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【1934980】私立中学の価値

投稿者: 自然体   (ID:KR1jc1G02kE) 投稿日時:2010年 11月 28日 08:25

この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。


2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝

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  1. 【1997397】 投稿者: 墜落  (ID:oAfj3Gwxl3M) 投稿日時:2011年 01月 30日 07:56

    飛行機の離陸時に機首を上げすぎると、揚力を失って墜落しますよね。

    変な一貫校に行くと、子供によっては逆効果。

    大した考えもない先取り教育で、スパルタ塾の趣き。風邪で休むとあら大変、追いつけない宿題の山。

    一方自由系中学でも浮かれていると、基礎も固まらずに高校に上がってしまう子もちらほら。

    某私大辺りじゃ、有名私立高出身者が群なして傷を舐め合ってますよん。

  2. 【1997424】 投稿者: 離陸  (ID:rikjw7.qpVs) 投稿日時:2011年 01月 30日 08:41

    ↑ 私のイメージには全く有りませんが、失速は条件によっては実際に起き得る問題ですね。
    是非注意して下さい。

  3. 【1997527】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 30日 10:49

    地域・時代さん、
    ハウツウ、ノウハウ、確かにそう言って頂いて結構です。見通しのあるハウツウは常に大事ですね。ひとにより、興味に濃淡があったり、できふできがあるのは当然ですが、その先どう、「ばっかり食べ」を避けて進むか。具体例を追って考えるしかないな、と思います。



    知的様
    英語の学びにいろいろな側面があるように、数学でもいろいろな側面があると思います。

    私は文系に関してはある程度の知識があるのですが、共通一次も避けた受験をしたために、やっぱり高校からの理数がスカスカです。
    なので、理系の知的様が「このような気持で各教科に取り組んだ」という話を聞く事がすごくためになっております。
    源氏物語や伊勢物語の話が出てくると、昔の自分を振り返り、「ああ、光源氏と業平の無常感の違いなんかもやったよね」と、懐かしい思いがよみがえってきます。
    感覚的な自分の勉強への取り組みを理論的な知的様に解説して貰う事で、私の中で色んなものが繋がっていきます。
    なので、また知的様のパワフルなお話、よろしくお願いいたします。

  4. 【1997567】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 30日 11:25

    地域・時代さん、

    ・・長めに書きますが、ご容赦ください。(ご興味ない方はスルーください)
    内容は今の学びの”可能性”です。思いつきにすぎません。


    1)わたしの思うチェックポイント ~「感動あるか?」と「何故その学びは必要か」?

    → 公立だろうが私立だろうが、関係ない出発の問い。

    → わたしも高1から明確に意識した出発点。(だからといって優秀な生徒も公立コースで良いとは思っていません。)

    → エッセンスは感動のないことは取り組めない、つまらないと思うことは長続きもしないこと。

    → ほっておけば「ばっかり食べ」になり、全体としての力も先に行ってから伸びません。興味など放任しておいてかな
      らず湧くとは限りません。

    → 「いいからつべこべ言わずやれ」は良くない。


    2)わたしの思う”高度な授業”の落とし穴、良い授業と悪い授業とは?
    → 各教科の専任が中学・高校では教える訳ですが、大人は面白さと持続可能性を、実現可能なプランで示す義務があるのだと思います。

    → 高校時代、だらだら自分が大学/大学院でおもしろがってやっていたことを高校生にそのまま講義している先生が複数いました。ある先生は平安時代だけでほぼ10ヶ月、資料集を読込みさせてやっていました。今思えば私は少し面白かったが、そこにはマス教育で、期待されている本質の目線が抜け落ちていたと思います。今でも記憶していますが、最後の授業でまだ、日本史の先生は、「いまは室町時代だが、後は教科書を読めば判るから、第一次世界大戦までは読んでおくように」と颯爽と引き上げていきました。30年経っても忘れないひとことです。週4時間1年間、これは受験では使えない授業でした。


    → 授業が重要ということは当然ですが、どういう授業にあるべきなのか、は常に問われるべきです。練られている教科書の内容を最終的には教えられるべきですが、教科書を使って教えることではかならずしものではないのです。理由は、それでは多くの場合につまらないから。そしてひとにより全体のバランスが当然あるが、それも考慮されてはいないから。
    →「ある高校生にとって、そのコンテクストの面白さの本質、あるいは感動」を授業でそれをみせてやらなければ好きにはなれない。このプロセスが自学自習の能力を引き出す。その上で、なにを 学ぶべきとか、どこまで学ぶべきか、という個人個人での議論が次にある。


    3)何が求められ、学ばれるべきか、 ~学ぶ分量は、最初は少なくて良いと思います。纏まりが必要。内容の厳選
    例えば、伊勢物語の6段と9段を2つだけ勉強して、それが全体でどんな学びに繋がるのか、教科書は何も語りません。(おそらく教師用の指導要領にもおざなりしかかいてはいない)たぶん、限られた授業時間、限られた教科書のページ数で、あれもこれも総花的に入れる中で、こういう形になったのかも知れません。でも、もしこの教科書だけをやっていたら、特別に感性が合うひとを除き10人で9人は面白くはないでしょう。・・・なぜ、初冠と最後の段(業平の死)をしないのか、古今和歌集、古今著聞集、大鏡、源氏物語など他の古典へ現れた/受け継がれた基本知識としての伊勢物語記述を何故示さないか、となります。


    レベルの低い授業では、字句解説・品詞分解の無味乾燥で暗記奨励の授業(*)中心。おそらくそうでなければ、興味がつなぎ止められず、騒いでしまい授業が成立しないレベルの子どもも中にはいるはずで、先生はそれを恐れていると思います。

    理系であれば、まして受験科目に古典があるのはおかしい、となってしまう。しかし、話を進学校に限れば、議論すべきことは別で、”高校では教えてはおらず、大学が明らかに要求している理系の高校生の古典の学び・その真意は何だったのか”です。高1の自分が発した問いを繰り返している訳でもありますが、こどもの教育/若い世代の教育の観点で改めて考えています。


    (*)これを全面否定している訳ではありません。やはり古典の言葉の暗記、品詞分解は、ある段階で、位置づけが必要な学習であるはずです。”順番が逆”ということが最も問題なのです。(興味があればあとはどれほど多く勉強してもかまわないし量が大事)もとより、教師が感動の押し売りをすることはできません。だからこそ、おもしろがれる教材を”料理として”いくつもいくつも候補として並べてみることが必要だと思います。食べ物でも、トマト、きゅうり、なず、を無調理でだしたら誰も食べません。「ばっかり食べ」をしない(=偏食をしない)ことを進めるのは、クラスでの集団授業(=マス教育)の基本に据え最大公約数を外さないラインナップの豊富さと高校生に理解可能な面白さの提示がどの科目でもできるのか、が勝負。


    4)伊勢物語・土佐日記からの展開は?
    地域・時代さんと古典で話をしましたので、少し書きます。



    現国・古典とはとても教えにくい科目です。芸術の授業の難しさにも近い。さらに、マスで見たときには男女差が大きいものと思っていますし、生徒の浸ってきたカルチャーによる違いもあります。わたしだったら、男子の進学校であれば、伊勢物語、土佐日記、古今和歌集の次に大鏡の世界を見せるべきと思います。女性なら土佐日記のなかの文学としての面白さにさらにウェートを置いてから、様々な日記ものに向かうことがありましょう。面白いという切り口が違うことが非常に多い。わたしは電子教科書で膨大なコンテクストを蓄積した上で学びを一人一人にチューニングして行くようなやり方が良いと思います。寺子屋式であり、公文式であり、しかも其れを遙かに量がするモノ。わたしは理系の高校生であれば、例えば、伊勢物語を全部口語中心で読ませて、大鏡の現代語訳をポイントだけプリントに仕立てて読ませてもかなり絶大に心をつかむ効果があると思っています。ファミリーとはなにか、も浮き彫りになる。権力争い、左遷、個人の生き方の価値観、そんなものが、道長、忠平、安子、どの表現の中にも見えてきます。貴族が牛車を並べ、女性の裾を車外に出し、庶民の見物人を閉め出して色彩の華やかさを競う感覚は、すこし前の現代のフェラーリなど高級外車をガレージにならべるかっこよさへの高揚感と違いません。また、話し合いでの発言の様子や実行力で皇太子や天皇を射止める生き生きとした様、地方に流される様は、サラリーマンの経験する出世、地方転勤、仕事のやり方などともかなりダブル風景。また、お湯を常時使えるようにしている藤原氏の邸宅は現在の日本人が達成できることにもダブります。(われわれは、ある意味、日々の生活レベルでは平安貴族なみにすることができる)他にも源の高明の娘をもらったばかりに天皇になれない親王とか、ライフスタイルと生きる目標が問われる内容もあります。


    ・・日本史という別の教科との、極めて深いレベルでの融合もひとつの目標です。そしてそれを越えて、社会の仕組み、構造、経済なども見えてきます。


    土佐日記でも、帰京の場面の看板の描写も、また出迎えの歓迎の様子も驚きがありますね。当時から店でものを売っている
    し、階層差がありながら、その中で国司に対してもそれぞれの立ち位置で交歓する人々の様子。社会の有り様を、中くらいのひと、少しできるひとの目線、でストレートに伝えます。


    古典とはマドンナの古文単語を覚えて、品詞分解するそんな入り口から入るような科目では本来ないのですから。それを越える世界を提示できるかは、中学高校の学び、特に中学・高校教師の腕に掛かっているのではないでしょうか?予備校はそれなりに需要・供給で成立している世界ですが、まっとうな学びが土台にあってこその、仕上げの受験ノウハウ。

    乱文ご容赦ください。

  5. 【1997570】 投稿者: 凡才  (ID:cB1l14bs8ao) 投稿日時:2011年 01月 30日 11:27

    飛行機離陸時、と言う表現は、非常に良いですね。

    文科省の小学校のカリキュラムも、4年から、急加速の様な感じでは無いかと思います。

    まして、中学受験組と高校受験組に分かれるので、差は更に加速して行くでしょう。

    進路変更を急にして、結果、急発進する事によって、方向性を失うのかもしれません。

    私は、その所のガイドラインがはっきりしていた方が、親が路頭に迷わなくて、良いかと思います。

    それには、学校と塾の連携プレーが必要だと思います。

  6. 【1997576】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 30日 11:32

    離陸さん・墜落さん、
    そう思います。・・卒業レポートなどを課している学校は、学びをよく考えている学校が多いように見えますね。
    キャッチフレーズを如何に出すかは、もっと多くの学校が練って良い課題でしょう。宣伝と割り切っている学校も、ネットで勉強して見る目が肥えた受験生親子をだんだん、だませなく鳴るでしょう。大手塾の偏差値表の世界も、ひとつは進学実績出口との突き合わせや、カリキュラム・シラバスとの突き合わせでの社会二出てからの価値、ものさしをすれば、限界点/如何に無力な世界かが見えていると思います。個別に親子で見て判断するしかないデスね。


    <墜落さんWrote>
    飛行機の離陸時に機首を上げすぎると、揚力を失って墜落しますよね。 変な一貫校に行くと、子供によっては逆効果。
    大した考えもない先取り教育で、スパルタ塾の趣き。風邪で休むとあら大変、追いつけない宿題の山。一方自由系中学でも浮かれていると、基礎も固まらずに高校に上がってしまう子もちらほら。

  7. 【1997642】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 30日 12:30

    適性さん、

    少し前(P.157) に、ご意見頂いた点ですが、少し書きます。
    まず、高校生には、すべからく、大人になったときに、(1)「社会が期待する人材」と(2)「自分がなりたい人間」の2面があり、これは、レベルにはよりません。これが社会にでたところから逆算することのひとつの中身。(*)


    社会で居所を確保する→社会で評価されるのは、(1)に関わり、好きなことをし続けたり、仕事とは関係なく自己実現を目指したり、無益というものにものめり込む自分は(2)デスね。


    わたしの立ち位置は、(1)と(2)をほぼ独立と見ての両立です。<一方、このスレの中には、いろいろな考えのひとがいますので(2)のみで(1)は重視しないひともいれば、(2)の延長線上に(1)を見る人もいます。>


    グローバルな企業で日々仕事をしているひとの中にはわたしと同じ感覚のひとも多いと思います。
    (1)をしっかりするような教育をしないと、孫の代では(2)もできない社会になる。わたしは、そこからは0.2%層の議論ですが、(1)で期待をされる人材は、かなり熟慮の上教育すべきという考えです。
    <ただ、1000兆の国家負債が国民の金融資産を上回る1-2年後には、危機は我々の代で現実になるかも>


    イチロー ぼくの歩んだ道~特別対談「大リーグの10年」with糸井重里~ を見て、無数のNOを突きつけて、「自分のものさし」を探している野球選手がいることも知りました。われわれと同じ感覚だなと思います。かれは自分を常に文脈の中で見る目線を持ち、歴史家の素養があります。おそらく彼の精神面での強みの一部でしょう。地域・時代さんが問われていたように、キャリアを積み重ねる(社会的な”見られる顔”)とは対比される”見られない顔”の存在(=かれはまだ”数字云々ではない””人間的成長”という言葉を使うのですが)が議論されることになるはず。これは
    できるひともできないひとも、各個人の存在のあり方議論そのもので、共通の関心事とも思います。わたしは、若い世代が生き抜く知恵/ノウハウが、この考え方の中にあるのではないかと考えます。(特に普通か少しできる高校生に取って)
    自分野子どもらとは切り離しても、ほんとうに重要な議論と思います。


    (*)この書き方もレッテルを貼った書き方ですが、当面、役に立つ議論と思います。


    <P.157 【1985784】 投稿者: 適性さんWrote>
    「どこの」をターゲットにして、議論してるかって話がありましたが・・
    知的=量的さんは、
    >書いているモティベーションは企業人(戦士)としての教育崩壊の問題意識が一番大きいでしょうか。
    と、今後の企業環境の変化と、その中心となるべき企業人のイメージがある。
    しかい、その層が薄い。もっと厚くならないと・・外国との競争には勝てないと見ているわけでしょう。
    その為には、「知力」の強化が、もっと「教育の面」からも必要だし、「親・子供の意識の面」からも、変わる必要がある。 「能力ある企業人(戦士)」になれば、企業に求められるだろう。という、個人的意味。 「能力ある企業人(戦士)」の層が厚くなれば、生き残る企業も増えるだろう。という、社会的意味。(日本という国としても、大事なこと)
    があると思いますけどね。 自分の子が、その枠になるかどうかは、別にして、「社会的」にも、求められている人材のひとつの形が示されているので、「参考」になるし、そういう人を増やす、流れには、賛同できます。
    だって、日本人の雇用を守れるのは、基本的には、日本の強い企業ですからね。

  8. 【1997974】 投稿者: 福の神  (ID:/W/DoX5izR.) 投稿日時:2011年 01月 30日 16:44

    視点さんによれば、知らないことでも周辺状況から推測してよい、
    とのことなので、一貫生以外のことを勝手に推測してみました。

    小学校を卒業し、いよいよ大人に近づいたね、と言われ希望を持って
    公立中学に入学した子ども。最初は「中学校に入ったし勉強も部活も
    がんばるぞ」と思っていたが、友だちから「ガリベンなんてかっこ悪い
    な」「先生にいい顔したくて部活がんばっちゃってんだろ」といわれ
    このままではいじめの対象になると思い、適当でいいや、と思うよう
    になります。

    「だって適当にやってても行ける高校あるし、高校出てたら牛丼250円
    だし、何とか食べていけるよ、今いじめられるより、その方がいいや」
    と思うのです。

    先生もそういう生徒には手をかけなくなります。内申を書くにも成績
    がいい子に割り振りたいので、学校の委員や部活の主将も、成績上位
    の子に声をかけるようになります。

    そんな3年間が過ぎ、成績上位30%が公立トップ高に進学し、残り
    70%は二番手、三番手の高校に進学します。
    今は、選ばなければ大学には入れますから、高校でも適当にやって、
    入れる大学に入ります。

    その結果、大学側は中学校で習うべきことを新入大学生に補習しない
    といけなくなるのです。


    こういう子どもたちは、与えられないと自分では何もやらないし、
    社会でも人のことはどうでもいいと思うので、払わなくて済むのなら
    税金だって払わないし、自分の子どもの給食費だって払わないで
    済ませる。
    日本全体がどうなろうと、そんなことは知ったこっちゃない、という
    身勝手な大人が増えるわけです。


    って言われたら、視点さんたち、どう思います?

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