在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
しろくまさんにアドバイスを頂きたい人集まりましょう。
6年生。
難関校を目指しております。
国語が大の苦手。
元講師だったしろくま様
しろくま様のアドバイスは温かくってほっとします。
国語についてアドバイスを頂けたらと思っております。
宜しくお願いいたします。
(対比型説明的文章の解法)(その2)
(問題文の続き)
私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろ紹介されるなかで、あの素朴な竹の響きが西洋人の心を引きつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまり忙しすぎて、ひとつの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外の噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。
流れる水と( A )水。
そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場には至る所にみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草木もここでは添え物にすぎず、壮大な水の造型がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音をたてて空間に静止しているように見えた。
時間的な水と、( B )的な水。
そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統のなかに噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ①日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けていて表情に乏しいのである。
西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。
いうまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏付けられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにはもはや水を見る必要さえないといえる。ただ、断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの②「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕かけだといえるかもしれない。
問1 ( A )には文中の5文字を、( B )には文中の2文字を入れなさい。
問2 ①「日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた」のはなぜですか。
問3 ②「鹿おどしは、日本人が水を鑑賞する行為の極致を現す仕かけだといえるかもしれない」と言えるのはどうしてですか。
典型的な対比型説明文(随筆)です。
すでに説明的文章を読むべきポイントを明らかにしました。あとは「対比型」の整理ができるかどうか… その方法は、解答とともに次回に示していきたいと思います。まずはみなさん解答をお考えください。
しろくま様
親身になってアドバイスいただきありがとうございました。最近この事を考えて眠れない日々を過ごしておりましたので、お返事を読んで気持ちが安定いたしました。
我が子が通う塾は、
①灘と甲陽のコースは別になります。
②講師も別です。
③国語、理科に関しては重なっている教材があるようです。(理科はほとんど同じかもしれません)算数は甲陽コースのと異なる教材でやっています。授業時間は変わりませんが、たしかに宿題は多いようです。
確かに甲陽コースの先生方をお見かけすることはありますが、まだお話したことはございません。灘コースの先生の隣で甲陽コースの先生に声をかける事は今までできませんでしたが、今度懇談の時にでも勇気をだしてお話してみようと思います。
どの方も灘と甲陽ではレベルの違いと考えてはいけない、問題の傾向も求めている物も違うとよく言われます。確かに国語は灘の詩、甲陽の物語と見た目だけでも違うことがわかりますが、算数や理科に関してもあきらかに違うのでしょうか。このまま灘の対策をしていって、最後にやはり甲陽を受験したいと思った場合、それが困難になってくるかもしれないというのが一番の不安なのです。国語に関しては子供に空き時間や寝る前に読む物語の本をこちらで選び、親子で感想を言い合ったりして少しでも物語文から離れないようにしています(これは楽しんで読んでいます)が、算数や理科の違いは親の方もよくわかりませんし、これ以上他の対策をする時間もないというのが現状です。
シロクマ様がおっしゃるようにいろいろと布石を打って、最後に親子で納得がいく「名誉ある撤退」をするのが本当に良い選択だと思います。ただ、甲陽は番狂わせがあるとか、灘がちょっと無理だから甲陽なんて考えは甘い・・・といわれると不安になるのです。そこまで不安になる必要はないと思ってよいのでしょうか。
最後にもう1つお聞かせください。確かに我が子はいわゆる「一本道」の子供です。一途で融通がきかないタイプです。そういう子供が「入試の過程」で強く、「結果」に弱いというのは、志望校に失敗したときの精神的ダメージを受けやすいということなのでしょうか。その事も感じておりますので、余計に今悩んでいるのかもしれません。
またお時間のある時にアドバイスいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
横入りすみません。
シュガーさんが悩まれているので、少しでも気持ちの足しになればと思いまして。
参考にならなければ読み捨てて無視してください。
算数は灘の算数ができていれば甲陽も大丈夫だと思いますが、
部分点が評価されるので、解法を丁寧に書く癖をつけたほうがよいと思います。
灘の算数では、とかく速さが重視されがちですので。
国語は、基本的にどの難関校もすべきことは同じだと思いますが、
甲陽は問題文が長く、また長文記述があります。読解の深さも要求されます。
算数とは逆に国語では処理スピードが必要かもしれません。
理科は傾向が微妙に違います。
灘は物理の難問、甲陽では化学の難問の出題が多いような気がします。
さりげなく甲陽の過去問で化学だけやっておくのもいいかもしれません。
見当違いでしたら申し訳ありません。ご子息の納得のいく受験ができますように。
「よこよこ」さま
横入り大歓迎です。なんせしろくまの頭は20年前… 最近のものも見るようになりましたが、やはり「今」入試に向き合っている保護者、終了組さま、現役講師の方々にはおよびません。
「よこよこ」さまの話ですと、昔と大きな差はないようです。
塾でも志望校別のコース毎に説明会が年に何回か実施され(これは現在でもそうですよね)、そのときに各教科の分析や勉強法の概略を説明しました。
もちろん担当のコースの講師は、他教科の説明も、ぼ~っと聞いているので、そのときの話の「うけうり」というか、聞き覚えも交えて「よこよこ」さまの話に付け加えさせてもらいますと…
算数は大問1からちがう、と申しておりました。つまり「計算」というか…
今は違うのでしょうか、甲陽はかなり「手を動かす」、手間がかかる計算が多い、と当時は講師は説明していました。また、アプローチの仕方が違う、という言葉もおぼえています。そこから何やら細かい問題例を出して比較した話をしていました。「よこよこ」さまのおっしゃるように、甲陽はプロセス重視の問題なのでしょう。
国語は灘は、さらにちょっと気になるのは「語句のセンス」が要求されているような気がします。空欄に、ちょっとした表現などを挿入したり選んだりする問題があるのですが、あれなどけっこう精神年齢の高さを求められます。指定された慣用表現を用いた短文作成なども、模範解答が用意されているのではなく、その子の解答をみて判断する、というような採点もしているようです。
甲陽の国語は、抽象能力がかなり要求されます。前にも申しましたように灘の説明文や説明的な随筆は、問題文の語句やそこに書かれている表現などかなり明確な手かがりがあって、それに基づいてまとめれば解答に近づけますが、甲陽の場合も、そうには違いないのですが神戸女学院と同様、かなり咀嚼して自ら抽象化した表現、解答を必要とされる記述問題です。子どもによっては甲陽のほうが解きやすい、灘のほうがやりやすい、と分かれるところです。
国語が得意で算数が弱い子が甲陽にコースを変更したとき、甲陽の国語の問題のほうが好きだ、と申していたことを思い出しました。前にもレスしたように、国語が少々苦手でもかえって灘のほうが対応しやすいのですが、甲陽の場合は国語が苦手だと、かえって失点が大きくなるような気がするのも、この「長い抽象的理解を必要とする」設問の部分ではないかとも思っています。
理科は昔から「よこよこ」さまのおっしゃられているように灘は物理系で、え… これはなかなか… と講師も絶句するような、と同時に理科好きならば、これはおもしろいっ と講師が興奮してしまうような問題が出ていました。問題を解説をする担当講師のうれしそうな顔をよくおぼえています。
「シュガー」さまの塾で、理科の教材がほぼ共通というのも実はよくわかります。理科の講師が、灘・甲陽間の生徒のコース移動がわりとあるので、直前までは物理・化学系は等質・等量にひっぱっていく、と申しておりました。まさに「よこよこ」さまのおっしゃるように化学系は、「さりげなく」模試などでできているかどうかチェックしておいてやればよいわけですね。
まぁ、しろくまが長々、みなさんがご存じのことを述べるよりも、説明会などで講師をつかまえて、「実際どう違うのっ!?」と問いただしてみてください。
さて、「甲陽の番狂わせ」という言葉が有名ですが… 実はこれはどこの中学でも起こりうることなのです。ただ、偏差値が高い世界での話ですので、あれだけできている子が不合格?! みたいなインパクトがあるので「語り継がれる」表現なのでしょう。
ただ、どの学校でも起こりえる「番狂わせ」の原因は、前にレスした「志望校変更病」が原因の1つです。問題の質の差異、形式の相違などの理由もありますが、むしろ子どもの場合は、こっちの理由が大きい、と、かつての私の「講師の目」にはうつっていました。
自分は灘が志望だったが、甲陽に変わった、親も灘は無理でも甲陽ならば、と思って、気を抜くわけではないのですが、ちょっとした言葉や態度についついそのようなそぶりを見せてしまって、子どものそういった「あなどり」意識を助長してしまう…
量もこなすし、質もしっかりやるのだけれど、やはりどこかに「勉強の粗さ」が目立って、少しずつ目に見えないところでポテンシャルの低下が進んでいた、という場合があるのです。
そういうことへの「警鐘」として講師は(じっさい私も今もみなさんに)、灘と甲陽を同じに考えてはいけないよ、問題も違うから侮ってはいけないよ、と言うわけです。
ですから逆に、そういう「意識」「対策」「根回し」などをしっかりしておれば、「そんな大げさに言わなくてもなんとかなってるやん」となるわけです。
7割は同じだが3割は違う… それを知った上での変更と知らないあげくの変更では、当然結果が異なるでしょう、という話です。
「単線思考」の子どもは「入試の過程」は強いが「入試の結果」に弱い… これはやはりそうです。どんな多くの課題も難問も、歯をくいしばってでもついていこうとするのですが、不合格だったときの、あるいはそこに達しなかったときの精神的ショックは大きいのです。「志望校変更病」にも陥りやすいこともまた確かです。
表裏一体で、難関校に合格する子もまたこの「単線思考」の子が多いことも確かです。ですから、ついつい塾も講師も、「難関校を合格させるため」に「単線思考」へ子どもを導こうとします… これがちまたでよくいう「洗脳」する、というご批判に通じるところです…
そういうことを意図しなくても、イベントがあり、文化祭引率後の特別講義があり、○○中学△△特訓、と「看板講座」を受けていれば、それは「単線思考」に育っていくのは当然です。
難関校をめざす人たちの「リスク」はここにあり、それを承知でいくのだっ と親子で覚悟ができる人もいれば、親と子どもの意識にギャップがあったり、子どもが塾に「洗脳」されてしまったりして、当初、こちらが思っていなかった方向になってしまった、と「とまどい」を感じておられる方もおられるハズです。
もちろん保護者の方はその「洗脳」を期待して塾に通わせる方もおられるのですから、それぞれの意見・立場は噛み合いません。そんなにまでして… と思われるのも正しいですし、何をいうてんねん、そのための塾やろ、というのも正しいのです。
親の意識の「測定器」として、諸イベントに関する取り組み方があります。
イベントに参加するヒマがあれば、もっと違う勉強させたい、文化祭に行くヒマがあれば公開テストや復習テストの見直しさせたい… 子どもも何やかんやと参加はほどほどでええわ、というならば「複線思考」に傾斜しています。
動機付け、モチベーションを高めなくてはっ! イベントに参加し、文化祭にもいき、子どもも「看板講座」を楽しみにしていく… 「単線思考」に傾斜しています。
どちらがよくてわるい、という話ではなく、ご家庭の「方針」なので相互の批判は無意味なわけです。同じ方法でも、一校の文化祭にいくのは単線思考ですが複数めぐるのは複線思考… 同じ動機付けでも単線にも複線にも持って行けます。
一本道に危険を感じるならば、イベントや看板講座への参加は、ほどほどの塩加減にされることをおすすめします… 平常(ベーシック・スタンダードなど)と志望校別特訓、難関校は塾によってはそれに「最高レベル特訓」を付加するだけで合格できるハズ。もし、それでダメでイベントも必要だ、というなら、その根本システムに問題あり、との塾の自白に等しいわけですから…
お求めの回答になっているかどうか… また追加質問があればどうぞ。
よこよこ様
アドバイス、本当にありがとうございます。各科目の違いを読ませていただき、大変参考になりました。
現在はやはり算数に随分付加がかかっております。その算数の傾向が大きく違うと一番大変な事になると心配しておりましたが、なんとか今の授業についていけばそんなに違わない、ということにほっといたしました。
国語に関してはもともと読書が大好きな子供ですので、長文を読む事に拒否反応はありません。ただ、まだまだ記述の力は足りていないと思いますので、そのあたりを注意していきたいと思います。
理科は好きな科目なのですが、どうしても今は時間があれば算数にまわしている状態ですので、今後化学分野を中心に少し時間をかけて行きたいと思います。確かに塾では物理分野に重きがおかれているように感じますので、アドバイスをいただいて本当に助かりました。
いろいろと1人で悩んでいると悪い事ばかり考えてしまうので、ここで相談させていただいて本当によかったです。あたたかいお言葉、本当にありがとうございました。
しろくま様
いろいろと教えていただき、本当にありがとうございます。
よこよこ様としろくま様のお返事を読ませていただき、これから気をつけなくてはならない事が明確になり大変参考になりました。
算数の解答にたどりつくまでの過程はまだまだ丁寧さにかけております。どうしてもスピードを求められるし、灘の1日目は解答のみなので計算用紙にちょこちょこと書いて答えをだす、ということが多くなっているような気がします。2日目の対策として塾側もこれから手を入れてくださると思いますが、すぐにでもきちんと過程を書く事を求めていく必要がありそうです。
国語は、本人の気持ちは算数に比べると随分得意だそうです(親の目からみると首をかしげるところもありますが)おそらく、算数の本当に得意なお子さんには絶対勝つ事はできないけれど、国語はそういった苦手意識がないのだと思います。まだまだ幼い感じの子供ですので、抽象化表現というのはこれから気にとめていかなければならないところです。文章を自分のものにできるように咀嚼する、というのは一朝一夕でできるものではありませんので、普段の読書でも自分の言葉で短く説明させたりしたいと思います。
理科に関しては中学入試ではもともと物理、地学分野が難しく苦手意識が大きいお子さんが多いのか、どうしても時間を多く割いているような気がします。化学分野がこれでいいのか、と思うほど今のところは短い単元です。これはやはり気をつけてチェックしていきたいと思います。
「志望校変更病」、恐いところです。子供も親も偏差値で見て少しでも低いところを志望校に変更した場合、勉強の仕方が変わってきてしまう恐れがあるのですね。勉強の荒さがポテンシャルを落とす、という事は肝に銘じておきます。そして単線を複線に変えるのにイベントや看板講座への参加を考える、ということになるほど、と感じました。どうしても子供も親も目の前に出されたものは受けていかねば・・・と感じる事が多いです。そうしなければ落ちるよ、と言われているようで。でも、その時間を土台固めに費やそう、と子供を導く事はできるような気がします。確かに次々の参加で、やりっ放しの問題も増えていきます。子供心に不安を感じているところもあるようなので、その時間は土台固めをしようと声をかけ、選択していきたいと思います。
不安な親の気持ちに親身になって相談にのってくださるしろくま様に心より感謝しております。この一年、また相談させていただく事がたびたびあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。不安な気持ちが随分落ち着きました。本当にありがとうございました。
「対比型説明文の解法」(その3)
さて、山崎正和『水の東西』からの出題ですが、前に言うたようにノートを上下段に分け、「対比」的に整理していきます。むろん、前に述べた方法で重要な箇所を浮かび上がらせながら…
かの号泣少年は、A「日本」 B「外国」 というような感じの分け方をしました。細かくいうとちょっと文句のつけどころはありますが、まぁ、最初はその程度の分け方をさせていきました。
A 「鹿おどし」⇔ B「噴水」
A
○ 緊張が一気にとけて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおん、とくぐもった優しい音をたてる「のである」
○ 鹿おどし「は」我々に流れるものを感じさせる
○ この仕掛け「は」かえって流れてやまないものの存在を強調しているといえる。
対比型の文章は「は」は重要です。なぜなら、「は」は他と区別する副助詞だからです。他と違う… つまりこの場合は、「鹿おどし」の説明をしているようにみえますが、同時に「噴水」とは違う部分を説明しているのですよ。
「A⇔B」ならば、「Aを説明せよ」→「Bではない」、「Bを説明せよ」→「Aではない」という「解法の公式」が浮かび上がるのがわかりませんか?
つまり、「噴水」は「流れるものを感じさせない」「流れてやまないものの存在を強調したりしない」もの、と否定法で説明することが可能なのです。
今回の問題にはありませんでしたが、対比型の文章の場合は、
「Aを説明せよ」→「Bではない」、「なぜAではないのですか?」→「Bではないから」という第1段階の解へ導けるのです。
男とは? 女ではない という説明なので、まだ「第1段階の解」として踏み込みが甘いわけです。しかし、対比されているものの側の他の説明を「否定」するだけではなく、否定したのと同じ意味の表現を探し出せたら、「第2段階の解」となります。
ここが灘と甲陽の差で、灘の場合は文中に「第2段階の解」が書いてくれている場合が多いのですが、甲陽や神戸女学院は、自分で「抽象化」しなければならない場合が多いのです。
B
○「だが」、ニューヨークの銀行で「は」人々はあまりに忙しすぎて、ひとつの音と次の音との長い間隔を聴くゆとりはなさそうであった。
○ それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここで「は」水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。
同じ解法でみていくと、ニューヨーク=音と音の間の間隔を聴くゆとりがない、つまり、日本=音と音の間の間隔を聴くゆとりがある、と持って行けるわけです。
さらに、「鹿おどし=流れる水」「噴水=流れない水」ならば、「流れない水」をどう、他に表現しているか、を探すと、「噴き上げる華やかな」噴水という表現にいきつき、「流れる水と噴き上げる水」という対比に導けるわけです。
号泣少年は、わりとここまでスムーズに私の言うことを理解してくれました…
でも、この問題は、彼にとってはまだよいのです。なんせ「文中の表現」から探すだけでしたから… 抽象化がまだできない号泣少年は、甲陽・神戸女学院型は苦労するのです。ただ、対比してノートに書き出す、ということはわりと淡々とやっていってくれました。
とりあえず、「A⇔Bの場合、Aを説明するときは、Bではない、を考えろよ」という作戦は、彼の心に残ってくれました。(次回に続く)
「対比型説明文の解法」(その4)
B
○ 噴水「は」さまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。
○ 樹木も草木もここで「は」添え物にすぎず、壮大な水の造型がとどりきながら林立しているのに私は息をのんだ。
○ それ「は」揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというより「は」、音をたてて空間に静止しているように見えた。
さて、鹿おどし=時間的な水なわけですから、ここで「空間」という言葉が浮かび上がっているのがわかるでしょうか? 噴水=時間的な水、と導けそうです。
A
○ 日本の伝統のなかに噴水というもの「は」少ない。
○ 日本の噴水「は」やはり西洋のものほど美しくない。
○ 東京でも大阪でも、町の広場「は」どことなく間が抜けて表情に乏しい。
たとえば、今回は問題にはなっていませんが、「間が抜けて表情に乏しい」とはどういうことですか? のような灘型の問題の場合、先に述べた
「A⇔B Aとはどういうことか→Bではない」の解法を用いれば
「風景の中心にならない」「造型にならない」、という表現を用いてまとめることもできるわけです。
B
○ 西洋の空気「は」乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。
○ 「だが」、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由「は」、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。
これは明らかに主張でしょう。そうして続きます。
○ 日本人にとって水「は」自然に流れる姿が美しい「ので」あり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のような造型する対象ではなかった「ので」あろう。
前に述べたように「のだ」は理由の解き明かし。ずばり、「理由の説明」なのですから、問1の解答はここに目をつければよいわけです。
号泣少年は、ノートで整理しながら、この中の言葉を使えばええんやんかね? とニコニコ話してくれるようになったので、私は正直、ホッとしました。十分な成長でした。
「あとはやっぱり抽象化能力だなぁ~」と思いましたが、これには時間がかかる、そこで、とりあえずは小六でしたから、ちょっと視点を変えて、並行して違う作戦をかれにはとることにしたのです。(次回に続く)




































