日大明誠が選ばれる理由とは?
国立大学病院の大赤字は国立大学の学費の値上げで対応すべきではないですか?
早苗さんが総理大臣となり、減税や賃上げが期待されている昨今、国立大学の問題で経済の足が引っ張られるべきではありません。
私大であれば大学が赤字になれば、どこも学費値上げで対応しています。当たり前の話です。
国立大学の学費を150万に上げれば、それだけで4000億円の財源ができます。
それを原資に、大学病院の赤字補填と医療従事者の待遇改善をすればいいと思います。
その通り。
だが命を守る仕事だからこそ奴隷化が正当化されてきたのも事実。
医療は聖職の名のもとに市場原理から切り離され、同時に政治的にも票田にならなかった。
その結果が、いまの構造疲弊。専業主婦控除の見直しだけでなく、医療職への賃金体系を国家戦略として再設計しない限り、崩壊は止まらない。
>「キュアよりケア」という理念自体は聞こえは柔らかいですが、実際には治さないことを前提にした医療体制への移行を正当化するスローガンにもなっている。
「キュアよりケア」という理念自体は聞こえは柔らかいですが、実際には治さないことを前提にした医療体制への移行を正当化するスローガンにもなっている。
>治さない医療が社会にどんな倫理的・経済的影響を及ぼすかという点を、行政側はまだ十分に議論していない故の浅薄な意見だろうね。
今の医療技術では治せない場合、治すより病気と共存するという考えがあります。例をあげるならば根治できないがん、先天性のハンディキャップ、一部のこころの病気などです。特に高齢者に対して寿命を無視した積極的な治療によってQOLの低下をもたらしたり苦痛を長引かせるのは倫理的にもどうかという話もあります。
もちろんいのちはその人のものですので、たとえ心身に苦痛を伴うものであっても1秒でも長く行きたいという人もいるでしょうが、その逆に、なす術もない耐え難い苦痛から逃れたいと考える人もいるでしょうね。
あなたの言う「共存する医療」という視点は、とても本質的です。
多くの人が誤解しているのは、キュアよりケアが治さない選択を意味しているかのように扱われていること。
本来この発想は、治療の放棄ではなく、治療と同じ重みで、生活の質や心の平穏を支えるという転換を指していた筈なのです。
ただし問題は、理念が制度に落ちるときに生まれる歪みです。
共に生きるという言葉が、財政論にすり替わり、治せない人を増やさないという効率化の名目に使われているという由々しき現実。
それは医療の哲学が社会の都合に飲み込まれる瞬間でもあります。
たとえば終末期医療において、もう治療の意味がないとされる場面でも、痛みの緩和や食事の支援、対話や見守りはケアとして欠かせない。
本来そこにこそ医療の人間性が宿るのに、制度設計の視点が医療費の抑制と結びついた瞬間、その温度が消えてしまう。
人間は治るか治らないかで区分できる、して良い存在ではない。
医療とは、たとえ「どの段階」でも生きている人を支えるという営みそのものであるべきだ。わたしはそう信じている。
だからこそ、本当に問うべきは治療の有無ではなく、どのように生を支える社会をつくるかという設計思想の方だと思います。
診療報酬の改定がインフレ時代の状況に追いついていない。
しかも、物価が上がり消費税もその分増えているけど、診療報酬にはその分の加算は無いに等しい。
そろそろ、健康保険料の天引き分の見直しをすべき。企業と折半ではなく、7割程度を企業側が持つような仕組みに変えた方がいいんじゃないだろうか?
もともと、病床数が多いことや、出来高性の診療報酬も時代には合わなくなってきている。
残念ながら。
死に方は選べないですし、周りが可哀想にと哀れんだところで、本人は野垂れ死にで大満足という事もある。
加えて、死んでしまえば後世や他人の評価が耳に届くこともありません、
死ぬ直前まで幸せで、地震で瓦礫の下敷きになり火事、生きたまま焼け死んだ。
幸せ?その死に方だけで幸せだった何十年の人生台なし?
要はそんなに単純ではないという事です。
>死に方は選べないですし、周りが可哀想にと哀れんだところで、本人は野垂れ死にで大満足という事もある。
もちろん、生き方も死に方も思いどおりに行くとは限らない、むしろ思いどおりにならないことの方が多いかもしれない。
だからこそ、どのように生き死にしたいと思うかが重要なのでは?




































