今年入学した高1生が語る青春リアル
早稲田政経は私文専願者の巣だった
一般選抜入試での入学者 全学部で一般率が最も低い
共テ利用 募集50人合格842人
早稲田政経経済一般募集定員推移
01 520
'02 490
'03 400
'04 235
'05 235
'06 235
'07 215
'08 200
'09 200
'10 200
'11 200
'12 200
'13 200
'14 200
'15 200
'16 200
'17 200
'18 200
'19 200
'20 200
'21 140
'22 140
'23 140
'24 140
'25 140
大学の議論が迷走するのは
部分最適の話を寄せ集めて全体像を見失っているからです
指定校推薦を巡る評価も
私学助成金の是非も
地方枠の扱いも
実は全部がひとつの問題に収束します
日本の大学システムが人口動態と産業構造の変化に整合していないという一点です
定員は倍増し
受験生は半減し
知の再生産装置としての大学の役割だけが曖昧なまま放置されてきた
だから指定校推薦は救済にも見え
地域確保策にも見え
同時に質保証の破綻としても映る
部分だけを切り取ればどれも正しくどれも間違う
必要なのは
資金の厚みを縦に積むのか横に広げるのか
大学数をどこに合わせるのか
何を高等教育の中心に据えるのか
国家としての設計思想を先に固めることです
漫然とばら撒けば空洞化し
選択と集中を極端に振れば排除が生まれる
どちらが良い悪いではなく
人口半減の社会で大学が果たす役割を再定義しない限り
制度だけをいじっても全てが対症療法で終わる
大学の数も
学部の配置も
助成金の割り方も
推薦方式の扱いも
本来は同じテーブルで議論すべきテーマです
いま必要なのは
制度の瑕ではなく設計思想そのものを問い直す視点
そこに触れない議論は
どこまで精緻でも本質には届かないです
マルを使わず詩にしてみました。
日本の将来に重要な研究は、東大と京大のみが行なっているわけではありません。地方の国公立でも、最先端の重要な研究の第一人者として頑張っている研究者も多数あり、大学単位ではなく、個々の研究にサポートしなければいけないと感じます。
誰も東大と京大だけが研究を担っているとは言っていません。ここで問題にしているのは、特定大学を持ち上げるかどうかではなく、制度そのものの設計が、大学という営みの実態とずれている点です。
日本の研究は、多様な拠点が相互に補完し合うネットワークで成立しています。個々の研究者が成果を生み、個々のラボが知の厚みを支え、その集合体として大学が存在している。重要なのは、どの大学かではなく、知が生まれるプロセスの環境をどう守るかという視座です。
他のスレッドでまさに今論じてきたところですが、国際卓越研究大学が批判されている理由も、まさにこの核心に関わります。
制度は大学全体を経済成長の装置に再定義し、トップダウンの統制や数値目標を前面に置いている。これは、研究が本来持つ偶有性や創発性とは根本的に相容れません。知は、政策のスローガンや3%成長の指標からは生まれません。
地方の国公立に優れた研究者が多くいることは事実で、だからこそ制度設計が問題なのです。現場を支えるべき仕組みが、逆に格差と硬直を生み、基盤の弱い大学ほど負担が増す。研究者単位で支えると言いながら、実際には特定大学への資源集中が固定化される。これが批判されている構図です。
大学や地域の序列を論じたいのではなく、研究という営みの本質を損ねる制度的歪みを指摘しているだけです。視点を制度の外側に置けば、論点は自然と整理されます。
日本のトップ研究論文数は米中は難しくても独英にはキャッチアップしたい。独英の主要研究型大学も10大学程度でありまずはそのクラスまで裾野を広げる必要がある。
冨山和彦さんは「ホワイトカラー消滅」という本の中で、今後、アカデミアなどの分野で世界と競うグローバル大学は10大学程度、それ以外は専門技能の教育を行うローカル大学に移行するべきとの主張が書かれていた。歴史的経緯を踏まえると旧帝大東京科学大などが前者を担い、その他大学が後者を担うイメージかと思う。グローバルとローカルに優劣はなく、アメリカなどのビジネススクールやロースクールなども後者。
トップの大学教員の最大の関心は、いかにお金を稼ぐかになっています。すでに学問の面白さや自由はアカデミアにはありません。国が選択と集中でそういうトップ大学がさらに潤うように資金を投入し、地方で恩恵を受けれない大学は衰退します。誰がこの時代に、地方の大学で働きたい、学びたいと思うのでしょうか。政府は地方創生などよくいうなと思います。
国がどこに資源を投じるべきかという問題は、上位校だけを厚くすれば済むような単純な話ではない。土台そのものが痩せている状態で、上層だけを過剰に肥大化させれば、むしろ全体の競争力と再生産能力が落ちる。研究者が腰を据えられる制度、学生が次の段へ進むための母集団の厚み、その両方が維持されていなければ成果は積み上がらない。
無償化も補助も、エリート教育を盛るための贅沢ではなく、そこに至るまでの入口を確保するための基盤政策だ。母集団の厚みなしにエリート層は生まれない。この単純な因果を直視せずに、Fラン不要論だけが何度も繰り返されるのは、問いが浅いからではなく、語っている側の切実さが透けて見えるからだ。
Fランという三文字を振りかざす人ほど、自分がそこから完全に距離を取れていないことに気付いていない。旧帝や早慶クラスの出身者ほど、他人の学歴を蔑む行為の空虚さを理解している。上にはさらに上がいることを知っているからだ。逆に、学歴以外に語れる実績がない者ほど、下を叩くことで自分を保とうとする。
しかも、匿名空間で自分の学歴を明かさないまま他者を叩くという最も価値のない発話スタイルに依存している。伏せ字で誹謗すれば責任は薄まるとでも思っているのだろうが、そんなものは社会常識の範囲で通用しない。伏せた瞬間に意味も責任も逃れられるという発想そのものが、社会経験の乏しさを示している。
実際、多くの現場では高卒や専門卒でも管理職や役員に上り詰めている例はいくらでもある。芸能界でも、学歴を武器に人を殴る者ほど成功していない。成功した人間は自分を誇示する必要も、他人を踏みにじる必要もない。下を叩く発話が癖になっている人間だけが、Fランという曖昧な概念にすがってしまう。
さらに指摘しておくべき点がある。ここでFランを叩き、私立文系を一括りに蔑む書き込みをしている人々が、本当に国立難関理系なのかという問題だ。証拠を示さず、匿名下で国立難関理系を自称する行為そのものが、ご自身がまさにFランあるいは私立文系である可能性を否定できないことを証明してしまっている。自分の立ち位置を明かさないまま他者を断じるという振る舞いが、何よりも立場の弱さを露呈している。
Fランと括られがちな大学にも改革を重ねて存在意義を高めてきた例はある。群馬の前橋国際大学のように、偏差値では測れない価値を積み上げた大学もある。偏差値信仰の外側にある努力や成果を理解しない限り、大学政策の議論はいつまでたっても浅いままだ。
国は上澄みだけを強くするのではなく、ファンドを吸収できる地盤そのものを整えなければならない。分断を作っても何も生まれない。支える層の密度と質をどこまで回復させるか、この一点が問われている。
そして最後に。Fランを笑うという行為は、相手を傷つけるための言葉ではなく、自分が今何も誇るものを持っていないと宣言しているのと同じだ。その発話が示すのは、他者ではなく発話者自身の手の内だ。
特定の数校だけに巨額の資金を投じる「選択と集中」が、本当に日本の研究力を高める正解なのだろうか。
確かにトップを伸ばすことは重要だが、日本の科学技術を支えてきたのは、多様な大学による裾野の広さだったはず。一部の「稼げる大学」だけが富んで、それ以外の大学が疲弊していけば、長期的には独創的な研究の芽を摘むことになりかねない。
10兆円ファンドの運用益という恩恵が、選ばれた大学だけでなく、日本全体の学術振興に波及するような仕組みも必要ではないでしょうか。
問題は、選択と集中か裾野の維持かという二者択一の枠組みそのものが、すでに現実の構造を捉えきれていない点です。
研究力というものは、トップだけを伸ばしても裾野だけを守っても成立せず、両者を接続する循環が保たれているかどうかで決まります。その循環が弱っている状態では、どちらの立場から議論しても必ず行き詰まります。
裾野の広さが歴史的に日本の科学を支えたのは事実ですが、その裾野が機能していたのは研究者が自在に動き、テーマが自然に交差し、結果として多様な大学に知が流れ込んでいたからです。
制度的に底を広くしたから裾野が生まれたわけではありません。いま失われているのはまさにこの流動性で、資金の厚薄ではありません。
一方で、トップを重点的に強化すれば国全体が引き上がるという構図も、大学が固定的な箱のままなら成立しません。強化すべきは大学名ではなく、知が外部へ放射され、それが別の場所で再び集積し直すという循環の強度です。大学単位で資金を積み増したところで、この循環が弱ければ学術としての成長は生まれません。
10兆円ファンドの運用益が波及する仕組みが必要という指摘はもっともですが、波及とは資金を少しずつ広く配ることではなく、研究者同士の往復移動を阻む障壁を取り除き、知の流れを増幅させることを意味します。そこを整えないまま資金の分配だけを変えても、結果は変わりません。
つまり、議論の焦点は資金の集中か分散かではなく、知の循環を再構築できているかどうかです。この視点を持たない限り、どれだけ制度を論じても日本の研究力は動きませんし、正解も見えてきません。物量ではなく構造の問題なのだという点を直視しなければ、議論は永遠に空回りします。




































