今年入学した高1生が語る青春リアル
韓国2040年、大学修学能力試験(修能) 廃止へ 画一的で日本の共通テストも廃止すべき??
日本の大学入学共通テストにあたる全国統一の大学入学試験である修能
修能は受験生を成績で序列化する仕組みのため、過度な競争と私教育依存を助長しているとの見方も根強い
教育界では現行制度の限界は明白」として制度改革を支持する声が多いようです
個々の多様な思考力や記述力を測りにくく、点数や偏差値に偏重しがちで、結果として全員が同じような対策『画一的な勉強』に陥りやすいという問題点があります。
日本の共通テストも同じ状況ですが日本も韓国同様に共通テストは廃止すべきでしょうか?
予備校関係者です。日本の共通テストなど大学入試制度も過渡期を迎えています。少子化やAIの進化発達する時代の流れが大きく変化している中で、大学や高校の在り方、そして大学入試方式を最適化しくなくてはなりません。
たとえ、私の勤務する大手の予備校が必要でなくなってきても自分の子供と同じように愛おしい生徒たちのために。
若輩が生意気言いますが、姿勢としては評価します。ただ、論点は心構えではなく制度設計です。
共通テストや入試制度が過渡期にあることは事実ですし、少子化やAIの影響も否定しません。ですが、それらは原因ではなく条件にすぎない。問題の核心は、日本の入試制度が評価できるものしか評価しない構造に固定されてきた点にあります。
共通テストが象徴しているのは、公平性ではなく処理可能性です。大量の受験生を、短時間で、数値化可能な形に落とし込む。その要請が制度を歪めてきた。AI時代になって初めて壊れたわけではない。もともと無理を抱えた仕組みだった。
予備校が不要になるかどうかは本質ではありません。
問われているのは、どの能力を社会が価値として認識し、どこまでを制度で拾い、どこからを自己構築に委ねるのか、その線引きです。
最適化という言葉を使うなら、まず最適化すべきはテスト形式ではなく、評価不能な期間や成果未確定な成長をどう扱うかという思想の部分です。そこが変わらない限り、共通テストを廃止しても、総合型を増やしても、本質は何も動きません。
生徒を思う気持ちが本物なら、
制度の延命ではなく、制度が拾えない人間をどう社会につなぐか。
そこまで踏み込んで初めて、次の入試像が見えてくる筈です。
外国語試験で英語だけ難易度設定間違えたかな?確かに何はともあれ英語が世界標準で授業も必須で学ぶ人も多いから簡単な問題は出しにくいのかな?それに英語圏以外の帰国子女でも無ければあえて他の言語で受験する必要も無いでしょう。事実上大半が同じ難易度なら大した不公平差にもならないでしょう。
英語だけ難易度設定を誤ったかという話は、どうしても表層に留まります。
私自身、理III志望時に二次英語の難易度を避け、ドイツ語を選択しました。結果として合格はしませんでしたが、それをもってドイツ語選択が誤りだったとは思っていません。兄と父はフランス語で、同級生には韓国語で合格した者もいた。さらに45歳で理IIIに合格した知人はドイツ語だったそうです。
この経験が示しているのは、どの言語を選んだかが合否を決める本質ではないという点です。英語が世界標準だから難しくせざるを得ない、他言語を選ばないから不公平は小さい、という整理は制度側の都合であって、能力評価としての必然性ではありません。
名目上は選択制でも、実質的に英語一択の構造になっている時点で、その試験は語学力測定というより通行証に近い。だから受験生は思考力や専門適性ではなく、回避戦略や科目選択の最適解探しに力を割くことになる。
語学は社会に出てからでも十分に獲得可能な能力です。それを人生の早い段階で強く足切りに使う合理性が本当にあるのか。難易度の均しで不公平が解消されるかどうかではなく、なぜ英語だけが制度の基盤に置かれ続けているのか。そこを問わない限り、入試は形式を変えても本質は動きません。
指摘されている海外事例は事実ですが、結論の置き方が少しズレています。
韓国で随時募集が問題化し、修能に揺り戻したのは、競争が激しすぎたからではありません。評価軸を多元化したにもかかわらず、大学側が何を測りたいのかを言語化できず、結果として家庭の資源差をそのまま反映する制度になったからです。つまり失敗したのは選抜思想であって、競争そのものではありません。
中国の科挙的競争文化が問題という整理も同様です。皆が一流大学を目指すから歪むのではなく、一流大学に入った後の評価軸が単線で固定されているから、入口に全てが集中する。出口が多様なら、入口はここまで過熱しません。
私が英語入試で言っているのも同じ構造です。改革と問題発生のイタチごっこは、制度をいじっているつもりで、能力観を一切更新していないことから起きます。何を測るかを曖昧にしたまま、形式だけ変えれば、必ず別の不公正が生まれる。
競争を緩めれば解決するという発想も、試験を増やせば公平になるという発想も、どちらも短絡的です。本質は、大学がどの能力を社会に供給したい装置なのかを明示できていない点にあります。
そこを直さない限り、国が違っても、入試制度が違っても、同じ問題が形を変えて繰り返されるだけです。競争文化の問題に見せかけて、実は評価設計の問題です。




































