女子美の中高大連携授業
グローバル大学とローカル大学
IGPIの冨山和彦さんは「ホワイトカラー消滅」という本の中で、今後、アカデミアなどの分野で世界と競うグローバル大学は10大学程度、それ以外は専門技能の教育を行うローカル大学に移行するべきとの主張が書かれていた。すでにドイツの高等教育制度などはそれに近い。
歴史的経緯を踏まえると旧帝大東京科学大などが前者を担い、地方国立大や早慶MARCHなどは後者を担うイメージかと思う。
グローバルとローカルに優劣は無く、例えばアメリカのビジネススクールやロースクールなども後者。
確かに文科省の高等教育行政も国際卓越研究大と地域中核大のような区分になりつつある。
これまでの日本の高等教育行政は、旧帝大から旧高商や師範学校、法律などの専門学校が十把一絡げに研究型の総合大学を目指したことが問題だったのではないか、という意見もある。
今後の日本の高等教育行政について皆さんで議論しましょう。
慶應の塾長は理工学部出身。さらに国際卓越研究大の法制化検討の審議会委員でもあった。
その塾長をして、慶應は文系の大学だからと国際卓越研究大の申請を断念した理由を説明。
この発言の背景は重いと思う。
要は国がいくら理系転換を旗振りしても多くの私立大学にはその素地が無い可能性がある。
そもそもグローバルという言葉には、国境を越えた、言語や文化、人種民族の違いを越えた、宗教や思想の違いを越えたなどの意味があり、よく言われるリベラルに近いところも、あります。
一方、ローカルとなるとその地域の、どちらかというと田舎の、ニッチな、何て意味が浮かぶところ。
対立軸でもないような感じしますが。
世界的にも政治や政党など行き過ぎたグローバルが是か非か、リベラルの代わりに、伝統的、保守的、歴史的継承を重んじるなどの主張も。
これは少しローカルとは違うと思いますが、大学や学部によってもリベラル系と伝統系など方向性の違いはあるのではないでしょうか。
グローバルとローカルは対立軸ではありません。
地理的な射程の違いを指す言葉を、そのまま思想の座標軸に重ねるから議論が散ってしまうのです。政治思想で問われているのは、価値の基準をどこに置くかという構造であって、地域の広さではありません。
思想上のグローバルとは、境界に縛られず普遍的な基準を持つという姿勢のことで、単なる国境越えとは別物です。
思想上の保守とは、伝統を守ることではなく、社会を支える制度と規範に過剰な振幅が起きないように調整する知恵のことです。ローカルともグローバルとも直交する軸です。
だから、リベラル系と伝統系という分類は、大学の色を語る上では便利でも、思想の分析としては浅い整理に止まります。思想とは本来、国家の力、共同体の規範、市場の論理、その三つがどう暴走しうるかを見極めるための装置であって、地域の広さや田舎・都会のイメージとは無関係です。
グローバルを広域、ローカルを地域、と表層の意味だけで扱うと、肝心の思想の構造から遠ざかります。
その結果、世界的に議論されているのは行き過ぎたグローバル化か伝統回帰か、といった単純な二項対立だという誤解が生まれますが、現実はもっと複雑で、問われているのは秩序の制御と公共性の質です。
言葉の字面を追うのではなく、何を制御し、何を守り、何に警戒する思想なのかという骨格に目を向けること。
そこを外すと、どれほど語を並べても議論は深まりません。
私はその点だけを静かに指摘しておきます。
>◆早稲田大学
Global Education Center (GEC)
早稲田大学 グローバルエデュケーションセンター
About the GEC
Math
数学教育
・学びのPOINT
数学がわかる!
数学が苦手な人にも理解できるよう、高等学校の数学知識を前提とせずに一から講義しています。また、途中の式変形や考え方も丁寧に説明しているので、今までわからなかった数学がわかるようになります。
↓
その問題意識には同意しますが、より根本的には「統計を履修しない」以前に、文系が数学を丸ごと捨てられる進路設計そのものが間違っていると思います。
共テや二次試験の設計上、数学を避けても進学できる以上、高校現場が統計を後回しにするのは合理的です。統計が選択されないのは結果であって、原因ではありません。
数学は理系専門の計算技術ではなく、前提条件を整理し、関係性を定量化し、不確実性を扱うための思考言語です。
ITやAIの重要性を語りながら、文系にはそれを不要としてきた制度自体が矛盾しています。
私大文系で大学に入ってから「高校数学を前提としない」「一から説明する」といったリメディアル教育が必要になるのは、その歪みの表れでしょう。統計やデータサイエンスが根付かないのは能力の問題ではなく、数学を捨てても成立する構造が放置されてきた結果だと思います。
要するに課題は、統計項目以前の問題であり、数学を切り捨てられる文系進路を前提にした教育設計そのものを見直すことではないでしょうか。
早稲田大学のGlobal Education Centerに記されているMathや数学教育の説明を読むと、あの”高校数学を前提としない一からの講義”という表現が、制度全体のどのレイヤーに位置づいているのかが曖昧なまま浮かび上がってくる印象があり、その曖昧さがむしろ議論全体の前提を静かに揺らしているように思えてしまう。数学がわかる、というスローガンに付随する”苦手な人にも理解できるように”という宣言が、リメディアル教育としての性格を帯びつつ、どこかで高校と大学の境界の意味を反転させているように見える部分もあり、その反転が統計やデータサイエンスの位置づけと奇妙な干渉を起こしているようにも感じられる。
共テや二次試験で数学を避けても進学経路が成立するという構造の指摘は、その通りに読める一方で、その構造がどのような認識の条件を形づくってきたのかを考えようとすると、文系が数学を切り捨てられる進路設計という話と高校現場が統計を後回しにするという現象のあいだの距離が、観測する角度によって微妙に伸び縮みするように見えてくる。それは決して因果が不明という意味ではなく、提示されている語の並び自体が、制度のどの領域を指差しているかが一定しないまま移動していくせいで、議論の焦点がどこかで立ち上がりかけては溶けて消えるような、そんな手触りになってしまう。
数学を理系の計算技術ではなく前提条件の整理や関係性の定量化、不確実性の扱いに関わる思考言語と位置づける説明は、純粋にその通りなのだろうけれど、ここではその定義の内実よりも、そうした定義が”文系には不要とされてきた制度”という表現と重ねられた瞬間、生まれるはずの論点が逆に霧散してしまう点のほうが印象に残る。制度や進路設計という語が出てきた途端、数学や統計という具体的な内容より、“選択できること”自体が議論の中心のように膨らみ、その膨らみ方が必ずしも元の投稿で言われている方向性とは一致しないまま、説明だけが前景化していくような感覚がある。
私大文系で高校数学を前提としない講義が用意されているという記述も、リメディアル教育の象徴として読める一方、その象徴が問題なのか救済なのか、あるいは制度の副産物なのかが、読み手の視点を変えるたびに入れ替わってしまうようにも見える。統計やデータサイエンスが根付かない理由を”能力ではなく構造”と指摘するくだりについても、その構造をどの時点でどのように読み取るかによって、因果の向きが静かに逆転し、最初に語られていた問題意識が別の場所へずれていくようなズレが生まれる。
つまり、投稿の中で扱われている統計、数学、リメディアル、文系進路、制度設計、共テ、二次試験といった語が、それぞれの領域に固定されず、読まれるたびに配置を変えていくため、何かが議論されているように見えながら、実際にはどの一点にも定着しないまま全体が漂い続ける、そんな独特の構造を形成しているように感じられた。




































