ、谷慶二は東工大へ、早国二は外大へ進学しました。後の進学大学を考えると当時の四谷大塚のレベルは非常に高かったんだと思います。おそらく中野校舎なんかは東大に入るより難しかったんじゃないでしょうか。今でいうとサピのαクラスになるんですかね(詳しくは知りませんが)。
今では他の正会員5人衆に会うこともありませんが、切磋琢磨する感覚というのを身近に小学校で経験できたというのは自分の後の人生でもよかったと思います。
思い出に浸ってしまいました。
1970年頃通っていました。当時は、中野・池袋・水道橋の順だったと記憶しています。(池袋会場は多分「鷹の羽学園」記憶なので字は違うかもしれない?)私も中野教室に行きたかったけれど、一度も縁がありませんでした。ただ、中野教室の火木教室に通っていて、近くのパン屋さんで2色パンを食べるのが楽しみだったことを覚えています。
スレッドを見つけて飛び付きました。
週報が返って来るたびに母に殴られ、木曜日は学校からゆっくり歩いて帰ったものです。
つらい思い出が多いけれど、懐かしくもあります。
1980年代前半に通っていました。
4年スタート時の正会員の会場は、確か成績順に御茶ノ水、早稲田、池袋、四谷でした。
5年になると中野、御茶ノ水、池袋、四谷、早稲田、飯田橋だった様な…。
中野会場をキープしていて週報6段あたりにはいつも載っていたものの、第一志望の○蔭は不合格で高校受験をしなければならない国立に行きました。でも私にはそこが合っていたみたいで、素晴らしい青春時代を過ごしました。
大学の入学式で、初めて会った人から「もしかして四谷大塚の○さん?週報見てました」と言われ苦笑しました。
懐かしいです。高田馬場の早稲田13時ホールというところで受けたり、上智大学で受けたり。高田馬場には当時ホームの前にちょっとエッチな噴水があって電車を待っている間恥ずかしかったです。私は横浜から通っていたのですが、東京の子に真面目な顔で「どうしてしゃべるときに最後にジャンってつくの?」って聞かれました。まだ横浜の喋り方が東京の人にはなじみがない頃だったのでしょうね。
帰りに原宿で寄り道をしてスヌーピーのメモ帳を買ったり、上野の博物館に寄って帰ったり、すごく自由な時間を楽しんでいました。それに引き替え自分の子供たちはいつもまっすぐ帰ってきていたなぁ。小学生が一人でそんなところに遊びに行くなんて母としての私にはちょっと心配。昔の親はおおらかだったんでしょうかねぇ。
3歳年下の弟のときには準会員がありました。会場も四谷大塚の校舎がいくつかあったけれど、私のころは中野だけだったんじゃないかしら?
もう当時の話を語り始めたらいくらでも思い出話が出て来ると思います。オフ会を開きたいくらいです。




































