充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
視点さん、
理IIIは100名しかいないから、特殊ですね。また、議論の性質も特殊なので、
理IIIに限る必然があまり感じられないので、個人的には興味がないんです。
(理由:関西の最難関とか、関東の最難関限定の例でしょうか。)
医者になるなら、同じレベルの国公立大学で何故いけないの?と聞きたいのですね。
それから、理IIIのリアルな人を15名以上、知ってはいますが、
皆、自学学習ができるひとです。
別の面では、ご存じかどうかわかりませんが、
鉄緑も、国公立医学部を塾では、かなり対象にしていて、広範囲で想定しています。
ベネッセになって少し範囲が世の中似合わせて柔軟になったのではないでしょうか。
(定義からすると「鉄緑」ではないだろうと思うのですが、まあ実際そういう感じですね。
医学とか医学研究者は、あまりに難しいから、一般にはそんなイメージではないでしょうか。)
無常感さん
>憲法第26条第1項で規定する国民がひとしく教育を受ける権利・・・これが「機会均等」であると。
憲法第26条第1項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」です。
どして、『その能力に応じて』を省略されのですかね。
『その能力に応じて』は本質的なものではないから省略ですか?
憲法第26条第1項の『ひとしく』は副詞ですが、これは『教育』を修飾するのでしょうか?
そうならば、『ひとしく教育』は同等の教育とも読めます。
私は、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を「人は誰でも、その能力に応じた教育を受ける権利」とも読めると思います。
無常感さん以外の方のご意見をお伺いたいものです。
>①国家(あるいは地方自治体)自らが行う。
>②国家(同上)から認可を受けた私学が行う。
>① + ② が、国家が国民に提供するものとして、「機会均等」でなければならない。
>① と ② でスペックに大きな違いがあったとしたら?・・「機会均等」は果たせていません。
公立でも同じ学校内でスペックに大きな違いがあります。
洛北の中高一貫コースでは、高2までに高3までの授業が終了すると言われています。
これは、無常感さんの主張が正しいとすれば、「機会均等」の範囲内とは言えません。
そもそも、憲法第26条第1項は学校間に大きなスペックの違いがあってはならないと規定していないでしょう。
公立のトップ高と「底辺」高もほぼ同じスペックにすべきなのでしょうか?
同じスペックならどのあたりに合わせればいいのでしょうね。
無常感さん、
(1)法律的世界での話 ~ 国家との関係
下記のところは、そのつもりです。
つまり、民間同士で、「お金のあるひとだけずるい!」みたいなこととがありながら、能力に応じた教育の機会均等という広がりを、きちんと国家との関係(=法律・省令の言葉)でどう考えるかでしょう。
国家には東京都などのような、自治体を含むものという面があると思います。これはより現場にたいするサービスだからだと思ってます。ですので、無常間さんも国家および自治体、という意味で使われていると理解しています。
<無常感さんWrote >
>お金の話も、鉄緑も、機会均等とは関係無い・・関係あるのは、「国家」との関係です。
まあ・・量的さんも、これをお分かりのうえで、 あのように書いているおられるのかもしれませんけどね・・ 要は、「機会均等」は、国家と国民の契約(憲法)の問題であって、
民間 ~ 民間の 情緒的関係を意味しているわけではないということですね。
(2)スペック
次に下記のところ、わたしには少し分かりにくいところがあります。ここで言われた「スペック」と「超過スペック」とは、法律ではどのように定義できますか。
というのは、例えば、特徴からいうと、私学(あるいは地方公立)の一部にある偏った大学受験指導(予備校化)を「超過スペック」と言われることは読み取れますが、定義をきちんとしようとすると、本質的に難しいから、何がスペック超過なんだか、和から無いことになっています。(例えば、都立高校のやっていることは予備校化も含めて何でも、教育に関する法の体系で是認されるスペックなの?と聞かれると思うのです)
実際、こどもの個性、キャラを間近にみると一律に教育は定義できないので、
あるかたがたからみると、私が主張するような理系の基盤教育でもっと中高で積み上げの教育
をしてもよいのではないか、というと、いやゆとりが必要、といういう具合で、かなり独自の判断んですね。これが公立と私立で両方で広い範囲であるので、超過スペックというものがあったとしても、実質の議論がしにくいなと思います。
それと、同じ公立での教育経験のようなので、その部分で書きますと、
私立でどのような教育しても、まともに我が道をいく公立路線は、私立、国立と同様に
結構、上位層の限定の負けないと思いますよ。(結局、意志のある生徒はたくましいですよ)
<無常感さんWrote >
特に、②は日本独自に「公教育」と解釈しているという特殊事情がある。
② のスペック超過を認めたら、憲法第26条第1項・・これは ザル法 になりかねない。
すみません。少々、修正しました。
無常感さん、
(1)法律的世界での話 ~ 国家との関係
下記のところは、そのつもりです。
つまり、民間同士で、「お金のあるひとだけずるい!」みたいなこととがありながら、能力に応じた教育の機会均等という広がりを、きちんと国家との関係(=法律の言葉)でどう考えるかでしょう。
国家には東京都などのような、自治体を含むものという面があると思います。これはより現場にたいするサービスだからだと思ってます。ですので、無常感さんも国家および自治体、という意味で使われたと理解しています。
<無常感さんWrote >
>お金の話も、鉄緑も、機会均等とは関係無い・・関係あるのは、「国家」との関係です。
まあ・・量的さんも、これをお分かりのうえで、 あのように書いているおられるのかもしれませんけどね・・ 要は、「機会均等」は、国家と国民の契約(憲法)の問題であって、
民間 ~ 民間の 情緒的関係を意味しているわけではないということですね。
(2)スペック
次に下記のところ、わたしには少し分かりにくいところがあります。ここで言われた「スペック」と「超過スペック」とは、法律ではどのように定義できますか。
というのは、例えば、特徴からいうと、私立(あるいは地方公立)の一部にある、偏った大学受験指導(予備校化)を「超過スペック」と言われることは読み取れますが、定義をきちんとしようとすると、本質的に難しいから、何がスペック超過なんだか、具体的なアクティビティで判別しにくいことになっています。(例えば、都立高校のやっていることは予備校化も含めて何でも、教育に関する法の体系で是認されるスペックなの?と聞かれると思うのです)
実際、こどもの個性、キャラを間近にみると一律に教育は定義できないので、
あるかたがたからみると、私が主張するような理系の基盤教育でもっと中高で積み上げの教育
をしてもよいのではないか、というと、いやゆとりが必要、といういう具合で、かなり独自の判断んですね。これが公立と私立で両方で広い範囲であるので、超過スペックというものがあったとしても、実質の議論がしにくいなと思います。
実際には、公立の標準時間に加えて、何時間か算数を積み増ししますとか、中等教育学校がやっているようなことが結構、普通教育に加わっているようにも思えます、というのが正直な感想です。
それと、同じ公立での教育経験のようなので、その部分で書きますと、
私立でどのような教育しても、まともに我が道をいく公立路線は、私立、国立ルートと同様に
結構、上位層の限定の話として負けないと思いますよ。(結局、意志のある生徒はたくましいですよ) この点は、わたしも1年くらい前のころとは、考えを変えたところです。
<無常感さんWrote >
特に、②は日本独自に「公教育」と解釈しているという特殊事情がある。
② のスペック超過を認めたら、憲法第26条第1項・・これは ザル法 になりかねない。
福の神様のお話は納得できると思います。
私も親世代の教育が必要だと思います。
>小学校ですでに
理解力不足に陥っている子どもたちを放置
していることが問題です。(福の神様)
現代の親世代の価値観って、極端に二分されているように感じます。
「放置する親」(大人になりきれていない、社会的責任への軽視)と
「過干渉する親」(自己実現や既得権益への執着)
視点様の仰る「私立一貫校に通わせる親が過干渉気味である」ことを
否定できないと感じています。
>これに対処するのには、私学廃止とか、助成
廃止ではなく、もっと前の段階、さらに言えば
そういう親の教育が必要なのではないですか。(福の神様)
視点様は、過干渉し続け利己的に欲求を満足そうとする
恥知らずな親に養育された子供たちへの視点だと思います。
福の神様は子育てを放置してしまう無責任な養育者に育てられている
子供たちへの視点だと思います。
>あえていうけど、バカ息子にフライングやドーピングさせる前に、中学受験で洗脳されておかしくなった価値観を矯正すべきだよね。(視点様)
フライングやドーピングの効果がどこまであるのかは疑問ですが、
偏差値に過剰に執着し、睡眠を削らせ異常な量の勉強を強いる養育者の価値観を
修正させるような何らかの対処が必要だと感じています。
大学入試なんて全て廃止して将棋や碁の世界のように進級制度にしてしまえば
偏差値を絶対視してしまう価値観も薄まるのかな・・なんて思ったりもします。
級や段が上位でも本当に強いかどうかは、別の話だし。
あぁ、でも・・こんなことをしても別な問題が浮かび上がりそうですね。
「自分たちは「フライングやドーピング」のおかげで東大や医学部に行けたのじゃない。才能があるのが受かっただけだ」って必死だね(笑)。
例えば中学受験、才能があれば、塾行かずに合格するのかな?
合格しないよね。
では、ここの人達は、中学受験には塾は不可欠だけど、大学受験は塾に行くかどうかは関係ないって?
これってどういう理屈なんだろ。
実際は、中学受験で体験的に真実を知っている人が、私立に受かった上で、鉄緑に殺到してるわけなんだよね。
もっと分かりやすい例にしようかな。
A君は、ウン百万円かけて、偏差値最高峰の〇〇中学目指して小学校3年から金かけて中学受験塾通い。夏休みは朝から晩まで鉢巻き締めて塾の特訓。もちろん〇〇中学対策も塾でばっちり。
B君も、同じ〇〇中学を目指すけれども、塾にはいかず、市販の問題集で自学自習。
〇〇中学受験にとって、A君とB君とどちらが有利か。
これなら、さっきの例が難しすぎた人にもわかるよね。
もちろん、B君の親が中学受験塾のカリスマ先生で、家で教えてもらってたなんて特殊事情はなし。
私の考えでは、B君がA君より才能がっても〇〇中学に合格できる可能性は限りなく0に近いと思う。
地域・時代さん、
・・楽しんでいただけているようで、幸いです。
キャラの話のつづきで、自分にわたしと同じキャラ・才能が今、こどもの兄弟にいたら、とたまに考えます。そうしたら、違うこと、いうだろうなって。(それはとても喜ぶアドヴァイスだから)
昨今の歴史の話だと、僕のような高2のこどもだったら、父(私)は、○X図書館に、△□社の「世界の歴史」があるから、授業の進度の少し前に、取り敢えず何巻から何巻まで全部積み上げて、速読で読んでみるとほんと面白いよ、やるべきだぞ、って言うでしょう。で、100%やると思います。
でも、今の(今時の)こどもにそれを言っても、たぶん、100%まではやらないと思うのですね。50から80%だったりすます。だと、気づきがでるまで、あるいはやろうと思うまで放っておくのか、違う形で言い方を変えて話すのか、コンテンツをもっと具体的にしたり絞るのか、ですが、それは、そのときの考え次第ですね。父としても、手間をかけられませんし、もう一方で、面倒を見ることは過保護の領域に近いことですから。だから、ある程度加工したものを探すのですが、ないから、自分で準備しておくってことになっています。でもやってもやらなくてもいいことなんですね、本来。
最近は、たまに英語でそれをやりました。学校でも鉄緑でも教わっていない勉強方法のことだったので。。これなどはもっと効果あり、こどもに大変に感謝されました。
以前、未来さんに、家庭教育も戦略的な与え方って必要ですよね? 適性さんに、先回り教育はダメですよね! って意見交換をしていたのですが、お腹いっぱいの時には、たぶん、何も言っちゃいけないのですよね、親は。
きっかけはいいですけども、それもタイミングがありそう。こどもに拒否反応を起こさないように考え方を移植する手術なわけですから、細心のこころ配りも相当に必要でしょうね。クラシック音楽も、落語も、街歩きも、ようは何でも良いと思うことはやっていいのですが、それが「押しつけ」でなく、きっかけになるところでとどまれるかどうなのか。。
子供の「キャラ」って、自分で日に日に育っていくモノですから、それを見ながら親もまた
考えるんでしょうね、如何に手を掛けないで(上手に手をかけて)必要な手数だけでそのものの個性なりに育てられるのかって。





























