今年入学した高1生が語る青春リアル
早稲田政経は私文専願者の巣だった
一般選抜入試での入学者 全学部で一般率が最も低い
共テ利用 募集50人合格842人
早稲田政経経済一般募集定員推移
01 520
'02 490
'03 400
'04 235
'05 235
'06 235
'07 215
'08 200
'09 200
'10 200
'11 200
'12 200
'13 200
'14 200
'15 200
'16 200
'17 200
'18 200
'19 200
'20 200
'21 140
'22 140
'23 140
'24 140
'25 140
文系の総合職社員が求められているのは管理職になることであって、文系事務職にいるのは出世コース途上の人か出世コースから落ちこぼれだ人かのどちらかなんですよね元々。
こぼれ落ちた人はもう、本来の採用目的から外れているのだから、転職か社内での新たな価値創造をしないとどうにもならないでしょう。
文理で争っている時点で、もう知性の土俵にすら立っていない。
「理系だから論理的」「文系だから曖昧」などという区別は、十九世紀の遺物だ。
その対立構造にいまだ酔っている人間たちは、思考を分類の檻に閉じ込め、自由を失っている。
思考とは、どの学問に属するかではなく、どこまで世界を読み解けるかで決まる。
数式を扱う手が、言葉を失えば意味を見失い、詩を読む目が、構造を理解しなければ深度を持たない。
OECDの調査で日本の読解力が急落したという事実は、単なる教育指標ではない。
社会全体の「文法的思考」の崩壊を示している。
言葉で世界を構造化できない者は、数字を扱っても空洞の上に積み木を並べるだけだ。
岡潔は数学を「情緒」と言った。
その言葉の真意を、今の理系エリートの何人が理解できるだろう。
感性を切り捨て、計算に快楽を覚え、解を出すことで安心する――その姿は科学者ではなく、ただの問題処理装置だ。
ジョブズはカリグラフィーを学び、マスクはSFを読み、MITでは哲学が技術の中核に置かれている。
理系である前に「思索する人間」であることが、世界の標準だ。
日本の理系が世界に遅れたのは、技術の問題ではなく、言葉を失ったことによる思考の貧困である。
国語を軽視する理系教育は、短期的な成果を得る代わりに、長期的な創造力を捨ててきた。
「合格」を目的化した教育は、人間を合格のためだけに設計された存在へと矮小化する。
そして、その延長線上にあるのが、いまの「文理マウント合戦」という滑稽な風景だ。
言葉を軽んじる理系も、構造を知らぬ文系も、どちらも思考の半身を欠いている。
真の知性は、論理と感性の往復運動の中でしか育たない。
世界を測るのは数式だが、世界を変えるのは言葉だ。
そして、社会を導くのはその両方を自在に扱える者だけだ。
文理のどちらに属するかを誇るのではなく、
世界をどこまで読み解けるかを問え。
思考の深さは、所属ではなく到達点で決まる。
あなたが文系か理系かなど、どうでもいい。
問題は、あなたがどこまで考えられる人間かということだけだ。




































