在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
高校無償化で公立高校は壊滅的打撃を受けることが予想されていますが、維新の次の目標は大学無償化、その時、国公立大学も壊滅するのだろうか?
東京大学は10万円の学費値上げで志願者が激減したようですが、大学無償化で壊滅するのはどっち?
高校進学は義務教育ではないので無償化は不必要な負担。仮に無償化するなら公立校のみで、私立校への無償化は補助金と一緒。
差別化して学生の理解が得られないなら少子化のなか公立私学ともに統廃合が進むべき。
補助金による義務教育外への教育環境への延命は不健全。
別問題だが大学の統廃合とともに、高等教育の学ぶビジョンと到達目標を定めた運営が望ましい。
一理あります。
が、教育無償化を財政負担の観点だけで区切るのはあまりに近視眼的です。私は以前から、問題は誰にどれだけ金を出すかではなく、何のために教育を受けるかを社会全体で設計し直すことだと述べてきました。
今の高校・大学制度は、知識獲得の場というより選抜と延命のシステムとして機能してしまっている。だからこそ、単に公私の線を引いて補助を切るだけでは、根本的な改革にはなりません。必要なのは、学ぶ主体のビジョンと制度の接続です。
たとえば、無償化をするなら単なる授業料免除ではなく、地域・社会への貢献や探究成果と連動させる形で、教育投資をリターンとして可視化する仕組みにすべきです。現状のように学費を払う=権利を得るという発想のままでは、どのみち制度疲労を加速させます。
教育はコストではなく、国家の知能を鍛える基盤。公立か私立かではなく、何を学び、何を社会に還すかが問われる時代に入っていると思います。
私学無償化は、本当にやめた方がよい。私学というのは、特定の宗教や独特の教育方針の元で教育ができてしまう。今後、すごく偏った教育方針の私学が出てきてもそこだけ除外できない。日本の国益に反するような、もしくは日本の社会と相入れないような教育を行う私学に税金をつっこむのは、どう考えてもおかしい。日本の公立学校にこそしっかり予算をつけて、30年ほったらかしの教育環境を整えてあげてほしい。
国は、授業料が青天井に高騰するのを防ぐため、大阪府の高校無償化プログラムを参考にすべきです。
大阪では、授業料の上限(約63万円)を設定し、学校がこれを受け入れた場合に無償化の補助対象としています。この仕組みにより、私学の過度な値上げを防ぎつつ、ほとんどの学校の参加を促しています。全国でも授業料の上限を設ける方式を導入すべきです。
私学が宗教や独自方針を持つのは事実だけれど、だから無償化は全て危険だという論理は飛躍している。問題の核心は、学校の設立主体ではなく、教育内容をどこまで社会として監督できるよう制度を設計するかにある。公立か私立かという線引きでは、本質を捉えきれない。
日本で議論すべきは、何に公費を投じるかという基準の方だ。たとえば、基礎学力、カリキュラムの透明性、第三者による教育の質保証。この三つを満たさない学校には、一律で公費を入れない。この基準を制度化すれば、宗教系であれ独自路線であれ、社会的に許容し得る範囲から逸脱できなくなる。
今の日本の問題は、私学だから危険なのではなく、教育行政側が「何を教育の公共性と見なすか」という定義を長らく曖昧なまま棚上げしてきたことにある。曖昧だから、私学無償化を「思想に公費投入」と短絡的に見てしまうし、逆に無条件に私学を市場の自由に丸投げする発想も生まれる。
公立に予算をつけるべきという主張にも一定の根拠はある。しかし、公立への投資と私学への助成は二者択一ではない。むしろ、公立だけを強化し続ける構造の方が危うい。独占構造は必ず劣化する。多様な選択肢を社会の側に確保しつつ、最低限の公共性を制度で担保する。そこが欠けたまま、公立か私立かの二元論で語っても、教育全体は上向かない。
私学無償化の是非を語るのなら、特定の学校の思想ではなく、教育の公共財としての枠組みをどこに設定するか。議論すべき地点はそこだと思う。




































