充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
仕事と家庭を両立できる「親への環境作り」こそ、子どもの幸福度向上につながった要因のようだ。
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判断様
これ、、、とても大切だと思います。
私は昨今の育メンパパは素敵だな~と思っております。
草食系男子も私は大歓迎、好きになった男性が草食系なら、肉食系の女性と上手くいくと思いますから。
我が家は、肉食系同士の夫婦ですので、喧嘩も多いです(笑)。
判断さん
>今までの画一的な公立の教育が選ばれなくなっているということでは。
求められているのは、子どもの多様性を満足させられる教育なんではないでしょうか。
まあ、それはそれで、いいと思うのですね、多様性のある教育が実現するように、公立、私学も努力すれば。
問題なのは・・ホントに多様性ってありますか?・・「受験」に偏っていないか?・・ということです。
公金投入する場合は、財政学的に言えば、社会資本を形成するものが望ましいわけです。
平たくいうと、
単に、雇用にお金を出すよりも、道路を作る・・だとか、社会の生産活動にインフラ整備を行う方が
公金投入として優れています。
教育の分野で・・どんな例でもいいですが、分かりやすくいえば・・
商業高校で簿記を教えたとします・・そのことに関して、公金投入されている・・生徒たちのその簿記の知識は、
経理事務のスキル・・社会のインフラとして活きるわけですね。
絶対値としての学力に、公金投入するのは意味があるわけですね。
しかし・・受験はどうですか? これは相対学力、単なるゼロ・サムゲームなんですね。
相対値な一面的な技術にすぎない。
「受験」に対して、公立で公費投入し、私学で私学助成をする・・ジャブジャブ公金投入する・・
その結果何か成果物を生むか?・・ですが、
単に、公金で競争を煽っているだけで、何ら成果物は生まないと、私は思うのですね。
「受験」に何か意味があるとしたら、結果はともかく、子どもが精神的に強くなることだと思うのですね。
その場合、何が重要かというと、その競争が フェア であることです。
富める子どもも、貧しい子どもも、フェアに競争できる環境であるべきだと思います。
経済学的にいう、完全競争市場ですね・・また、それが自由と平等の理念に合致すると思います。
受験は個人戦だけでやる、金をかけない・・それが正しいと思うのですね。
資本主義社会の公教育・・・様
私は私立中高一貫の親で、実際の高校受験の話は「友人や近所のママ達」から間接的に聞く事しか出来ません。
しかし、先程書いて下さった事は、彼女達から聞く現実のお話、そのままです。
とても具体的に書いて下さって、私が見聞きするざっくりとしたお話を、詳細に書いて下さり、ものすごく勉強になりました。
本当にありがとうございます。
無常感さん、コメントに対して返答いたします。
私は、無常感さんの展開されていた助成金議論の展開には論理的整合性が無く、それにより導き出される私立助成金反対の結論は無理筋と見なしましたので、その議論のやりとりに乗るつもりはありませんでした。
ですが、私立助成金反対の結論が繰り返されるので、私立助成金の是非について、ただ自分の考えを述べて見ただけです。私も無常感さんとこのテーマで議論するつもりはありませんので、議論展開の論理的整合性のご確認は、量的さんとお続け下さい。掲示板は、複数の参加者が同時並行的に議論しあるいは掲示をする広いグランドのようなものですので、テーマがスレタイから逸脱せず、マナーを守れば、複数の独立した議論が並列的に同時進行することに問題はありません。
(無常感さんコメント)
>つまり、国家(地方自治体)が国民の教育を100%公立で面倒を見るべく、
>定員を定めようと思えばできるはずなのに、出来レースのように70:30が予定されているわけです。
それは、高校教育が義務教育では無いからです。進学率が戦後の1950年で40%、高度成長期に上昇し続け1975年頃に90%に到達しました。戦後から高度成長期には、中卒労働者の需要という時代背景がありました。つまり、国には100%の定員の面倒をみるというつもりはなく、恣意的に公立の定員で不足する部分は私立に依存してきた訳です。 70:30はその結果です。つまり、公立と私立は、高等教育という枠の中で共存し続けていて、設立と制度には違いこそあれ、高等教育の観点からは同じです。高等教育卒業に対して、何も資格の違いも付与されません。
(無常感さんコメント)
>なぜ、学校法人に公金(私学助成)を渡すのでしょうか?・・渡す相手は保護者であるべきです。
国がそう決めた理由をいくつか想像は出来ますが、それについて私に問うことにも私が語ることにも意味はありません。ただ、国が決めた現状の私学助成の制度は、個人支給より妥当な制度であるといえます。
資本主義社会の公教育さん
>議論は特定の方とだけされたいと書かれていましたが、
そうです・・量的さん以外とは議論しません。
理由は、書いてのとおり、そうなる経緯があったからです。
単なる、個人的感想ですが・・
>中学受験における私立の役割は、高校とは少し違いますが、国民全てのニーズにこたえる教育を公的に用意できない以上、ある程度の公的助成は国の役割と考えられるのではないでしょうか?
義務教育で公立中学がある・・あえて私立中学に行く・・なぜ、公金助成が必要なのか? 不思議。
大阪以外のところに、お住みになったことがありますか?
私は、大阪出身、現在は首都圏在住、地方2カ所勤務経験がありますが、
資本主義社会の公教育さんのおっしゃっていることは、普遍的なことではなくて、
首都圏、関西圏だけの特殊なことかも?・・なんて感じますけどね。
>『何の(誰の)ため』の学校なのか? (凡才さん)
『こどもひとりひとりのため』が共通認識で、
かつ、現状が満足する状況にあるなら、会話も議論も不要ですね。
認識する主体を、個人(家庭)・校長(学校)・物事を決める立場の人々(教育審議会等)とします。
会話や議論が生じるということは、
共通認識が違う、あるいは、満足できる状況にない、です。
認識符合性のパターンも複雑です。
個人間の違い、個人と決める立場の人々との間の違い、個人と校長(学校)の違い・・。
しかし、『こどもひとりひとりのため』を明確に否定する立場は現実には無いわけですから、
共通認識はあると考えてよい。
結果、満足できる状況にないことが問題といえます。
『こどもひとりひとりのため』
こども自身が満足できればそれで良いわけですが、
満足できている/できていないの評価が、
主座のこどもに量られず、
こどもの周辺に位置する、個人(家庭)・校長(学校)・物事を決める立場の人々(教育審議会等)に量られているところが、
考えるべきことの方向性をずらしているのではないかと思います。
『こどもひとりひとりのため』
ひとりひとりは多様であって、
ゆえに、ひとりひとりの『ため』になる在り方も多様なのですが、
その多様性をいくつかの大きな括りでとらえることは可能ですし、
多様な中にも共通する部分もありますから、
『こどもひとりひとりのため』を目標に、
満足できる状況を作るという作業を、
忠実に実行することは、
やってやれないこともないのではないでしょうか。
満足できている/できていないの評価を主座のこどもに量り、フィードバックを繰り返せば。
凡才さんと信頼感さんのご指摘の裏にあるお気持ちに対して肯かせていただいております。
公立の統廃合ですが、それが起こるには何かしらの理由があるからです。例えば、都内の小学校でさえ1学年10名前後の学校もあります。平均的に国民に教育が行き届くとすれば、統廃合は必要で無いかと思います。その後についても、同等の教育が受けられる学校と環境が用意されます。私立の場合、その学校が無くなったら、小中学では公立に行く様になりますね。その時に学校が批判されるどころか、子供も批判されるのですよ。結果的には、戦争の様にやってやり返しての繰り返しです。私は、子供にその様な憎悪を持たせかねない批判は、納得出来ないです。特に、高校に関しては、自分の家族に万が一にも起こらないとしても、もし起こった場合、大検に切り替えれば良い事なのでしょうか。
私立の親は、公立が無償であるにも関わらず、さらに高いお金を払って行かせているわけです。これは、給食費すら払わない家庭には分からないと思いますが、私立の親はその個人での負担をしているからこそ、教育への重みを感じ、結果、私立には良い学校が突出してくるのだと思います。






























