アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
確か、3.11の後だったと思うのですが、放射能をおそれ警戒する人を揶揄するような人がわらわらと出てきたときに、理屈だけで決められないことがある、というようなことを書きました。
大きな決定をするとき、何をどう分析しても一面でしかない、という場面に、よく遭遇します。そこで、足りない情報と不確かな足元のまま、行くか、引き返すか、決めないとならないのです。
そこで、納得いくまでデータを収集し、積み上げて、パワーポイント100枚の資料を作成し、役員の合意のもと、社長の許可を得ることには半年経過していて、マーケットも技術もはるかに進んでしまっている、ということに、とかく、なりがちだったのです。そんなことをやっていたら、会社は持ちません。
これが、動機の後付、かどうかはわかりませんが。。。。。
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もうひとつ、他人と違うことをやると、どんどん孤独になる、孤独に耐えられなければ、他人と違うことをやるべきではない、ということは、いつも、考えています。
なにかを達成しようとするときに、意外に重要な要素ではないかと考えています。
枕流漱石様 はじめまして。
中高一貫校に通う中3の娘がいます。私自身、中学受験をして、6年間一貫の環境で、中学高校時代をすごしました。
枕流漱石様の発想は、発想の出発点が、私と似ているところがあるのだけれども、
結論は、私と真逆になるので、面白いなあ~、と思いながら、
読ませて頂いています。
【2725388】 投稿者: 枕流漱石 様wrote:
>高校受験は、先の人生を見据えながら(確固たるものである必要はありませんが)自分の意思で選択し、結果をしっかり受け止める経験として、自己実現の一歩として、大きな意味があると思っています。
>逆説的に言えば、高校受験に於いて(或いは就職についても)その自主性がない場合は大きな問題だと思います。
多分、おっしゃりたいことは、
中学受験は、親の選択の要素が大きく、子どもの選択の要素が比較的小さいけれども、
高校受験は、ほぼ100%本人の意思で選択するので、
高校受験を経験することは重要だ、
ということなのでしょうか。
で、私はこれを読んで、自分自身の中3の頃を振り返ってみて、
枕流漱石様は、自意識(自己認識)の面で、きっと早熟な女の子だったんだな~。
それに比べれば、自分はやはり、おくてだったんだな~、って思ったのです。
自分で言うのもなんなのですが、勉強は得意だったんです、小さいときから。
でもその事と、「自分は何者か」を客観的に捉えられるようになる、自己認識ができてくる時期がいつか、は別物ではないか、と。
そうして、この「自己認識」が出来てくる時期は、子どもによって、相当、差があるのではないのかな、
と、枕流漱石様の文を読みながら、思ったのでした。
枕流漱石様の、ご子息のお話にも関係するのですが、
「自分は何に興味を持っているか」は、割と早い時期に意識できる、と思うのですよ。
特に、好奇心が強い子や、能動的な性格の子は、早い時期から、自らそちらに向かっていくのではないでしょうか。「自分は、これが好き。これがやりたい」と。
でも、「興味を持っている」「これが好き」である、という認識と、
自分がそれに「向いている、適性がある」、―そしてここが大事だと思うのですがー「自分は、本当は、どのポジションで、何をしている時に、一番充実感を得られるのか」との認識(自己認識)は、
必ずしも、一緒ではないですよね。・・一緒だ、という幸運な人もいるけれど、
多くの人は、いつか気がつく「本当は、自分は、違うのかもしれない」と。
自分の場合で言えば、
この自己認識が出来はじめてきたのは、高校1年の終わりから2年くらい、でした。
中3のときは・・・
小さいときから、本が好きだったから、中3のときは、小説家や脚本家になりたい、と思っていたのですね。
中学から演劇部に入って、いろいろな劇作家の脚本を読みあさって、
自分も脚本を書いていたり、したのです。小説も書いていました。
絶対に、表現することがしたい!!!と思っていた。部活に没頭していた中学生、でした。
でも、高校になって、演劇部の部長になり、
今までどおり、脚本も書いていたのですが、それだけではなく、あらゆる雑用と調整とマネジメントを一手にやるようになり、
一方で、舞台の主役を張る同級生を見ながら、
私は・・・もしかしたら、表現者になる才能は、ないかもしれない・・・と思い、
一方で、そうやって皆が生き生きと活躍できるように、仲間を後ろで支えながら舞台を見ているのが
・・・自分はそういう役割に向いているし、それが一番楽しい(幸せに感じている)のかもしれない、と思い、
多分、その時が、自分の自己認識の出発点なのですね。
自分の場合は、中3の時に選択したら、
きっと間違った選択になった、と思う、そう確信するのです。
だから、子どもに、中学・高校の6年間に、充分に「自分探し」ができる環境を与えたい・・・「これが面白い」「これが好き」「これがやりたい」と自ら飛び込んでいくタイプの子どもであれば、なおさら。
子どもも、高校受験に制約されることがない、中高一貫校に行かせたい、と思った、大きな理由です。
>もうひとつ、他人と違うことをやると、どんどん孤独になる、孤独に耐えられなければ、
>他人と違うことをやるべきではない、ということは、いつも、考えています。
>なにかを達成しようとするときに、意外に重要な要素ではないかと考えています。
あぁ、すごくよくわかる。
私などは、変な奴と言われることに慣れてしまった。
周りはそのうち理解してくれる(同質ではない、変な奴だということを)ので、
皆、ほっておいてくれます。ラク~。
が、やっていることそのものを理解してくれる人はほとんどいないので、
孤独といえばかなり孤独です。
もともと群れるのはあまり得意じゃないから、これはこれでいいんですけど。
会社員だった頃は、理屈じゃなんとなくしかわかってもらえなかったので、
最終的には、お願いビーム出して、上司に予算と人をつけてもらってたっけ。
若かったから通用したけど、いまだったら絶対無理だわ。
>高校受験は、先の人生を見据えながら(確固たるものである必要はありませんが)
>自分の意思で選択し、結果をしっかり受け止める経験として、
>自己実現の一歩として、大きな意味があると思っています。
私、高校受験ほど意志がない受験はなかったよ。
それこそ本当の偏差値切りだったもん。
上から何人A高校、次は何番までB高校…、みたいな。
もちろん現代の首都圏は違いますけど。
そう考えると、現代の都会の子どもは、幼い頃から選択肢が多い
=自分の未来を考える機会も多い。これはなかなかいいことかも。
全部読み切れないほどですね・・・
すみません。勝手に書かせてください。
前世・・・私はそこまで行きつきました(笑)
頭のおかしい人だと思わないでください。
偶然・・・全然否定しません。
人生は、選択の連続でもありますが、偶然の連続でもあると思っています。
でも同じ偶然でも、質感が違います。
1、ふらりとある書店に寄る。
2、ふっとある本を手に取る。
3、その本を購入する。
1は限りなく偶然に近い。
2は限りなく選択に近い。
3は選択。
みなさんは、たぶん、2を直感とか偶然と定義していらっしゃるような気がします。単に私の脳内の辞書がおかしいのでしょう。
数ある中からその本が目に留まったことは、私にとっては留めたに近い感覚なのです。「留まった」のは偶然的表現ですが、「留めた」は選択なんです。その本に目を留める理由が私に備わっていたのです。沢山の本に出会っているのにそれを手に取る何か・・・それが「自己」なんです。その本を手に取ったという客観的事実から、「自己」を確認しています。それと選択とが違う場合もあります。強いて言えば理性ですね。高価な本であれば買わないかもしれません。それは私が貧乏であるという環境から自主的に選んだ選択肢です。
う~ん。おかしいですよね、すみません。
同様に、背表紙しか見えない学校が並んでいて、そのどの学校を手に取るか、もう、その段階で何らかの選択が始まっています。「あ・・これいいじゃん」と思って手に取った理由が、無意識に内在しています。で、どういう訳か、同じ本が売れるんですよね、と書店のおじさんが言う。「東大百人入れちゃうよ!」という背表紙の本ばかりが人気でね!ということもあるだろうことは想像に難くはありません。でも、本当にその本でいいの?もっと違うのもあるよ?と私は言いたいだけです。もしかしたら、買わないっていう選択肢も別にいいでしょ?良く考えてね。それだけです。個人の自由を侵害するつもりは毛頭ありません。あんまり皆さんと違わないと自分では思っていますけれど。
息をすることは意識しない。
でも、息を止めることは意識する。
その違いって何ですか?っていつも思います。
息をすることには動機はいらず、息を止めるのには動機がいる?
双方に動機はいらない?息をするのにも動機があると思うのです、無意識の。
それを掘り起こすのは、たぶん意味がないでしょうね。無駄です(笑)考えているうちに息が止まってしまいます。
枕流漱石さんの書き込み以来活発な議論に発展してきて楽しませていただいています。
自己認識についての個人的な思い出は、実はあまりないですね、どこかで冷めていた
自分があったようです。
雄大な志もあまりなかったな、強いて言えば小学生高学年より将来画家になりたいと
思ったけども、(美術の先生が好きだった影響もあります)親の転勤で小学校も転校
になり、いつの間にか書けなくなってしまっていました。
で、将来は父親と同じくサラリーマンになるのだろう、そしたら大学に入らねばとは
思っていました。
結局、勉強はあまり好きではなかったので、小学時代は虫や魚獲り、中学高校時代はバレー
ボールに熱中し受験勉強も最後に駆け込みで詰め込みした状態でしたね。
大学に行っても、これだという理由で学部を選んだわけでもなく、ただ就職するには経済系
が良いだろう程度の認識でした。
結局熱中したのは合唱でしたし、勉強は不真面目な学生でしたね。
そこで人間関係を鍛えられましたし、今でも付き合っている多くの仲間たちという財産も得る
事が出来ましたがあくまで傍流のエピソードです。
という訳で、もともと中学受験という選択肢は最初からなかった私ですので、高校受験は当然
のことでしたし、選択の種類も総合選抜制だったからたいしてなかったので、高校受験が自己
認識のきっかけであることはあり得ませんでした。
息子の場合はどうだったかと言いますと、中学受験自体は親主導だったので、入学時点で将来
どうこうは判っていなかったと思います。
中学3年の後半になってiPS細胞の研究に興味を持って、それからバイオ関連の学部を目指
すようになりまして、それからは勉強に対しての真剣さが明確に変わっていきました。
その意味では6年というスパンが息子にとってちょうどよかったのだと思います。
今は大学の先輩の助言もあり、目指す道筋が本人なりに見えているようです、そうした財産を
息子なりに得ているのなら、息子にとって卒業までの大学生活をどう生きるかを真摯に考えて
もらいたいと親としては望んでいます。































