今年入学した高1生が語る青春リアル
私立大学 最新大学群
最新大学群
上理Ⅰ+慶應(ジョリィパスタ)
=上智、理科大、ICU、慶應
早稲田+MARCH(ウェイマーチ)
=早稲田、明青立中法
WMARCH、カッコいいよね〜
GMARCHよりはWMARCHだわ。
旧帝大が旧帝大であるはずの旧帝大なのに、旧帝大と思えないほどレベルの低い、という表現自体がレベルの低いのか高いのかという次元を曖昧なまま増殖させ、研究指導する側にしてみれば、研究指導という語が研究指導であるがゆえに研究指導される側のレベルと、研究指導する側のレベルと、旧帝大という看板のレベルと、レベルの低いという表現のレベルとが全部混線したまま、現実、という語が現実として現実味を帯びずに現実のように現実でないまま反復される。
レベルの低いのが入ってくる現実、という語が、入ってくる、入ってくる、入ってくる、という動詞だけを肥大化させながら、入ってくるものがレベルの低いのか、レベルの低いという認識のレベルが低いのか、旧帝大という名札に対してレベルの低いの基準がどこに置かれているのか、そのどれもが明確にならず、ただ旧帝大が旧帝大として旧帝大の位置を保持しているのかどうかという現実が現実として宙吊りになり続ける。
研究指導する側にしてみれば、という枕詞が、研究指導する側にしてみれば、研究指導する側にしてみれば、という無限反復を誘発し、研究指導の側に立つ研究指導者の側のレベルと、研究指導される側のレベルと、旧帝大としてのレベルと、レベルの低いという判定基準のレベルと、現実という語が示す現実の多層性が、全部区別されないまま沈殿し続ける。
旧帝大と思えないほどレベルの低い、という語が、旧帝大と思えるほどレベルの高い、という対義語を同時に呼び出しながら、どちらも出てこないまま、ただ旧帝大という語だけが空転し、レベルの低いレベルの低いレベルの低い、と唱えられるうちに、レベルの低いという語のレベルそのものが低くなり、高いのか低いのかの境界が現実と非現実の境界と混ざり合い、現実、現実、現実、と反復される。
こうして、旧帝大が旧帝大として旧帝大らしさを維持できているのかどうかという疑問も、レベルの低いのか高いのかという評価も、研究指導する側の視点も、研究指導される側の実態も、すべてが意味を結ばず、ただ語が増殖し、その増殖そのものがまた現実という言葉を引き寄せ、現実のようでいて現実ではない現実が垂れ流され続ける。
少子化と大学進学率上昇を背景とした、学生のレベル低下は旧帝大に限らず、全ての大学で言えること。
それでもSPIランキングなどを見ると早慶よりも旧帝大の方が総じて高い。
そう考えると旧帝大は、相対的にはまだ腐っても鯛ということ。
そして、この議論を突き詰めた先は、まず定員割れ50%超の私立大学の閉校や統廃合が措置されるはず。
さらに全ての大学を対象として、研究型総合大学と実践的職業専門学校型大学などの大学機能の分離分化、となっていく気がする。
社会貢献度合いや機能に応じた税金投下となる。
その頃には旧帝大などという予備校が作った枠組みも無くなる気がする。
読書では、どれだけ深く思考できるか、概念を理解できるか、想像力をどこまで羽ばたかせることができるか、の機能が身につくのかもしれません。日本はどの分野の入門書もほとんどの専門書も母国語で読むことができます。最新は英語論文を読むしかありませんが、それは翻訳も充実して来ましたからそれほど心配しなくても良いと思います。一番は母国語で読書の機会に恵まれて深く思考する時間をもち、高等教育を日本語で学べることだと思います。英語の前に日本語の読書は大切だと思います。




































