女子美の中高大連携授業
東京で地方国立はなぜこれほどに蔑まされるのでしょうか?
もちろん東京が私大全盛であることは知っています。
しかし例えば東北大あたりでも、名前を聞いた瞬間、ニヤっとされる感じや、から笑が出る感じがたまらなく不快です。
阪大ぐらいで、少しオッて感じになって、でも心の底では認めてない感じ。ちゃんと認められるのは京大からですか?
僕らは6教科8科目勉強したのに、なぜこれほど蔑まされなければならないのでしょうか?
世界で日本の私大だけというのは事実としては誇張です。
学力試験を伴わない入学制度は、海外にも少なくありません。アメリカのリベラルアーツ系カレッジでは、エッセイや推薦状、課外活動による総合評価が中心で、学力試験(SATなど)を任意提出にしている大学も多い。イギリスやフランスでも、特定校からの推薦や内部進学制度は存在します。
ただし日本との違いは、制度の目的と出口の保証にあります。海外の総合評価入試は、個人の探究性やリーダーシップなどを測る手段として設計されていますが、日本の指定校推薦や内部進学は、大学側の安定的な定員確保を目的として運用されている。この構造が恥ずかしいと感じられる要因です。
問題は学力試験の有無そのものではなく、選抜の設計思想が学問的であるか、制度維持的であるかという点にあります。前者は挑戦を促し、後者は停滞を再生産する。
日本の推薦制度が批判されるのは、その境界線を曖昧にしたまま、形だけを輸入してしまったことにあるのだと思います。
国公立の受験について日程的なものなどの規制を緩め、私立には少額一時金で入学が決まってから残り額を納めればいいって感じになると良いなぁ
昔から思うけど納付期日がすごくいやらしい日程だもん、もう少し考えようよ
悪質なのは補助金減らすとかしないと、高校実質無償化の件とかあってのさばってる感すごい
確かに、日本の大学入試制度は制度設計の古さが際立っています。
特に国公立の1人1校制は、受験機会を人工的に制限していて、受験生の選択権を狭めている。
中国や欧州では、国家試験を基準に複数校を出願できるのが一般的です。そこでは能力を測る、と進学先を選ぶ、が分離されているのに対し、日本はそれを一度に決めようとする構造にある。
これは単なる事務効率ではなく、国家の教育観そのものを映しています。つまり、管理する教育から選ばれる教育へ移行できていない。
試験日程や併願制限で学生を囲い込む構造は、結果的に大学側の緊張感を奪い、制度疲労を加速させています。
私立の補助金構造も同様。
推薦・附属枠を大量に抱え、納付期限で受験生を追い詰めるやり方は、教育というより営業に近い。国からの補助金が出ている以上、透明性と公平性が求められるのは当然ですが、そこがほとんど議論されない。大学経営が市場競争を装いながら、実際には補助金依存で保護されているという矛盾が、制度を歪めています。
入試の自由度を高めることは、単に受験生を楽にするためではありません。大学間の競争を本来の形に戻すためでもあります。
複数出願を認め、納付制度を柔軟にし、補助金の使途を明確化する。そうした制度的刷新が行われない限り、日本の高等教育は閉じられた公平さの中でゆっくりと沈んでいくことと思います。
指定校推薦を成績が下位の子に回すのはあまり良い事ではないね。
希望があれば、希望する生徒に回してあげるのが正しい在り方だとは思う。しかし、一般入試を目指す生徒が減れば減るだけ、普段の授業がやりにくくなる。そのために指定校推薦のリストをあまり公に出さない高校があるのは確かだし、理解できる。
指定校を下位に回す是非より前に、そもそも指定校が学校内部の力学をゆがめている点を見過ごすべきではありません。枠の存在そのものが、成績ではなく教室運営の都合で進路が決まる構造をつくっている。名簿を伏せるのも、下位に回すのも、元をたどれば制度が教員側に過大な裁量を渡しているからです。
本来、推薦は生徒の適性と大学の求める資質が噛み合う場であるべきです。しかし現状は、一般入試を維持するための調整弁として扱われてしまっている。この歪みは学校にも生徒にも負担を残すだけです。制度を続けるのであれば、割り当て方と透明性の基準を外部に開き、学校内部の都合が生徒の進路を左右しない形に整え直す必要があると思います。
公立高校の説明会に行ったとき、「指定校推薦の枠はあるが、公表はしていない。最初からそれでという考えはよくない。自分が行きたい大学があり、それに向かって勉強していく中で枠があるかどうかを聞きにきてほしい」と言われた。そういう考え方もあるんだ、と。
志望校を決める際に「あ、この高校はこの大学の枠があるんだな」とか、学校を選択する手段にもなると思うんだけど。




































