女子美の中高大連携授業
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
管総理が、先日福島原発20キロ以内は住めなくなるという発言をしたことが
外部に知れ、そのことを話した人物ははずされましたよね。
発表されない大切なことを後だしにすることによって
判断能力を鈍らせたり、仕方ないと思わせるような
コントロールの仕方は、下劣です。
カルト教団がやる洗脳と同じ。
だれも、責任をとりたくないだけの理由で
本当のことを言わない、
まさにこれが日本国の政治体質であり
今原発に対しても、反対派のパーセンテージが低いのは、
わかりにくくて、うやむやな発表をしているから
多くの国民が判断できていないからです。
日本は、高齢者が多いですからいろんな意味でネット情報が
はいってきていないそれらの人々には、なにが本当か判断できないのでは
ないでしょうか?
老眼さんが書かれておられましたが、
日本の教育の根本を考え直さなければならない
東電の 東大エリート と呼ばれた人たちの
体質はどこで作られたのか?
正義と誠意と真実という教育はどこでされてきたのだろう。
私立校の価値というお題目でここでいろいろ話されてきたが
未来の日本のために子供達の教育を考え直すべき。
ある時は、石原都知事の言ったように
我欲を捨てて正義を行う人物こそ
国を立て直す教育を目指せる精神を学べる場所
吉田松陰が講義した私塾『松下村塾』(しょうかそんじゅく)
緒方洪庵の適塾
学ぶだけでなく、師のすべてを尊敬できるような
塾
そういう塾が日本にあれば、希望が持てるんですけど。
企業人さん
こんにちは
「人や自然を第一に考える価値観を持つ人が、それぞれの場面で判断を下しているかどうか」
これに尽きるのではないでしょうか。
肯定的な場合には、歴史的にも正しい判断となる。
否定的な場合には、企業人さんがご指摘されたように、物質やお金、体裁や立場などのせせこましいことが優先される。
個人的場面では好き好きでよい価値観ですが、今回のような場面ではいたるところでその影響が色濃く出ているように思います。
価値観がどうであろうと左右されずに機能することを目指すのがシステム論と思いますが、
この震災の対応で、
機能するようなシステムが存在しなかったことを認めるのか、
あるいはシステムが機能しうる範囲を超える事象であることを認めるのか、
どちらでしょうか。
前者であるなら、大人の議論の積み重ねによって今後は何とかなるかもしれませんが、
後者であるなら、システムの議論以外の解決案を模索しなければなりません。
数日前に企業人さんが、教育でどうにかなるだろうか?と問いかけををされました。
私は、この問いかけから導かれるものこそが、唯一の方法であろうと思っています。
価値観にかかわることですから学校教育のみで済むものではありませんが、
だからと言って議論しないでいいということではないというご意見は正しいと思います。
歴史に学ぶことは復興再生に欠かせないことであるという動機さんのご意見に強く賛成いたします。
凡才さんをはじめ皆さんが「人や自然を第一に考える」価値感を持っていらっやる方々ですので今後の議論にもまぜていただければ幸いです。
じゃい子さん
感謝いたします。
根本的さん
私に対するいつもの鋭いご批判をひとこといただけませんか?
本当のことを話すと国民がパニックになるので事実を隠す、あるいは小出しにするなんてことは先の大戦の大本営発表と全く同じです。
マリアナ沖海戦で連合艦隊はほぼ全滅していたのに「サイパン奪還に連合艦隊がやってくると信じていた?守備隊。」 装備もないのに本土決戦を呼号した陸軍。一億火の玉になって抗戦をつづけたら原爆を次々落とされ民族全滅になるのを分かっているのに戦争を止められない指導部。
これって震災復興に10兆も20兆も掛かると言われているのに子供手当や、農家の個別保障をやめようとしないで増税に走る民主党と全く同じ精神構造。誰かが言いだしっぺになってほしいと思いつつ自分は責任を取りたくないので口をつぐんでいる。
保身、わが身可愛さ、日和見・・・・・・・こういうことは卑怯だという倫理観が昔はあったんでしょう。江戸時代の士族教育はよく知りませんが松陰なんてペリー艦隊への密航がばれてもいないのに自ら奉行所に出頭している。潔いのか思慮が足りないのか?
でも、じゃいこさんがおっしゃるようにそういう行動が人を動かす。弟子を発奮させる。自らも狂を発すると言っている。ああいう人物が存在できたことが幕末の動乱期を象徴しているんだと思います。安定した徳川半ばでは危険分子扱いでしょう。
点取りではない教育・・・・・・果たしてどこで誰がやれるのだろうか?
こんばんは。
どなたかがちょっと例にあげた、「原発なんて高いところに作ればよいではないか」について考えてみます。これに限った議論にします。
わたしも技術者の端くれで見る目は少々はあるとも思うので、わたしの優秀な友人のエンジニアと同様に原発プロジェクトにある程度関わっていたとすれば、予備電源や非常用電源はこれではダメだ、とか、具体的な点は考えるかも知れません。マグニチュード9への対応も可能性を考えると思います。非常の際を想定して、外部電源は複数の変電所から是非とも取るなどは考えると思いますし、技術者にもある程度の裁量がありますから、大幅なコスト変更でなく、それが自分の裁量で決められることならば改善できますね。
次に、「原発なんて高いところに作ればよいではないか」については、きっと、そうすべきかもしれない、というのは、気づくと思います。しかし、この気づきのポイントが、他の課題と違うのは、大きなイシューだということです。実に複雑な事情が絡み合って、その総合的判断の結果が表に出るだけのはずです。つまり、「原発なんて高いところに作ればよいではないか」とは「誰もが思いついて、誰もがなかなかできないことでしょう」というのがわたしの考え。
どういうことかというと、わたしを含めて、誰でもそう気づいても、高い処に立てるとした場合のコスト負担、長い工期、来るのか来ないのか判らない大きな地震、影響性も必ずしも評価しきれない(評価にも金がかかる)、決まった予算、土地の所有の問題、大多数の国民の無関心やサポートの仕方、さまざまな地元の方々の利権、役所の意向、地元の法律、高台の電波塔をどうするかなどなど、そういう具体的制限条件の”洪水”の中で、責任者としては、海辺の低地に低コスト出たてる、とい考えていけば行くほど、普通の判断と違う結論になる可能性は少なくなり、これは決して技術の問題だけではない、ある意味で、歴史の流れの中で「正しい」判断なのではないかとわたしは想像します。
ですから、「過ち」が繰り返されるのではなく、日本では敢えて言えば、「正しい」と考えられるからこそ、繰り返されるのでしょう。ここで、「なぜ、そんなことがわからないのか」「なぜできないのか」と、先に叫んでしまうことが、問題だと思います。自分もそのような大きな判断に一国民としてかかわっている「可能性」という健全ないし気が失われると、ついつい他人を「何やっている!」と非難して、自分もその一員で責任があることを忘れますよね。でもたぶん、あやまりという「レッテルを貼られる一瞬前には、「正しい判断」と認められていたことだろうと思います。
あくまで、これらは「可能性」です。その深い事情などを伺い知れないことが多いですね。しかし、そのような総合判断を深くえぐるような記述を、計画段階で入手したり、共有ができるかというと、これはどうでしょうか。おそらくはできないでしょう。知ることは今のところできないし、共有することもできにくい。(それをどうやったら変えられるかは、ひょっとしたら希望の光かも知れませんが)
日本で、「高い処になかった原発」で例えば、大きな災害・事故が起きると、まずきっと犯人さがしです。どういうことが起きるかというと、バッシングが起きる。短期間に格好のスケープゴート、例えば原発の場所や、仕様を決めるのに影響のあった人達や、例えば東電の役人、に対しておきるが、その人達は40-50年前の人で今はいないので、今の経営陣にたいして説明を求める。これは正当でそれ自体は問題はないです。
大事なのは、そういうおきまりの追求プロセスが大事なのでなく、自分たちが(=かれらがではなくて)本質的に持っている発想の仕方問題であるとか、優先度も置き方や判断の特徴とか、日本の社会としての実行力の限界とか、より深いところの何かの「鍵」でしょう。なにかを叫ぶことで、冷静に考える重要な機会を失うのだと思います。(わたしは民主党の応援団だったり、菅首相の後輩だったりしませんし、肩をもっているわけではありません。ただ、スケープゴートになってバッシングされているな、と思うだけです。)
まとめると、「福島原発をどのようにつくるべきだったか」は、外部から指摘できることが簡単に見えても、実際に違うように立てられるかというとかなり難しいはず。それを慎重かつ冷静に検証していったらよいというのが意見です。
駄文で恐縮ですが少々書いてみます。
歴史の文脈の中で、起きたことを、そのままに見つめることは、中高生の時代から重要なことだと思います。因果関係は簡単ではないです。情報といっても、知りたいことは普通の努力ではヌケだらけのはず。そして得られた内容の取捨選択のセンス、そういう目線もテクニックも、たぶん人からおそわるのは限界があります。なるほど良い先生は学校にいますし、わたしも高校の社会で良い世界史の先生に恵まれました。しかし単に大学を卒業して社会の教員免許を持っているから全てを教えられるのか、というとそんなことはないでしょう。歴史の読書を多量にし、見識のあるひとの著作を通じてあたらしい見方を学ぶとか、地道なことでしか啓発されないと思います。モノを自分で考えることもさらに必要です。私立中学高校でそのようなことがもし、歴史の授業で教えられるとすればすばらしいことですね。
企業に勤めていると、毎日がむしろ戦場のような感じなので、忙しさに紛れがちです。しかし、意識すれば、その日々の経験から歴史を見る目を養えると思います。このできごとはどういう歴史的な意味をわれわれにあたえるのか、そこからどういう将来を見通し、予測するかと言うことをベテランは必死に生きている中で知っています。歴史という意味では、震災がかならずしも特別だな、とは思いません。それだけ毎日のひとつひとつのできごとのインパクトは大きく、不備に気づくことも多いです。日常の気づき・判断こそが重いし価値が大きいです。そういう自覚がわたしには最近あります。 歴史は日々書き継がれているように感じられています。
ずいぶん前に、高校生大学生に「Issueから始めよ」という安宅和人さんの本を推薦しました。そういうモノの見方を若い人にしてほしいからです。それこそ、目を開く大きな武器になるからです。このスレッドでの反響は皆無でしたが、思いは変わらないので、こどもたちにも輪読会を開いて伝えました。
今日、福島原発からは程遠い福島市の学校で、子供たちの屋外での運動制限、幼児の土遊びの制限について、文科省の通達がでました。
このようなさなか、私は自分の子供に「それでも原発は必要なんだよ」と言うことはできません。うまいこと言いくるめるとしたら、「命よりも大事なものはあるの?」と言われそうです。
「原発なんて高いところに作ればよいではないか」・・・そうすべきであるとする量的さんの緻密な分析には脱帽します。当時原発政策を導入した方たちもきっと緻密に論理立てたのでしょう。しかし、そもそも原発は危険性の観点から是なのか非なのか、その最も肝心なところの検証が不十分であったことが明らかになりました。
『本質的に持っている発想の仕方問題であるとか、優先度も置き方や判断の特徴とか、日本の社会としての実行力の限界とか、より深いところの何かの「鍵」』を量的さんは大事なものと仰りました。そういう理屈的なものとは違いまして、幼少期であれば誰でも持っているのだけれど人生経験が増すごとにだんだんと失われてしまうもっと原始的な感性が重要なのではないかと思います。被災地でボランティアをしてますとその感性を維持できている多くの若者に出会います。とても貴重な存在です。子供たちの良い手本であるに違いありません。
私の知識では、原発というのは、けっこう効率が悪くて、大量の熱を捨てないと運転できない、このためには、水が最適なので、海や大河のほとりに建築されます。
これを山に持ち上げるのはけっこう大変だろう、と思うし、猪苗代湖のほとりにつくったら、もっと不気味な感じもします。
今の福島第一の構造と、原発を山に持ち上げる間に、無限に近い可能性があったはずだ、と思います。
原発導入当初はともかく、巨大な水槽が建物の上部にあり、非常電源やエンジンが海のほとりにほとんどむきだしで並んでいるような構造のものの運転を、何で延長したか、ということは、原発をなんで山に持ち上げないか、と考えることより、はるかに現実的です。
また、たとえば内灘の原発を山に上げろ、という議論は、ほとんど実現性が無いと思いますが、非常用電源を地上15mに持ち上げろ、というのは、巨額の投資をともなわずできるはずです。
このへんがなしくずしにならないように、危機感が共有されているうちに、さっさと安全対策を行ったほうが、延々と議論した結果よりも、よいものになりそうな気がしてなりません。
原発の建設や構造がどういう力学で決まったか、それが日本人のものの考え方とどう関係があるか、深く考察することは、否定しないし、重要だとは思いますが、永遠にコンセンサスを得るに至らない可能性が大きいです。
たとえば、経団連会長は、原発推進論、政府全面責任論を発言しています(東電に責任なく、損害賠償は全額国が行う、という主張)、こういう主張と、東電全面責任論の人と、コンセンサスを得るのは、永遠に難しいのではないかと。
あまい良い例ではないかも知れませんが、第二次世界大戦が終わり、なぜ第二次世界大戦に突入してしまったか、戦後60年以上経過して、まだ、コンセンサスを得るに至っていません。
しかし、アメリカの戦略だったかもしれないけれど、さっさと平和憲法をつくり、農地改革をやって、新しい国の骨格を決めたのです。
老眼さまの、原始的な感性、に共感します。案外、素朴なことの中に正解があることが多い、と感じています。
企業人さん
恐れ入ります。
日本気象学界会長報告を興味深く読ませていただきました。そしてそれについてのご意見。
鵜呑みにできないということを初めて知りました。福島の方たちも読んでるといいのですけれど。
動機さん
>点取りではない教育・・・・・・果たしてどこで誰がやれるのだろうか?
身近なところから始めたいですね。何年か経てば、何かの縁で横に繋がって・・・。何十年か経てば縦にも繋がって・・・。だんだんに立体化できればいいと思います。その頃は私たちは既にお隠れしてるでしょうが、それでいい。その教育の先生は資格を持たない青年でも構わないと思いませんか。礼を重んじて和を尊び、命を大切にする、生き生きした若者は子供の心に間違いなく響きます。大戦期に草の根を食べて生きてこられたご老人にもお願いしたい。きっと、日本中どこでも、誰でもできることです。動機さんもきっとそうお考えだと思いますが、私もそう信じます。




































