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慶應出身が中央政府の官吏(現在の国家公務員に相当)の多くを東大より占めていた 明治初期      民から官への流れにすべき?     官から民への流れを継続すべき?

【7630123】
スレッド作成者: 時代の転換点? (ID:UPaAcNuVMJk)
2025年 02月 17日 22:59

1877年に東大が設立されました



1881年まで中央政府の官吏(現在の国家公務員に相当)の多くは慶応義塾の出身者だったが、1878年5月に大久保利通がいなくなり、1881年の政変で大隈重信が追放された後、政府部内の福澤諭吉の影響力が失われて、自由主義的な慶応出身官吏を伊藤博文ら権威主義の薩長藩閥の意向もあって、国権主義的な官吏となるべく高等文官試験を導入したことにより、結果的に同試験で有利な東大卒登用の比率が圧倒的になったという歴史があります。



実は東大の初代総長の渡辺洪基は、慶応出身。 第3代、第8代の濱尾新も。トップの二人も慶応出がいるという、明治初期のころの角逐がよくわかる。



福澤諭吉は従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級が国家を牽引し発展させる考えがありました。

しかし当時列強と国際社会で肩を並べる強国をめざすうえで民から官へという流れがありました。



一方戦後一貫して西側諸国に入った日本は官から民へという流れできて、自由競争社会で弱肉強食の世界になってきていると思います



戦前のような民から官への流れにすべきだと思いますか?

それとも今まで同様官から民へで弱肉強食社会で格差を認める社会がいいですか? 

そもそも東大生も京大生も官吏・官僚を養成するための機関だったのに世の中の流れから官から民へつまり官僚を目指さず民間企業で高給取りを目指すのは戦前の大学の目的とは乖離していませんか?

【7791959】 投稿者: 佐賀藩   (ID:C5KV7O.cbuw)
投稿日時:2026年 04月 27日 17:18

明治初期の新政府を支えたのは、主に佐賀藩の面々でした。藩校「弘道館」でスパルタ指導を受けた江藤新平、大隈重信、大木喬任、副島種臣らは、この時代ではまさに最先端の知識層でした。
佐賀藩を題材にした大河ドラマを早く作って欲しいですね。

【7791964】 投稿者: Margaux   (ID:v56WDONeGYo)
投稿日時:2026年 04月 27日 17:27

誘致運動を仕掛けたらいかがですか?

【7792171】 投稿者: たしか   (ID:dVVr3nQXTWw)
投稿日時:2026年 04月 28日 08:26

征韓論争で破れて下野し、江藤新平の乱、西南の役と続く。
この殿様の家系の子孫が某国立大学の教授でした(退官されている)。

【7792178】 投稿者: いまは   (ID:94oLKVO1t3A)
投稿日時:2026年 04月 28日 09:01

はなわの佐賀の歌が有名。

【7792210】 投稿者: Margaux   (ID:E/aeyYux5N6)
投稿日時:2026年 04月 28日 11:04

なんですか?はなわって?

【7794759】 投稿者: 理系   (ID:C94zc52R.MQ)
投稿日時:2026年 05月 01日 21:36

佐賀藩は、理系実務官僚を多数輩出した。此れはやはり、蘭癖大名たりし鍋島閑叟のリーダーシップの賜物であろう。同じく、蘭癖大名がリーダーシップをとった薩摩藩との対比はちょっと興味深い。

【7794840】 投稿者: Margaux   (ID:MRgbKlrnq8w)
投稿日時:2026年 05月 02日 00:20

急に歴史の話を差し込んでいますが、文脈とズレていますね。

佐賀藩が技術系人材を多く出したのは事実。ただ、それは藩政として反射炉や造船などの具体的な技術導入と制度整備があったからで、単に鍋島閑叟の嗜好を持ち出して一般化できる話ではない。

それに薩摩藩との対比も粗い。薩摩は薩摩で集成館事業などを通じて独自の技術基盤を築いているし、後の人材輩出の質も方向も違う。単純な優劣や性格づけで語ると、どちらの実態も見えなくなる。

結局、史実の断片を並べて「それっぽい話」にしているだけで、今の議論との接続がない。話を広げるなら、少なくとも現代の論点とどう結びつくのかまで示さないと意味が薄いです。

【7795487】 投稿者: 明治   (ID:T0B9vCZj1j6)
投稿日時:2026年 05月 03日 00:16

佐賀出身の明治官僚は多かったようですね。しかし、地元佐賀で佐賀の乱が発生すると、その官僚たちは微妙な立場に立たされます。
多くは明治政府の味方をするようになりますが、地元佐賀の視点からするとそういう行為を取った人は「裏切り者」になるわけです。無事官僚を勤め上げても地元に戻ることは困難でした。したがって、多くは佐賀の人たちが多く務めていた印旛沼の開拓地に身を寄せた人が多くいたようです。
そういった人から大隈重信によせた書簡も残っています。

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