充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
こんな意見もさん
>でも「所有」という概念なんて仮説にすぎないんだけどなあ。
仮説かもしれないけど。
でも、人間の「所有したい」という欲求的情念は極めて強い。
「所有」すると、それだけで気持ちいいでしょう?
未来さん
お久しぶりです
> * 少人数教室
20人に1人の教員
みんなが一斉に聞く講義の形態も従来通り必要だと思いますが、
1人1人に丁寧に、という意味では、20人に1人の教員でもまだ少ないと思います。
ヒトが何かをする時って、おおかた、1(自分)対1(相手)です。
買い物をする時、銀行の窓口、初めて自転車乗りを教わる時も。
互いにきちんと確認し合うことができる割合が1対1なのだろうと思います。
という理屈で、初等教育だからこそ、1対1が理想的だと思います。
そうはいっても、生徒の数だけ先生も、ではなく、
毎授業中に、各生徒に15分程度の理解の確認や質疑に応じる時間を作れるだけの教師数が存在すれば事足ります。
1年生2年生の初等教育であれば、定年退職後の元先生等に御協力をお願いすれば不可能なことではないと思います。
毎日家に帰ってから、宿題や課題をしなくてもよいくらい、学校で過ごしている時間帯で、
基礎の習得を充実完結するのが望ましい。
教師の人数についてはそのように思います。
通りすがりの企業人様
>上原さんが、ある日、セッションで、チック コリアの10の問いかけに、2か3くらい、返せるようになったと感じた、その日、チックに、いっしょにアルバムをつくらないかと誘われた、と言っておりました。
「返せる」って気持ちいいですよね。
若かりしころは「追い立てられる」・・ばっかりでしたけど。
企業人様は、ピアノ弾きなのですね。
チックコリア、キースジャレットという大御所様方もコンチェルトを演ってましたよね。
クラシックって、それほど魅力があるということなのでしょうね。
(キースジャレット・・演奏中にしゃべるのやめてほしいわ・・録音されてるし・・笑)
>私レベルの凡人は、今の私以上に踏み込むと、天秤が反対側に傾くように、音楽中心になるんですね。仕事は、最低限の生活を確保するため、空き時間はすべて音楽活動、というように。そういう生き方は否定しないけれど、そうなりたくはない、と考えて行動してきたことは、間違いありません。
うわぁ、わかります・・・。
音楽中心になると家庭は持てないと感じていますよ。
これ以上はナマナマしくて書けません。(泣)
企業人様の選択・・・私は正しいと思うし、リタイアしてからでもチャレンジできるし。
根本的様
>舞台芸術の方はとくに、こういうところを最も大事にしていらっしゃるんでしょうね。目前の聴衆の喝采、単純に聴衆を酔わせることができるかどうか、それだけが勝負だ、という世界?だから、「自分の評価」より「他人の評価」という結論になるのでしょうか?
本音で話すと日々の糧としてタレントのバック等で弾いている時、その感覚は、
企業人様の再現音楽に近く、聴衆を意識します。
(クラッシックという再現音楽が聴衆を意識するという意味ではありません)
JAZZなどのインプロの場合、意識は、一緒に演奏する他のプレーヤーに向いています。
楽しくお喋り(演奏)出来れば、私自信ハッピーですし、それを見た聴衆は
「きっとハッピーだろう」・・程度の気配りです。
演奏する目的がかなり違っています・・・
私は、どちらも必要なことだろうと思っています。
どちらかだけやっている方は、ストレスを抱えることになるんじゃないかな・・・と。
>やっぱり、ライブ録音でないと聴く気にならないんですよ。スタジオ録音では、「会話」とか「お互いを強く求め合う」という雰囲気が感じられないからでしょうね。
わかっていらっしゃいますね~。
でも、まぁ、偶には奥様と会場で・・
タラントの例え話・・・確かにちょっとニュアンスが違う部分もあります・・・が
聖書の解釈は、様々です。
根本的様のお考え・・・タラントの例え話と流れは同じだと感じました。
以下、独り言です。
企業人さんの・・・
>音楽については、つねに、自分の中に占める領域を制限しよう、という意思を働かせて来ました。
>それで、趣味の音楽を除き、ひとつのことを継続した、という意識は、あまり無いです。
読んで・・
制限しながら、趣味として、音楽を継続してきた。この「表現」することは、やはり、企業人さんの内面のバランスを保つのに貢献してるのではないか、人生を「よきもの」にしてるのではないかと思えてなりませんでした。
表現って「出力」ですが・・・「入力」もセット・・。
まあそんなこと考えて、なんとなく、考えたのが・・・
■「入力」と「出力」と「ミラーニューロン」
人は、肉体で考えれば、代謝することで「入力」と「出力」を繰り返します。
ならば、精神も、やはり、「入力」と「出力」のバランスが、大事でなのではないでしょうか。
表現(音楽)という「出力」装置を、持っていることは、精神の調律になっているのではないですか?
喋る、書く、歌う、演奏する、走る、蹴る、飛ぶ、打つ。
他人の、素晴らしい、この「出力」を、見たり、聴いたりすることは、「一般人」は可能ですけど、同じように、「出力」は、出来ないですよね。
でも・・
確かに「入力」であるのですが・・と『同時』に、見たり聴いたりしてる人の「出力」ではないのか。
これは、ミラーニューロンによる、脳内の仮想「出力」ですけど。
※ミラーニューロンは霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。他人がしている事を見て、我が事のように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。
本当は、出来ないことでも、スーパープレーを、自分がしているかのような気分にさせてもらっている。ミラーニューロンの反応が、心の反応と、密接なことは、十分考えられる。
「入力」と「出力」が同時に発生する、音楽は、だいたい素晴らしいし。
「入力」と「出力」が同時に発生する(思わず体が動く)プレーは、だいたい素晴らしい。
教育も、「入力」と「出力」が同時に発生することを意識したカリキュラムにならないものか・・・ってのはあります。ミラーニューロンが反応するように。
「入力」偏重じゃなくね。
なんか、ヒントになるような。気もするのですけどね。どうでしょうか・・
「俺は、俺だ」もいいけど。他人(話、音楽、映像、人物)にバンバン、ミラーニューロン反応させた方がいい。
で、相手のミラーニューロンを反応させる人になってくれたら・・なんてね。
そうなると、やっぱり、環境は、気になるよね。って話になるかな。
根本的さん
>「所有」すると、それだけで気持ちいいでしょう?
所有していること自体はもうほとんど意識しませんね。
欲望って、快の過去記憶が生み出すとすると、過去にどのような事柄に対して「快い」と心が感じたのかが重要になってきますね。
適性さん
ミラーニューロンのお話に関連して思ったこと。
善悪の基準を単純化しますとこうなりませんか。(仮説です)自分の外側に起きる事象、プラス(喜び)に対してプラス(喜び)と感じる心、マイナス(悲しみ)に対してマイナス(悲しみ)と感じる心、これを善とします。
一方で、プラス(喜び)の事象に対してマイナス(悲しみ)と感じ、マイナス(悲しみ)に対してプラス(喜び)感じる心、これを悪とします。
そのような前提で考えますと、ミラーニューロンの話は極めて核心的な話になってきますね。幼少期ミラーニューロンを正しく発達させたかどうか。
企業人さま、ありがとうございました。
日本医学会のある分科会の運営担当で
(といってもいちばん大事な仕事はめくり)、
見ておりませんでした、ごめんなさい。
さて、その学会でフランス人の方が講演され、
日本語と英語のハンドアウトを手配されていました。
でもじっさいに配ったのは日本語だけ。
紙がもったいないのは明らかですが…
音楽も亀ですが、私はライブ感がたまらないのです。
どこかおかしいのでしょうか?
一晩眠ってどうしても気になったので
ちょっと前の話題で
信頼感さんが
>旅に出て行く人がしもべたちに財産を預けたとき、「おのおのその能力に応じて」、1人には5タラント、1人には2タラント、もう1人には1タラントを渡しましたが、5タラントを預かった者、2タラントを預かった者が、その金を運用してそれぞれさらに5タラント、2タラントをもうけたのに対し、1タラントを預かった者は地を掘って金を隠しました。主人は帰ってきたときに、預かった金を運用した2人のしもべをほめましたが、金を隠したしもべからは1タラントを取り上げ、5タラントを預かってさらに5タラントをもうけたしもべに与えました。
これを
>各々の能力に差はあるが、それぞれに与えられたタラントを増やすことを主は望んでいる
という例え話です。
という解釈をされていました。
この当時のお金の呼び名がタラントであることから
タレントと関連付けて、語られるということはよくあります。
アメリカの新興宗教などはこういう解釈が顕著です。
資本主義アメリカは、お金を稼ぐことは正攻法のビジネスです。
なので、聖書の言葉もビジネス書によく掲載されていて
これがよく引用されます。
私の解釈は
イエスが教えたかったのは、
タラント≒信仰
貴方の持っているよりより教えを分かち合いなさいという
意味だということではないかと思います。
しまっておくのでなく、自分自身だけでもっておくのでなく
隣の人によりよきこの教えを分かち合いなさいとう。
その能力というのは、教義を伝える能力を示している
のだと。
この解釈が本来のオーソドックスな形でないかと考えます。






























