アートの才能を伸ばす女子教育
国立大学って東大以外は立地の悪い大学ばかりですよね?地方にある大学は論外にしても都心にある一橋もど
国立大学って東大以外は立地の悪い大学ばかりですよね?何か理由があるのでしょうか?
地方にある大学は論外にしても、一橋にしても東京都は名ばかりのど田舎だし、青山や池袋に鎮座する青学立教あたりとはえらい差だと思うのですが、あえてど田舎に大学を作る戦略だったのでしょうか?
そうだよね。数年のスパンでは結果が見えない基礎研究の分野にこそ国の支援が必要だ。
日本人学生では定員割れして、ステルス移民目的の外国人留学生を態々、海外に行って連れて来なけりゃやってけないような大学への予算付けはほどほどにして、大学の基礎研究へ回したらどうだろう。
大学を外国人留学生の受け皿かどうかで線を引く議論は、研究と教育を同じ財布の中で奪い合う発想の延長にある。基礎研究に時間がかかるのは事実だが、その土台となるのは研究拠点の密度であり、大学の属性ではない。
定員割れした大学に予算を突っ込むのが問題なのではなく、拠点としての機能を果たしていないまま温存されている構造が問題で、そこを切り離さない限り、基礎研究に資源を回しても循環は生まれない。
国が支えるべきなのは、学生数ではなく、クリティカルな問いを生み出せる場だ。留学生の扱いで大学を序列化しても、知の総量は一ミリも増えない。基礎研究を厚くするなら、拠点の選別と設計を先にやるべきで、受益者を属性で仕分けても本質は変わらない。
ノーベル賞という結果だけを見て反省を繰り返しているように見えて、実際には何も更新されていないことが問題なのです。予算の多寡が論点に見えて、核心はそこではありません。なぜ削っても平然と受け入れられるのか。その理由は、研究という営みを社会の側が構造として理解していないからです。
基礎研究は、成果がいつ出るか分からないという理由で軽視されがちですが、本質はそこではありません。拠点に密度が生まれ、問いを生み出す場が維持されているかどうかだけが将来を決めます。日本で予算削減が容認されてしまうのは、拠点がどのように知を生むのかという因果を社会が共有していないためです。理解されていないものは簡単に削られます。
国立大学が弱っているのは、額の問題というより、場の価値を可視化できない制度と文化の側に原因があります。問いを深く掘れる場所の希少性が社会全体で認識されていない。だから削減がペナルティではなく、単なる支出調整として扱われてしまう。
予算を増やすかどうかの前に、本来問うべきはここです。拠点の意義が理解されている社会では、研究予算を削るという発想そのものが成立しません。日本ではその基盤が欠けているから、どれほど受賞者が警鐘を鳴らしても響かない。予算の単純な増減ではなく、知を支える場の価値を構造として社会に刻み込む設計を先に作らなければ、話は永遠に堂々巡りです。
基礎研究は芽が出るかどうかも分からず、時代の評価に委ねられ、さらに時間もお金もかかる、という一見すると当たり前すぎて何の輪郭も持たないような言い回しが、そのまま強調のために反復されていくうちに、むしろ輪郭のないこと自体が主題のように肥大していく。そしてそこに論点だの核心だの構造だの可視化だの、といった言葉がまるで意味の伴走を拒むかのように無秩序に並べられ、結局それらが何を指しているのか、どの文脈に接続しているのかが曖昧なまま、ただ語の多さだけが存在証明になってしまっている。
雑談でジャッジするものではない、と断じるその断定も、雑談と論の境界をどう見ているのか全く示さないから、気づくと雑談を否定しながら雑談的な語りの循環に自ら巻き込まれていく構図になっていて、内容が反駁の形を取りながら、実際にはどの論にも踏み込まず、ただ反語的な言い回しだけがゆっくり反響していく。
つまり、基礎研究の不確実性を語っているようで、その不確実性を言葉の側に転写してしまい、意味の曖昧さが増幅したまま流れ続ける。核心を語る語彙を並べて核心を語らないという逆説的な空転が、逆に冗長さを強化し、最終的には何を否定し何を肯定したかったのかさえ判然としないまま、ただ語句だけが宙に漂い続ける、そんなレスになっている。






























