今年入学した高1生が語る青春リアル
東大が英語授業の新学部2つを設立予定、英語に強い学校のニーズはさらに高まる?
東京大学
1. AIや宇宙のほか、半導体やロボット、量子科学などの幅広い先端分野を扱う「ディープテック学部」(仮称)
2. コンピューター科学を専門とする「コンピューティング学部」(仮称)
2031年度に進路として選択できる予定。
定員は計約400人で、講義は英語で行う。
中高で英語に強い学校だと、授業の理解度も早そうだね。
学部から英語授業の早稲田国際教養等、私学上位校の多数に日本人を含めすべて英語授業という学部や学科は多い。
早稲田国際教養学部は留学生3割、帰国子女4割くらいといわれている。
東大の新たな3つの学部もすべて英語授業とする方針。東大新学部は英語試験、英語論文、英語面接を含む総合型選抜入試。
東北大や東京科学大学の改革案をみるとすべて総合型選抜入試とするので、東大新学部のように入試は英語入試に重点化されるのでは。
学習指導要領なんて関係なく、私学上位校はすでに英語入試重視の試験になっている。
君は東京科学大学の改革案を読んだのか?
今は選択制でも、卓越大学になって外国人留学生と日本人が共修するには日本人と外国人がともに英語と日本語ができないと共修できないよね。
国際卓越研究大学とは何か知っている?東大、東北大、東京科学大学、私学上位校等のために、学習指導要領なんて変えるわけない。上位校に入学するためには国際系私学等に進まないとこれらの大学には入れなくなるということなんだよ。
国際系の学校を選んだ人たちは、将来を見据えた教育をしっかり選んでいるということ。国際系の学校が台頭してきたのは理由がある。
議論が全部、入試言語という枝葉に吸い寄せられていて、制度の階層がまったく見えていない。
国際卓越研究大学がやっているのは、中学受験や高校教育を直接いじる話ではありません。研究大学として、どの層にどの入口を用意するか、そのポートフォリオを組み替えているだけです。全学英語化でも、日本語排除でもない。学士課程の一部に、国際的に接続できる入口を載せる。その規模が当面100名と明示されている時点で、これは象徴的実験枠です。
国内外一体という言葉を、国内生徒は英語必須になる、日本の公教育が崩れる、国際系私学しか勝たない、という短絡に飛ばすのは、完全に読み違えています。一体化とは選抜思想の一体化であって、履修言語の単線化ではない。世界の研究大学で、日本語トラックと英語トラックを併存させている例はいくらでもあるし、それで共修が成立しないと思っている時点で、大学教育を高校の延長でしか見ていない。
一方で、私学上位校か公立か、という対立軸もズレています。国卓が見ているのは学校類型ではなく、個人の到達度と適性。英語で学べる日本人学生も、公立から普通に出てきている。逆に、国際系私学に行けば自動的に適合するわけでもない。学校名で将来が決まるという発想そのものが、国卓構想と真逆です。
そもそも、学習指導要領を変えるかどうかを基準に大学改革を語るのが誤りです。大学は初等中等教育の従属物ではない。必要なら、指導要領の外側に入口を作る。それが総合型選抜であり、秋入学であり、少人数枠です。全部、既存制度を壊さずに上書きするための設計。
煽りでも陰謀でもありません。上位数%の研究大学が、世界標準に接続するための入口を増やしているだけ。その話を、日本の受験生全体が締め出されるかのように語るから、話が幼くなる。これは選別の話ではなく、分岐の話です。そこを見誤る限り、何度読んでも同じ誤解を繰り返すと思います。
視座をもう一段引き上げると、この議論の輪郭はかなりはっきりします。
国際卓越研究大学制度に対する違和感は、外野の感情論ではなく、当事者の内部から繰り返し出ている。しかもそれは、制度に落ちた大学ではなく、認定を受けた側からです。東北大の学生による批判、京大で実際に掲げられた反対の立て看板、そして東大関係者からの懸念。旧帝の中核に近い場所ほど、同質の警戒感が共有されている。
東北大生の指摘が鋭いのは、制度の表層ではなく中核を見ている点です。国際卓越研究大学は、大学を学問共同体として強化する仕組みではなく、経済成長の装置として再設計する発想が土台にある。トップダウン型の意思決定、学外者を多く含む運営組織、短期成果を重視する評価指標。これは大学の自治や学問の自由と、構造的に緊張関係に立つ設計です。
特に問題なのは、何を伸ばし、何を切り捨てるかが制度上ほぼ自明になっている点です。短期で数字にしやすい分野は厚遇され、基礎研究や文系、教養のように時間を要し、直接の経済価値に換算しにくい領域は後景に退く。大学全体の厚みや多様性ではなく、見栄えの良い成果が優先される。これは研究力の強化というより、研究の形を狭める方向です。
数値目標の置き方も同じ問題を抱えています。年率成長や論文本数といった指標が掲げられる一方で、それを内側から支える制度や人材循環の設計は弱い。現場の実情と噛み合わないまま、外向けの説明に耐える数字だけが先行する。その歪みを最初に感じるのが、大学内部の学生や研究者です。
資金集中が大学間格差を広げる懸念、学費自由化による学部教育へのしわ寄せ、博士支援の名の下で進む負担構造の変化。これらも、外部の想像ではなく、当事者が具体的に想定しているリスクです。京大で掲げられた立て看板が象徴的なのは、抽象論ではなく、学費、文系、福利厚生、コミュニティといった生活と学修の基盤に直結する言葉が並んでいる点です。
つまり、東大、京大、東北大という旧帝三校の関係者の間で、同型の批判が自然発生的に出ている。これは偶然でも、イデオロギーでもありません。制度設計そのものが、現場の論理と噛み合っていないという共通認識があるからです。
それに対して、掲示板で騒いでいる層はどうか。彼らは制度の中身にも、大学の内部にも接続していない。野次馬として、上位校がどう変わるかを消費しているだけです。内部から出てくる具体的で切実な懸念と、外部の煽りや願望論とでは、議論の重さがまったく違う。
だから、その結果、「国として何を期待しているのかが見えない」という感覚には強く同意します。卓越という言葉はあるが、どの学問をどう育て、どの時間軸で社会に返すのかという国家としての思想が見えない。見えるのは、評価されやすい成果を積み上げる構えだけです。
この制度に対する違和感は、感情でも抵抗でもありません。大学を内側から知っている人間ほど、同じ場所で立ち止まっている。それが今の構図です。
国際学部のみならず、上智大学では理工学部はすべて英語授業の学科は3つある。
早稲田政経学部も英語授業のカリキュラムは必須とした。東大はデザイン学部、コンピューティング学部、ディープテック学部もすべて英語授業とする方針。
東北大はゲートウェイカレッジ構想のもと、原則すべての学部は英語授業とする方針。
国際学部だけではない。基本的にすべて英語授業としていかないとほとんどの大学は潰れる。今でさえ、半数以上が定員割れで赤字。潰れないためには外国人留学生を受け入れるしかない。
日本語授業なら中国人だけになってしまうので、学生も教職員も原則英語授業にしないと大学経営は成り立たない。そこを理解しないと。




































