先生が感じた女子美生の印象
受験する学校選び2
以前は偏差値表や大学合格実績を頼りにできるだけ偏差値や大学合格実績の良い難関校を目指すご家庭が多かったのですが、現在はお子さんの性格や目指す将来像に適した学校を選ぶご家庭が顕著になっています。
探究型の学び、グローバル教育、STEAM教育、リベラルアーツ等の教育内容やイベントが多く楽しそうな学校等の教育環境で選ぶご家庭が増えています。
社会や大学受験等が大きく変化する中、どのような学校を受験するのが良いのか、情報共感しませんか。
小学校の雰囲気とか、ドラえもんなどによる刷り込みでしょ。
現場の先生 宿題は〜、生徒 えーっ
のび太 勉強できない、嫌だきらいだ
家庭での親 ゲームばかりしてないで計算と漢字だけはやりなさい
一個人の意見ではあるが小学校の授業を楽しいと思った記憶がない。
妙に体育が人気なのも理解不明だった
少し整理が必要ではないかと思います。
まず、総合型選抜が知識や論理的思考力を含むこと自体は私も否定していません。現在の制度上、総合型選抜でも大学によっては共通テスト、小論文、面接、活動実績、口頭試問などを組み合わせ、一定の学力確認を行っています。
ただ、私が問題提起しているのは、総合型選抜という制度名ではなく、その制度によって何をどの程度正確に評価できるのかという点です。
知識や論理的思考力は、比較的標準化された試験によって測定しやすい。一方で、主体性、創造性、探究心、協働性といった能力は重要である反面、評価者による主観が入りやすく、測定の妥当性や再現性が難しいことは教育評価研究でも長く議論されています。
つまり、重要なのは総合型選抜か一般選抜かという二項対立ではありません。
何を評価したいのか?その評価方法は本当に目的と一致しているのか?評価者間で基準を共有できているのか?という制度設計の問題。
学習意欲についても、関心を引けば全員が自立的に学ぶようになるという程単純ではありません。
好奇心や興味が学習の重要な動機になることは確かです。しかし、高度な学習には、興味だけでは乗り越えられない基礎訓練や反復、地道な努力も必要です。
例えば数学、語学、医学、工学などでは、本人が興味を持つ以前に、一定量の基礎知識や技能を身につけなければ、その先の創造的な活動には到達できません。
研究者や芸術家でさえ、最初から自由な創造だけをしているわけではありません。膨大な基礎訓練や先行研究の蓄積の上に、新しいものを生み出しています。
兄弟姉妹で同じ環境でも結果が違うという点についても、遺伝や能力差だけで説明する必要はありませんが、逆に環境だけで説明することもできません。
教育成果は、認知能力、性格傾向、興味関心、家庭環境、教師との相性、友人関係など、多数の要因が複雑に作用します。
だからこそ教育政策では、どちらか一方の思想に寄せるのではなく、多様な評価手法を組み合わせることが重要になります。
AI時代に必要なのは、知識を持たず自由な発想だけをする人間でも、過去型の試験に最適化された人間でもありません。
十分な基礎知識を持ち、それを使って問いを立て、検証し、他者と協働しながら新しい価値を生み出せる人間です。
その意味で、一般選抜と総合型選抜は対立するものではなく、双方の長所と限界を理解した上で設計されるべきものだと私は思います。
私は少し違う見方です。
小学校の授業が退屈だったという感想自体は理解できますし、実際にそう感じる子どもも少なくありません。
ただ、それをドラえもんや学校文化の刷り込みだけで説明するのは少し単純化し過ぎだと思います。
同じ授業を受け、同じ教科書を使い、同じ先生に教わっても、目を輝かせる子もいれば退屈だと感じる子もいる。その差は作品や学校文化だけでは説明できません。
教育心理学でも、学習意欲は環境だけで決まるのではなく、本人の認知特性、成功体験、自己効力感、興味関心など複数の要因が相互に作用すると考えられています。
だから、本当に考えるべきなのは、小学校はつまらないという話ではなく、どうすれば一人ひとりの知的好奇心を引き出せるかでしょう。
体育が好きな子もいれば、理科だけ目を輝かせる子、本を読むことが何より楽しい子もいる。
全員が同じ教科を同じように面白いと感じる教育は、おそらく存在しません。
だからこそ、画一的な授業だけでなく、それぞれの興味の入口を増やしていくことの方が重要なのではないでしょうか。
小学校入学前に漢字辞典開いて、自分の名前が何年生で習うのかしったり、
画数別学年別の漢字辞典だったから、最終項の警を異様に雲の上に感じてかけるようになりたいと憧れたのは覚えている。
自分の誕生日に何が過去に起きたのかとか調べるのも楽しかった。
けど、宿題は嫌なものという変な決めつけ空気と、みんなのエーヤダーが疑問に感じ次第に自分も同調し同じ反応をするのが並みと感じるように変わった。
子どもの様子をみると、漢字計算プリントのオンパレードで、辞書みたいに一画ずつ書かせるのもある。魅力がない。
それで採点をお願いしますと依頼がくるから、出したなら自分で採点くらいしなさいという思いを返して先生大変だろうけど、採点してもらうようにしてる。
>教育心理学でも、学習意欲は環境だけで決まるのではなく、本人の認知特性、成功体験、自己効力感、興味関心など複数の要因が相互に作用すると考えられています。
→それはその通りだが、学校教員に求めるのは酷である。
>だから、本当に考えるべきなのは、小学校はつまらないという話ではなく、どうすれば一人ひとりの知的好奇心を引き出せるかでしょう
→わかりやすい説明に変えてくれてありがとうございます。ここは親の出番や塾の出番しかない気がしますがいかがでしょう。
私も、全てを学校の先生に求めるのは現実的ではないと思っています。
1クラス30~40人近い子どもを見ながら、一人ひとり異なる認知特性や興味関心に最適化した授業を行うのは、どれほど優秀な先生でも限界があります。
だからこそ、学校、家庭、地域、塾など、それぞれの役割分担が重要なのでしょう。
ただ、私は必ずしも親や塾だけの役割とも思っていません。
最近は博物館や科学館、図書館、企業の体験プログラム、大学の公開講座、オンライン教材など、学校と家庭の中間にある学びの場が増えています。
子どもが何か一つでも「面白い」と思える入口に出会えれば、そこから主体的に学び始めるケースは少なくありません。
結局、勉強させることよりも、知りたいと思うきっかけをどれだけ増やせるか。
私はそこが一番大切なのではないかと思っています。
実際、子どもの学びへの関心をもってもらうことは凄く難しい。
中学受験や大学受験等になれば、楽しいなんて思うこともなく、努力、苦痛の連続だと認識している人も多いだろう。本当にこんな勉強を子どもに強いることが正しいのか疑問をもつ保護者も多いだろう。
他方、帰国生や附属あがり、学校推薦などの子どもたちは明るく快活で一緒に学びたい働きたいと思わせる性格に育つ子どもが多い。
これは全人格評価をする海外の評価基準や入試、学校推薦等の選抜方式等の影響が極めて大きい。つまり、日本の大学の一般選抜入試や中学受験のような受験対策で努力と苦労を強いることは健全ではない。
海外の選抜方式や入試のように、全人格評価であれば、受験勉強のみ強いられることもなくなる。スポーツに打ち込んでもいい。社会活動に没頭してもいい。学生起業家になってもいい。社会課題を見いだし、解決するために奔走してもいい。学力があることを前提に、何か一つでもずば抜けた才能があれば選抜する、
そうした仕組みが米国トップ大学の成功の秘訣だ。日本も総合型選抜入試で学力があることを前提に、尖った才能を選抜するようにした方がいい。今、社会で求められているのはそういう人材だ。






























