アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
年末、、00会、忘年会、の嵐でちょっと飲み過ぎ。
ここの皆さんもお体大切になさって下さいね。
さすがに飲み会で遅くなる時は息子に実家に行って貰うのですが、罪悪感でいっぱい。
「俺はもう子供じゃないから大丈夫だよ」って子供は言ってくれるのですが、う~ん。
実家の方では可愛い孫がやってくるので嬉しそうなのですが、申し訳ないな~、、、と思う私。
うちの母は、自分が仕事をしていたので、こういう部分ものわかりはエエのですが、自分自身が「夜に飲んでる暇があったら家族と過ごせ。」と、思う方なので、複雑です。(涙)
枕流漱石様
自分の思い通りになることに幸福感を感じる人が多くなったな
↑
これは、確かにそうかもしれませんね。
私も、こういった事を子供時代に徹底的に学んでおいて欲しいな。って思う事が多々あります。
社会的な立場、役職、そういったものがナイ子供時代に、皆で何かを作りあげる時にぶつかりまくって、感情を伴いながら何かを作りあげる経験をして欲しいな、、って。
そうすると、大人になった時に上手に「立場を考えて発言しない」「申し訳ないが、言わせて貰いますよ」が上手に出来るようになるんじゃないかな、、って。
空気を読むとかそういうのじゃない。
「立場を理解している、していない」
集団の中で自分の立ち位置を理解出来ているのか、出来ていないのか?
の問題。かな。
この前、一人の若造が偉そうにクライアントの方に意見したのですね。
私にすれば「どこまで言うねん。。」って感じ。
翌日、「立場をわきまえろ」と言っても通じない。
彼の中では「僕のやり方が正しい」のですね。
結局、「つぶされるよ。」みたいな感じでしぶしぶ納得させた感じ。
たぶん、本人は今も「僕は正しい」と思っていると感じます。
しかし、そこまで言わないと、相手の方の力が見えないのか?と、トホホでした。
適性様
『子どもを褒めるのは、行為を正す最も効果的な方法のひとつです。
たとえば、誤りを指摘する前に、まず子どもを褒めるのです。
「きみは賢いんだから、この間違いを直すことができるよね」と言うのです。』
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褒めて育てる。というのは、相手の考え方や、行為、結果をまずは受け入れる。
「相手を認める」事から始まるのかな?
■地域、時代さん
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褒めて育てる。というのは、相手の考え方や、行為、結果をまずは受け入れる。
「相手を認める」事から始まるのかな?
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うーん・・(存在の肯定)相手を認めるのは、前提でしょうが・・・
相手の「考え方や行為や結果」を受け入れる・・は・・・・どうでしょうか?
親は、子供の「考え方や、行為、結果」を受け入れられずに、怒って、子供の、「行為」を否定する場合もありますからね~。
でも、子供の存在を否定しなければ。・・酷い「行為」は、否定してもいいのではないでしょうか?
ダライラマの
>「きみは賢いんだから、この間違いを直すことができるよね」
と褒めて育てる、とは、
『君の中に、賢さも、善なるものも、あって、それを育てなさい。君には、未来がある。』
という「存在の肯定」がメッセージとしてある。・・しかし「行為は否定します」です。
「存在」と「行為」を『分けている』わけです。
ダライラマは、相手(全ての子供)の未来に、期待をしているのです。幸福を願っているわけです。
間違いが、その子の未来の閉ざすと、言っているのでしょう。
これが・・まあ『老婆心』というものでしょう(笑)
「きみらは、すでに、ろくでもないのだから、その間違いから、立ち直ることはないね。手遅れだ」
とは、相手に、未来はなく、相手の不幸や失敗を願っているわけで・・すでに、存在を「否定」しているわけです。それは、育てようとは思っていない・・ということでしょう。
これは、敵対している相手への言葉ですから・・ね。
確かに〇〇会、多くなってきました。師走も半ばです。
最近は、あまり呑めなくなりました。。。
名言は、いいとこまでいきますが(読解力で)如何せん、陳腐この上ない。
センスのなさを痛感する一瞬です。
ただ、名言とは、その言葉を発した人の人生を背負ってこそ輝き始めるものなので、
言葉だけが一人歩きする…というのは、
もしかしたら、その言葉が、普遍性を帯びる・・・つまり、共感者が増えて、
名言となるのかもしれません。
そう考えると、あの番組の、採点方式は納得がいきます。
自分にない感情を理解することはとても難しい。
同時に、相手にない感情を理解してもらうのはもっと難しい。
誰もが、正誤を測るモノサシを持っています。
でも、自分の持っているモノサシを正しいと認定してくれるのは誰でしょう。
場や相手によって、モノサシは変化したりします。決して普遍的な目盛が刻まれているわけではありません。だからこそ、似通ったモノサシを持っている人と集まると気楽なのでしょう。
ある人が間違った行為をしたとき、間違っていると認識しつつ、或いは、疑問を抱きつつ、その行為をしたなら、それは、「あなたのモノサシは正しいけれど、測り間違ったね」で、測り間違ったという行為だけを否定すれば良い。
しかし、間違っていると考えていない場合、その人は、間違ったモノサシを所有しているのです。「あなたのモノサシは間違っている、取り替えなさい。」ということはもっと多くのものを否定することになります。
ある人は、「あなたの所有するモノサシは間違っているから交換せよ」といい、相手は「それぞれのモノサシで測ればいいじゃない」といって拒否する。その場合、ある人は、「あなたは、そのモノサシを所有する限り、今後も間違った判断をし続けるでしょう」と印藤を渡す行為にでるのは明白。
ここで、問題なのは、誰のモノサシが正しいのか、議論しようではなく、
どうやったら、正しいモノサシを新調できるか、を議論することかと考えます。
そして、そのためには、お互いに、自分のモノサシの「闇」を見つめる必要があります。ですから、否定するのは、相手ではなく、自分自身の行為と考えます。
君は賢いんだから、君の所有するモノサシがおかしいことに気づくよね?そのモノサシを一度壊して再構築できるよね?それは、自分で一度自分を壊してみることになるかもしれないけれど、それに堪えられるだけ賢いよね?
何かに固執し始めた時、モノサシの目盛は歪むように思います。
通りすがりの企業人さま
初めましてになるのかもしれませんが。
私も、この夏、若い人の訃報を何通が受け取りました。
こんない重なった年も珍しいかもしれません。
自分が生きていることが奇跡のような気持ちになり、
家族が健康であることに、素直に深く感謝しました。
それでも、納得のいかない、運命というものがあり、
それに対して、現世の因縁で考えると後悔の二文字しか思い浮かばないので、
私は、前世の宿縁と考えることにしています。
ご自身もご自愛ください。































