女子美の中高大連携授業
最難関に受かる子供は生まれつき、、、
子供達が公立小に通っています。
長男はまだ読み書き以前からなんとなく賢そうという感じがあり、中学受験を視野に入れた時に受けさせた塾のテストは初めから優秀でした。
下の子供たちは同じように育てたつもりですがいまいち。
塾のテストを受けた後は必ず塾から電話があります。
決まって言われる言葉がまだまだ低学年だから可能性はある、初めてのテストだから、、、的な話。
私立小は分からないので、公立の子供を例にあげますが、参観日で色んなお子さんを見ていると、特に塾など行ってない子供達が沢山ですが、とにかく勉強だけでなく生活全体に覇気がある子、ぼーっとしてやる気ない子がいます。
覇気がある子は親が中学受験も考えてはおらずどこの塾も通っていないから大手塾のテストをもし受けてもはじめはきっと偏差値も低いと思われます。
でもこういうお子さんが入塾したらものすごく伸びるのでは?と他人ながら感じるお子さんが数名いました。
そういう子が初めはテストの点数が悪くても可能性があるのであって、最難関に受かる可能性があるという子供は入塾前からほぼ確定なんじゃないかなと思われるですが違いますか?そんなことないと言わないと商売にならないから低学年ならどんなお子さんも可能性があるとは塾側もいうでしょうが。
我が子たちを見ていてもなんとなく生まれつきの素質なんじゃないかと痛感するのです。
長男もまだ最難関に合格したわけではないのでなんともいえませんが。
本音は違うよ、可能性あるよという意見が欲しいです。
中学受験率は全体の10%未満と聞いたことがあります。
学校数を考えれば数%かもしれません。
最難関合格は限られた中での戦いになり、世間で言われるほどボーダー圏内に滑り込むのは難しくない気がします。
ですので、中学受験こそが、努力と戦略と少しの才能で乗り切れる受験ではないでしょうか。
東大は大きな才能と努力が必要。
戦う相手が多すぎますから。
本来、学ぶということは子供にとって楽しいことだと思います。わかるようになること、できるようになることは楽しい、嬉しいことです。
それは、子供自身が前向きに取り組んでいるから、楽しいのだと思います。
まだ、小学生の子供にとって苦痛であり悲壮感ただよう中学受験なら、子供のためにはならないように思います。
生まれつき、素質、才能、環境は、子供自身にとっては変えようがないものです。
ただ、気持ちの持ち方や自分の力を最大限伸ばす努力の仕方は変えられるものです。
願いがあり、やってみてダメだったことと最初からダメだと言われやらなかったこととは、子供にとって残るものが違います。
中学受験現役家庭だったころは、地頭、というのを頑なに認めてなかったけど(あまり子供の成績が良くなかったので)、今にして思えば、そういうのもあるのかもしれないね。
受験技能は人間として必要な能力のごく一部だと思えば、そういう限られた能力に長けた人もいても、まあそんなもん、と思えてきます。
地頭って何でしょうね。
このスレでは、素質という言葉と同じように使われているように思いましたが。
ビジネス用語の地頭とは違ったように使われていますね。
「地頭」というと私は、「それまでの生活経験(学校を含む)や思考経験を総動員して考える力」というように思うので、あえて使いませんでした。
元教師さん、ありがとうございます。
確かに人は明確な目標を持つと力を得ますよね。
子どものうちは、明確な目標設定や目標達成方法の構築・実行をはじめから期待するのは難しいので、元教師さんが他のレスで触れておられますが、子の「学びの楽しむ」という心のローソクに火を灯せるような親でありたいと今のところ思っております。
生まれつきの資質がある、とか、ない、とか二者択一のものじゃなく、程度問題だと思います。
持って生まれた地頭偏差値が、本人の努力と環境(親の努力)で、プラスマイナス20%くらい変わる、というイメージじゃないかな?
地頭偏差値が60の人が最大限努力すれば72の学校に受かる。
地頭偏差値が50の人は頑張っても60の学校が精一杯
地頭偏差値が60の人もサボれば48の学校しか行けない。
スタートラインの違いで影響はあるけれど、それなりに逆転の余地はある、という風に思います。ただし、「それなりに」。
受験勉強の才能に「地頭」という言葉を使うかどうかは用語の問題でどうでも良いと思います。外資系などのビジネス用語では、もう少し普遍的な能力を指すようですが、このスレでは「受験勉強の才能=地頭」と定義してもよいのでは?
人間のある一つの側面のみを表す才能なので、万能の頭の良さではない、という面には留意が必要です。




































