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投稿者: 自然体 (ID:KR1jc1G02kE) 投稿日時:2010年 11月 28日 08:25
この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。
2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝
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【1971892】 投稿者: じゃい子 (ID:KMc2X/2mhnc) 投稿日時:2011年 01月 07日 22:09
視点ファンさん
本人でないのでどれだけ正確かはわかりませんが、
彼らは、超理系人間でしたので自分の進路は明確でした。
なので大学でなにを勉強したいかははっきりしていましたね。
それで結論をだしたのだと思います。
遺伝さんが書いてくださっているように
さまざまなケースの中にこういう人たちがいるのだと思います。
私は、
*そんな贅沢が許されなくて、ただの変わり者って感じになってしまった人も
知っている。
そんな才能にスポットを当てたいんです。 -
【1972236】 投稿者: 根本的 (ID:wwmfnzaRenU) 投稿日時:2011年 01月 08日 10:27
じゃい子さん
>根本的、視点派 カメレオングループのじゃい子です。
おひさしぶりです。じゃい子さん。
ガンガン言ってやってください、ガンガン。
>私は、数学が突出していて英語めためたで国立にとどかないくらいの子達の中に 優秀層がいるかもしれないと思うんですよ。
私もそう思いますよ。 -
【1972333】 投稿者: 知的=量的 (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 08日 12:25
こんにちは。
ちょっと気になるところで、「一芸」とはそもそも何でしょうか。「秀でる」とはどの程度なのでしょうか。
今後の議論をかみ合わせるための少し前提として、この点を考えてみたいデス。
まず、今のわたしの考えですが、まず、どんな分野かについては、例えばプロとして成立する分野のイメージです。次に数量的なイメージですが、「一芸に秀でる」レベルとは、最低でも5~10万人に1人の能力。(全体としてたぶん日本の現在の国民1億人で1000名の方々はおられる量的イメージ。歴史的に積み重ねれば何十万~数百万人オーダーの奥行き)
皆さんの分野、レベルのイメージと量的イメージは私と同じでしょうか、違うでしょうか。このレベルは実績が既に出てマスコミに取り上げられるエスタブリッシュを別にすると、普通の出会いで目にしにくい確率であるわけで、実は経験談からは大変に議論しにくい話題のように思います。
分類を簡単にまとめると、
(1)一芸に秀でる:0-10ppm(20ppm) <ただし20ppmは最も甘いケースでのイメージ>
(2)ある分野で少しできる:10ppm-10000ppm
(3)普通以下:上記以外
→ 少し詳しく書いてみます。
ご興味のない方は例によってスルーください。
「一芸に秀でる」の一芸とは、他者からみて価値のある何者(=一流のプロスポーツ選手とか、一流のプロの音楽家とか、一流のプロの画家とか)がまず思いつくところでありますので、仮にここからスタートします。(社会で、「一芸に秀でる」・・まあ確かにそうだと見られるところから出発します)
試験科目としての数学ができる、化学ができるというのは、便宜上作られた教科ですから、受験勉強で考えようが教科書の示す範囲での勉強で考えようが、そこに本質的違いはなく教育における便宜上の区分け・分類ですね。この「お勉強ができる」をとりあえず、今の議論では、紛らわしい(*)ので当面除きます。<いずれ議論する機会があると思います>
その場合に「一芸に秀でる」レベルとは、最低でも5万人に1人とか、10万人に1人なのは当たり前で、たぶん50万人~100万人に1人とかのイメージです。つまり濃度で換算すれば1ppm~20ppmの量的な議論になる方々です。・・このようなできるを判りやすく水泳やプロゴルフ、プロ野球で考えれば、誰もが一芸に秀でると無条件に思う北島康介選手、石川遼選手、鈴木一朗選手は、名だたる歴史上の伝説の名選手とも方を並べたり凌いでしていますから、ppbのオーダーですがここではその方々(トップ・オブ・トップ)には敬意を表しつつ、別格として、今はそれよりも「低い基準」を考えます。たぶん、一流トッププロの集団は、ppbまでいかなくても成立する集団・層だと見えます。
ここで、1-20ppmは、甘い基準と言っても、難しさから言えば、すごい高いレベル(=非常に少数)でのことです。できない我々から見て、尊敬すべき層の人達です。このような「一芸」が何分野あるか、仮に100の分野を価値ありの大きな分野と認定すると、0.01%から0.2%になります。それでも多くの分野まで許容しても10000名に1人か、1000名に2名。つまりとてもわれこそはと主張する応募者の中の10~50倍くらいの倍率の話ではなく、たぶんもっと希である。例えば何の分野でも良いデスが、都大会から関東大会に出た位や全国大会の下の方は、できる方々とは思いますが、一芸に秀でるというのでしょうか、%オーダーですからたぶん、いわないでしょう、別の例で、将棋の大会でようやく東京地区大会出場の平凡なレベルだと、たぶんいわないでしょう、ということです。(仮に、これ以降、このクラスの層は1%位<少し幅を持たせて0.2-2%>は、「少しできる」と呼ぶことにします。プロとして食べられないレベルは、必ずしも一緒ではないですが、アマチュアレベルの上位と概ね対応するイメージということになります。「趣味の世界で秀でている」という表現イメージにも相当しているようにも思います。)
(*)ポテンシャルの評価など、「質的」に議論しにくく、此処で確認したい「量的」な議論では、見やすくするためにとりあえず外します。 -
【1972392】 投稿者: じゃい子 (ID:KMc2X/2mhnc) 投稿日時:2011年 01月 08日 13:45
根本的さん
あけましておめでとうございます。
ここの掲示板ずっと拝見していました。
皆さんのようにフィールドが広くないので
研究職の主人の周り、今までであった人達ベースにしか
書くことができませんがやはり日本の教育の見直しをどうしても感じます。 -
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【1972455】 投稿者: じゃい子 (ID:KMc2X/2mhnc) 投稿日時:2011年 01月 08日 14:54
知的=量的さんへ
具体的に数字で議論していくっていうのは、とても大切なことだと思いますが、
こうした数字わけできないところに潜んでいるのではないのでしょうか。
特に塾で研磨され高学歴の親に指導されの子供たちに押されて
突出していても見えづらい位置に高校まではいるのかもしれません。
こうした想像論って不毛ですよね?
中村修二さんは、大学入試を廃止し、入学希望者全員入学にすべきだと主張している
彼は、確か本で高校の時はバレーボールに明け暮れていたと書いていました。
入口を広くして出口で絞る
そうすれば大学で燃え尽きる生徒などなくなるのではないでしょうか。 -
【1972473】 投稿者: 凡才 (ID:AFkWzddDark) 投稿日時:2011年 01月 08日 15:10
ジャイ子様
こんにちは。
変わり者の点だけで見れば、このスレには主義主張のしっかりした変わり者がたくさんいますね。(私も含めて) -
【1972483】 投稿者: じゃい子 (ID:KMc2X/2mhnc) 投稿日時:2011年 01月 08日 15:18
凡才さん
こちらの掲示板の常連の方々は、個性がとても強いけれど
非常に温かいものを感じます。
わが子だけが子供ではなく子供達は、日本の宝ですよね。
(古臭い言い方ですが) -
【1972503】 投稿者: 知的=量的 (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 08日 15:44
今日の次の議論は、「一芸に秀でる」議論の深掘りですが、
(A)「一芸に秀でている人が少ない」
の他に
(B)「難関大学でも、”一芸に秀でている”ことばかりが、マスとしての受験者・入学候補者に期待されるメインの人間像でない」
(C)「一芸に秀でる」ということを評価することの難しさ
(D)一芸を評価する、以外で代用できないのかという議論
が次に注目点としてあると感じられます。これらは生徒の外部にある考慮の影響だったり外部からの期待・要請にですね。
最後に(E)ほんとうに本人は、一芸に秀でたいのか、ノーベル賞学者の判りやすいイメージに飛びついて目標にしていないか です。
・・・以下、それぞれ少し詳しく書きます。・・ご興味のない方はスルーください。
これらの社会・大学からの期待の部分は、家庭の側の視点で考えてみることは、とても大事だと思っています。わたしの解釈では(事実でなくあくまで解釈にすぎませんが・・)大学が、一芸に期待していることが結果的に少ないことは、(A)「一芸に秀でている人が少ない」ことがあります。
(A)「一芸に秀でている人が少ない」こと
→ 先ほどの投稿【1972333】で少し書きました。
(B)「難関大学でも、”一芸に秀でている”ことばかりが、マスとしての受験者・入学候補者に期待されるメインの人間像でない」こと、の面があると感じられます。
→ 「一芸に秀でる」が極めて少数で厳しく狭い門、ということを量的な前提にして、”教科”の議論に少し拡張して見ます。先に書いたように「一芸に秀でる」ほど勉強ができるというのは、詳細内容を考えると複雑ですが、量的なイメージをまず持ってきて、さらに考えてみます。「少しできるレベル」の量的なレベルであって、かりに本人がプロの知的な、頭脳集団を目指すなら、今、社会の側から大多数に期待として提示されているのは「少しできる」を目指すことがまずありそうです。どうせなら、複数の分野で「少しでき」、総合力があった方がよいよね、という評価する側の価値判断がひとつ透けて見えるように思います。
→ 学問の研究者と雖も、社会の一員ですから期待される社会性があります。また、実際の対外的状況での渉外・広報、あるいは安全な実験遂行、さらに構成員のメンタルな面の配慮も含めて、地道な面で求められる資質があります。国際的なレベルで意思疎通にことかかない英語力、外部から尊敬される教養レベル、などは大学教授であればあったらとても良い、ないと少し困るという能力で想定されるWANT項目(*)になる。専門の研究者としての評価外の能力でしょうが確実にある。これらは科目の学習/課外学習/家庭での活動、個人の自由な活動でのみ獲得されるとのイメージ。
→ 学問にも資することを念頭に置き、知識断片ではなく知の総体を目指すこともあります。各科目をそれぞれ、まとまった内容と質量で勉強することが将来プラスとの考え方も加わります。(→ わたしは、今はこの議論に賛成)
(C)「一芸に秀でる」ということを評価することの難しさ。
→ 多くの分野で(量的ではなく)社会での価値から遡及・分析して、実質・内容面での明確な議論を積み重ねて、たとえば中高生のポテンシャルはどうか、その具体的評価はかくあるべきだという議論をし、次いで注意深く大学入試のあり方議論に発展させるとしましょう。それは今のところ入り口から難しい。なぜなら、大学の側では、AO入試や自己推薦を実施して試みたモノです。しかし今、困難に直面してどんどん縮小・廃止いる(**)ように、「検出力」が低いので機能していない。実行面でまずもって難しい、さらに代替となる案も費用対効果の点で困難。(今後はそちらの方向にしばらく向かわないでしょう)
そして、中高生のポテンシャルはどうか、その具体的評価はかくあるべきだという議論も、かなり多様な生徒のマス教育での課題として安易な一般化は難しい。
(D)一芸を評価する、以外で代用できないのかという議論
→ 一芸に秀でるとは、高校の科目の評価で本当に評価できないモノか、の根っこの議論も背後にあります。つまり代用できないか、都の議論です。例えば、一芸に秀でている1-20ppmの人でも、ある分野、「少しできる」まで傑出していれば、どの国立大学も合格の確率は高まります。(大学側としてはセンター試験でスクリーニングして、二次試験はじっくりと思考力を試している。)数学・国語が少しできれば、受験生は受かる可能性が相当に高いと思います。東大は英語でも国語の要素が大きいことは、問題をみれば明らかですし、理系では数学・物理ができればかなり有利。(どなたかが喝破されたように、仮に東大は難しくても、今の少子化の環境では、他の国立大学の理工系分野なら今は、確実なまでに受かるでしょう。)
なお、一芸で秀でているひとは学歴・マスでの評価システム上・「緩やかな階層」のラダー上 で他者の評価で生きる人ではなく、専門分野の実力の軸で「研究を生み出す能力、その実績」で、自分を判ってくれる専門家達の評価軸で生きようとするタイプの人でしょうから、キャリアの展開としては、国内での院での転進や、実績を積みつつ、海外の大学院を含めて、ステップアップが実質目指せるでしょう。(そういうルートは理工系なら各分野で調べるうちに具体的かつ鮮明に見えてくるはずです。)
そのため、万一”一芸に秀でて、英語めためた”で、合格し損ねても、人生のタイムスパンを広く取ってみたときに、社会の側からマスの視点で見て、問題は顕在化しにくいと見られると思われます。<この点は独断・偏見あるとの指摘される点かもしれないですが。>)ですからこのケース、受験者の側(=本人)は、たしかにフラストレーションがたまるのかもしれませんが(そういう人はリアルな社会では極めて少なくあまり見ないとわたしは思いますが)「少しできる人」は他の科目も勉強することは期待されていることと考えればその状況を読んで学習の機会として取り入れてはどうか、とアドヴァイスすることも可能と思います。
(E)ほんとうに、本人は、一芸に秀でたいのか、ノーベル賞学者の判りやすいイメージに飛びついて目標にしていないか です。
→ 世の中でノーベル賞級学者、はじめ顕彰される一流中の一流プロはいます。しかし、そのようなノーベル賞学者は1ppbレベル。それを目標にすると量的な議論がかみ合わないように思えます。そのため、やるべきことが乖離するように思います。・・・一般の、「少しできる人」にリアルなターゲットなのでしょうか、あるいは一芸に秀で、分野の一流のプロになることだけの価値観が、なぜ普通人レベルで重要視される流れなのか、が、問い直されて良くないでしょうか。
例えば、今、博士課程をでても、就職できないひとができて問題になり、ひいては修士課程から博士課程に行く人が少なくなっていて、大学が盛んに博士課程への勧誘と博士卒の採用を企業に働きかけています。悪い循環です。実際、学問のあこがれだけでは生活できません。社会の居所という面も無視できませんし、大事な考慮です。「一芸に秀でることを奨励する」リスクもあるわけです。(***) 年度予算の兼ね合いとポスト数の制限などから税金に限りがある以上、ポストは当然無限にないわけです。
よく考えれば、大学も社会も、分野を代表する非常に優れたできる人が一定数広がりを持っていれば良く、その他に「少しできる人」レベルを沢山ほしいというニーズは確実に企業にある。それなのに無定見に、旧来と変わらない大学院教育を提供すれば、「優れたノーベル賞級学者」にあこがれた、リスクヘッジをしていない人を増やすことになるのではないかと危惧します。
個人は「一芸に秀でなければならない」というニーズはかならずしも、社会の側には量的にはありません。(少数は企業の中にいてもよいが、懐の範囲) 大学の研究では研究面の能力の優先度・重要性は高いですが程度の差こそあれ、総合的な能力は問われています。企業では、総合力はもとより大事です。その中で、親子あるいは個人の目線で改めて、考えて、なぜ、一芸に秀でなければならないのか? というのも、問うべきです。
やむにやまれず、「一芸に秀でてしまったひと」と作られた「一芸に秀でたひと」でも違うでしょうし、その中間もあるでしょう。それぞれ重要な選択。これらは将棋で言うところの「一局の将棋」、親が色濃く関与する子どもの教育方針、そのものなはずです。このことを考えるとき、「一芸に秀でる」ことの安易な選択は考慮を要し、選び取った以上、外部から真に考慮されるべきケースは極めて少ないのではないかと思います。同時に、大学や社会も、「一芸に秀でることを奨励する」ことが安易になされれば、居所のない若者を大量生産し、「まじめにやっているのに職がない」と「自分が評価されないことに気づき愕然となって犯罪を犯す」などの社会リスクも引き起こしやすい。(その場合に若者本人に罪と罰を問うのは容易だが、ニーズの量的な考察をなおざりにして、社会のニーズに合わない教育を大々的に奨励しているとすれば、それをする側に多少の改善の余地があるのだと思います。)
今、理工系のキャリアは、中学生的なレベルでみると「好きなことがやれる」学者、「自由に無重力空間を飛べる宇宙飛行士」「世界的なあるいはノーベル賞級学者」というイメージで、あまりにも強烈に語られすぎていないのか??と思います。そこにある人生イメージが違っていないか? というのが企業にいる一研究者からのささやかなコメントです。そのために、サイエンスに憧れて、趣味でもやって愉しい扱いにできるのに、専門にしようとしてしまう「少しできる人」クラスが多くないか?と感じています。家庭の側も含めての、人生の考え方や、戦略の問題かもしれないですが。(****) なお、自分は何があれば満足するのか、は人により違いますが、大学の研究者より企業研究者が、やらされ感が強くつまらないということはレッテルだと思います。そういうことはないとわたしは思います。
・・・(A)~(E)については以上です。
最後に、とってつけたようなコメントを重ねることを許して頂ければ、わたしは中高一貫コースの多くが、公立コースとは違って、そういう面(すなわち「少しできる層」が欲している、中高生の総合的な教育の土台、地に足のついた土台、の確立や、「自分の将来像」が像をむすぶことを積極的に目指すこと)を6年間掛けて提供しようとしている、そこのところが、”私立中学の価値”ではないかと、考えはじめています。 (*****)
(*)企業研究で言えば、「一芸に秀でるレベル」と「数学も英語も国語も少しできる」はValueから見て遜色ないことがあり得ます。例えば、研究の企画をして、お金を管理している人に(→企業のマネジメントや霞ヶ関の方々にです)価値をわかりやすく順序立てて説明する、などはプロの学者同士の学問議論とは、一種違う能力が求められる。継続している研究も、都度「見える化」して広く、内容と価値を判って貰う必要がある。また、自分より若い世代を教育したり、小学校性・中高生に今後の重点分野はどこかとか問題意識として持つべきものは何か、を示す。科学・技術の専門だけに留まらず、啓蒙できるか、が問われます。大学においても、分野により似たようなことがきっとあると思います。専門分野によりこういう国民社会との接点の業務の重要さの程度は違いますでしょうが。
(**) AO入試、自己推薦では、「一芸に秀でる」レベルが実際、小論文などでは的確に検出しにくい。東大、東工大後期試験はじめ、早慶でも推薦の評判が悪いのは、できる生徒をとれないメリットよりも、検出力が悪いためにできない学生が入ってしまって、そこがマス教育の遂行上、看過できないマイナスがあると推察します。以前議論したように、主要科目の入試問題を難しい問題にすれば、それらをできる生徒は少々他の科目を勉強していけば合格するので、(大学は、合格者としてとれるので) それで代用している面もあるとわたし個人は考えています。
(***)
一流のプロでも、様々な人生の軸足を一芸に掛けると保険を掛けますね。若いときに怪我で引退したときのこと、
解説者やトレーナー、コーチ監督業で生きる時のこと。あるいはサイドビジネスしたりしておく。比較的学者志望にはそういうコンティンジェンシプランが用意されていないし、本人に複眼的視点が欠如しているように見えます。
(****)
大人の側の「行動」「働きかけ」が大事と思っています。・・そういう、中高生の意識の「将来像」が、通り一遍の安易なものにならないことが大事と思います。「企業のニーズとは何か」を企業人が、実例と共に学校で話す企画をボランティアで初めてみています。単なる単発のOB講義では、掘り下げは不十分との認識で、数多くの分野をカバーし、共有の部分をえぐり出すなどの踏み込んだ企画内容にしようと考慮をしています。
(*****) もとより、私立中学が提供するとは何か、これらはあくまで学習の「契機」であり、学習のすべてではない、ですよね。親も価値観が多様でよいし、生徒自身も様々な志向がある。「学校」で学ぶ核は、できる友人から、その時々の真の問題意識をまなび、稲妻に打たれたのような学習への目覚めを経験し、(=すごいという感動や、俺もがんばらねばいかんなと心底思う)そこから自分をドライヴすること。また、ある意味で理不尽な教師からしごかれて、社会の厳しさを疑似体験することもあり得る。面白さを一見オタク的授業の熱意の中に見るかもしれない。視野の広さの重要や学習のノウハウ、わかりやすさを目指すことの重要性を身につける。・・・だれも、塾漬けで、過保護のブロイラよろしく、いいなりにメニューをこなして、大学のレッテルとしての価値を目指すこと(うらなりのナスみたいなイメージ)がメインとは考えていないと想像します。(→ 一部を誇張するマスコミ、あるいは実際にそういう人もいるでしょうが、その量的イメージは、ざっくり全体の1~10%程度ではないでしょうか。本質議論でない。あるいはまた、また、私立といっても千差万別、学校毎にターゲット層も、提供するコンテンツ・教育哲学もちがっているので、その中での進学校の限定にすぎないとお叱りを受けるかもしれませんが。)
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