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【1959431】30年のギャップ

投稿者: 浦島太郎   (ID:YpmNL9sdCbs) 投稿日時:2010年 12月 22日 15:18

訳あって、約30年日本を留守にして、本校についての一切の情報を得ることなく、昨年あたりからようやく、少しずつ世の情報を知るようになった15期生(昭和53年卒)です。

用事があって山手駅に立ち寄ってみると、同じなのは、あの制服・ネクタイ・白靴下、そして、どこか子どもっぽい学生たち。
昔の、分厚い学生鞄はどこに?サブのショルダーバッグや半オーバーは消えてしまったのか(というか、消えて当たり前のセンスではあったが)。

そんな浦島太郎状態なので、当然、東大合格者数なんて知りもしませんでした。
他のスレを読みながら、「高いところに上がれば、その分だけそこから引きずり降ろそうとする反対側の者も現われる。というのは、いつ、どんな世の中でも同じだなぁ」と、感じました。

30年前なら、中堅進学校からさらに上を目指したいとがんぱっていた時代。受験第一であることに、誰の批判も(学校内部も、保護者も、もちろん他人も)なかった。
もちろんネットのない時代ですから、言葉が伝わる環境が段違いですが。

聖光はそんなに変わったのか?なんでそんなに批判にさらされなくてはいけないのだろう?

人間教育なんて、昔から、ミッション系の私学の建学の精神の中での決まり文句みたいなものでしょう?
昔、学生のころは思いましたよ。「受験で勝ち抜ける子を育てること。それが人間教育か」と。
でも、そんなことは、他人に批判される必要はないし、嫌なら退学する自由はあるし、在学中はこれでいいんだと思わせる熱がありました。教師にも、学校全体にも。

卒業してからは、もっと大事なことに気がつきました。
どうして勉強して、良い学校に入るんだ?それは、人生の選択肢が増えている。あれをしたい、こういうことをしたい、と思えば、進む方向が増える。自分で選べるようになるということです。

昨年から日本に帰り、ニュースを見ていると、若い人達がいかに選択肢の少ない、選びようのない人生を送らねばならない状況に陥っているかを感じます。
しかも、それを社会経済のせい、人のせいにしている。
選択肢を拡げてこなかった自分の責任と思う人がどれほどいるでしょうか。

生徒には、自分で自分の人生を選べる人間になって欲しい。それが、昔から変わらず持っている聖光の精神なのではないでしょうか。

言い訳も、言い争いもして欲しくない。
生徒会もなければ、「何かを生徒が決める」という環境が一切(と言ってよいほど)なかった時代の生徒だったけれど、堂々と受験第一の学校であることを前面に押し出しながら生徒を引っ張っていってくれた。
「生徒の意思」なんて、どこにも存在しないようでいながら、あとになって、あのときはそれで良かった。本当に大事なことは何か、を後からでも感じさせてくれる学校です。

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  1. 【1960132】 投稿者: まったくそのとおり  (ID:ONl4oCXMt3E) 投稿日時:2010年 12月 23日 11:03

    「受験で勝ち抜ける子を育てること。それが人間教育」 これは非常にわかりやすい。


    いまは、「受験で勝ち抜ける子を入学させて育てること。受験第一」「人間教育」「カトリック精神」の異なった三枚看板だからわかりにくい。
    優先順位の1番を受験実績にした時点で、学校のベクトルはガッチリ決まりますから、浦島太郎さんのように
    これが「人間教育」「カトリック精神」だ! と断言しないと矛盾が生じます。


    で、この矛盾をどう考えるのか、このスレッドのテーマでしょうか。

  2. 【1960853】 投稿者: 4989  (ID:WjvY/ipkn66) 投稿日時:2010年 12月 24日 01:14

    三枚看板でも良いのでバランスじゃないかと思います。
    私自身、30数年前の私立校で東大に受かったやつ「も」いた、という程度の所でしたが、
    そこよりこっちの方が余程、大学受験事情に詳しい先生が多くおられるのは頼もしい限り。

    一方、ネットでしか知りませんが。東京の向こう側の方では、まだ新しい私立校が、
    東大XX選抜とか、エリート何んとかとかいうクラス名を付けたり、学校のHPで
    そういった合格者数をキラキラと見せたり、合格掲示板の前での胴上げの写真載せたり。
    どんな高校出たって、そうは変わらんもんでしょうが、私には、子供を通わせるに、
    ああいう所はチョッと敬遠という思いが強いのも確かです。

    肝心のセガレについては、只今のこの時間、パソコンで戦国ゲームにいそしんでいる
    ので、勉強するか寝ろ!と思いますが(笑)、学校が受験に向けてシッカリしている分、
    ウチのみたいに幼いままでのノンビリムードのヤツでも、「志望」校だけは立派な所を
    掲げて、何となく見捨てられずにいるのが最大の救いの様に思っています。

  3. 【1961094】 投稿者: 浦島太郎  (ID:YpmNL9sdCbs) 投稿日時:2010年 12月 24日 10:56

    私が、このスレを立ち上げて「人間教育」という言葉を書いたのは、この2つ前のスレ「ありがとう後輩たち」を読んでの違和感からです。

    人間教育を謳う以上、学校に全部任せればいいのか?学校生活が「~~な様子」「~~なことをしている」、それなのに、よく人間教育だなどと言えたものだ、という感じの批判が散見されるようですが、本来、躾やマナー、生活習慣、というのは家庭でするものでしょう。もうちょっと突っ込んで、奉仕や友愛という面も、家庭が中心となって教育すべきで、学校は、他人と接触する場=これら家庭で教育されたことを実践する場だと思います。

    家庭ですべき部分を、学校に求める。それが、現在の聖光(に子どもを通わせている保護者)は普通になってしまったのですか?
    「人間教育」ということが、そこまで「受験」と分離して、独立した教育理念の一つになってしまったのですか?
    まず、そこが30年の空白のある自分には解りません。

    聖光は受験私学です。それを理解して入学した本人と、入学させた家庭であるはずですね。
    人間教育と言っても、「学業成就のために必要な学力と人間力を育てる」そのためには学校は全精力を注ぐでしょう。
    例えば、学問の習得のための忍耐力・競争力、反復する力、修復する力、失敗してもくじけない、最後に受験合格というゴール(であるはずです。堂々とそう言って良いはずです)を目指せる子にしようとしてくれます。

    しかし、確かに現実を考えると、本当にできる子というのは、周りと仲良く、うまくやっていける子、上手な人間関係を築ける子であって、周囲の人間を遮蔽していると、人間がどんどん小さくなり、一度の失敗でつぶれて終り、ということもあります。

    だからといって、学校は、友達と仲良くしろよ。何かあったら相談できる友達を作れよ。なんて指導はしてくれません。それは、学校が指導するまでもなく「あたりまえ」のことだからです。
    躾、マナーを含めて、「人として、できることが当たり前。家庭が教えることが当たり前」のことを、どうして学校がそれらしいことをしていないと批判されるのでしょうか?

    30年前は、そんな親はいなかった。できていないのは、「学校が教えないせい」ではなくて、「そんなこともできない、自分の子として恥ずかしい」
    この学校に入れたのだから、この学校の方針を理解して、家庭で可能な最大限の協力をする。全ての親がそうであったと思います。

    入学されてから、学校の方針を批判する、そのこと事態がおかしい、と古い人間は考えるのです。

  4. 【1961232】 投稿者: いち親  (ID:q15AJsCSb.I) 投稿日時:2010年 12月 24日 13:41

    学校である以上、何か「資格」が目的か「就職」が目的か「進学」が目的かなど目的とするわけで、人間教育を目的にするという学校はあるのでしょうか? 人間教育は、あらゆる学校内の若い集団生活の過程(プロセス)においては、不可避なことではないでしょうか?「集団生活をする」という前提があるから学校は、塾などと違うわけです。

    人間教育のレベル(実施内容)が学校によって異なり、授業を受けさせるために席につかせないといけない学校があったり、逆にあり余る自主性を制御する指導をしないといけない学校があったり、いろいろなバリエーションがあるだけでしょう?
    本来、親や地域がやるべき教育を、すべて学校にやって、というのは親や大人のレベルが下がっただけのような気がします。

    私は、浦島太郎さんとはほぼ同年代のようですが、

    「ニュースを見ていると、若い人達がいかに選択肢の少ない、選びようのない人生を送らねばならない状況に陥っているかを感じます。
    しかも、それを社会経済のせい、人のせいにしている。
    選択肢を拡げてこなかった自分の責任と思う人がどれほどいるでしょうか。 」は、まったく同感です。

    本来、人間は自分の人生だから自分に選択肢があるのですが、最終的に選ばれるのは他人の判断によってです。最近は、思うような結果にならないと他責にする人が多いと思います。最終的に選ばれるようにするには、すべて自分の努力によって道を開くしかないのだと、強く思います。ただ若いうちはそれに気付かないものです。

    気付かせる、気付くようにするそれが教育のはずです。
    とりとめがなくなってしまいましたが。。。

  5. 【1961790】 投稿者: 保護者  (ID:dKF1j3xZhRY) 投稿日時:2010年 12月 24日 23:48

    「人間教育」なんてできる先生は、何人いらっしゃるでしょう?
    素敵な方だなあ…って思う保護者の方には何人もお会いしましたが、先生は普通だと思います。
    中には息子が尊敬している先生もいますが、ごく少数。

    生徒にする雑談の中に先生の人間性が見えて、息子から話を聞いて驚くこともあります。
    その場にいない人の人格を傷つけるような話をして、それで笑いを取ろうとする…。
    校長にもそういった面がありますが、先生の中にもいらっしゃいます。

    叱るのではなく、キレちゃう先生。
    これっぽっちの手当で補習なんて面倒…と言ってしまうやる気のない先生。
    他の学校や会社ではきっと勤まらないなあ…と思うような常識のない先生もいらっしゃいます。

    先生方より保護者の方が、人間性・社会性・知性……上だと思います。
    高校2~3年にもなれば、先生より家庭でしっかり育てられてきた生徒の方が大人だったりします。

    進学実績の看板だけじゃ また掲示板でたたかれるから、
    人間教育の看板は見た目きれいだから立てておきました…ってことだと思います。

  6. 【1962844】 投稿者: 保護者の一人  (ID:7OqSbX/9CVU) 投稿日時:2010年 12月 26日 07:28

    >素敵な方だなあ…って思う保護者の方には何人もお会いしましたが、先生は普通だと思います。
    >中には息子が尊敬している先生もいますが、ごく少数。

    >先生方より保護者の方が、人間性・社会性・知性……上だと思います。

    そういう感想をお持ちの方がいるということに大変に驚きました。
    保護者の方々は子どもを育てている大人ですし、社会人ですから社会性があって当然です。
    保護者の知性や人間性を先生と比べるような方が保護者の中にということにも驚きです。
    その方の人間性を推し量ることができます。
    実際には保護者の知性や人間性についてとくに深く知るほどの場面も機会もあるとは思えません。

    保護者の態度をみていていて、若い先生の方がよほど大人だと思うことはあります。
    (具体的にかくとどのクラスかわかってしまうので書きません。)
    聖光学院で教える先生方は中途半端な気持ちではつとめられないと思います。
    校長がその場にいない人の人格を傷つけるような話をして、それで笑いを取ろうとしたのは観たことがありません。
    しかしそんなことで笑う生徒がいるなら、それこそ家庭での育てられ方のせいかもしれません。

    >これっぽっちの手当で補習なんて面倒…と言ってしまうやる気のない先生。
    発言が事実であったとしても、やる気のない教師が続けていけるような学校ではないと思います。
    補習はやっていますし
    毎日あれだけの量の宿題をすべて目を通して(睡眠時間が減っていると思います)
    部活の指導もきちんとなさって
    どこにも手を抜かない、というのが子どもを預けた親の実感です。

  7. 【1962951】 投稿者: これからの聖光と日本に期待  (ID:uKPkL/ic2eA) 投稿日時:2010年 12月 26日 10:49

    15期の先輩の投稿、興味深く拝見しました。私も40代後半の一卒業生です。
    「人間教育」ってなんだ?との違和感、もっともだと思います。
    大学受験を目的とした「受験教育」か、幅広い教養を身に着けさせようとする「教養教育」なのか、の二元の議論はよくあり、それはしばしば「面倒見のよい」学校がよいか「自由にのびのび」の学校がよいかと議論に形を変えますが、さきのスレッドにあるような「人間教育」という言葉で表したい中身は、おそらく伝統の「紳士たれ」が意味する「しつけやマナー」を含めた「教養教育」ということなのでしょう。卒業以来、自分のその後受けた教育体験にてらしながら、長らく聖光の変遷を見守ってきましたが、昨今の聖光はかつての「受験教育」にこうした「教養教育」的な色彩を加え、完全ではないものの、時代の流れにあわせながら進化をとげていると感じています。

    われわれの世代では、聖光の教育は「受験教育」かつ「面倒見教育」でした。その後日本社会は変化し、「生きる力」を求めて「ゆとり教育」が実行されたものの結果は意図するところとは違う方向へ進み有名中学受験熱に拍車をかけたとも思えます。混迷の中で、いじめなど深刻な問題もあり「ナンバーワン」より「オンリーワン」が声高に叫ばれ、そのこと自体は正しいものの、またまた結果として安易に競争がかっこ悪いこととされ、「個性を生かしてみんなで仲よく」みたいなゆるい方向へいこうとするようにも感じていました。

    現実の世の中を見ますと、経済の成熟化にともない成長が頭打ちとなり、働けば働くほど社会も自分も成長しそれに見合う報酬が得られる世の中ではなくなり、「いい学校へ行って、いい大学に入っていい会社に就職すれば安泰」という図式は崩れ、その路線を走っても成功が約束されるわけではなくなり、日本社会が方向性を見失い閉塞感に包まれているよう感じています。

    子供たちも変わりました。かつて成績のよい子供は、人としても完成度が高く、年齢の割に大人でしっかりしていました。今は、成績は良いかもしれないけど、人としての完成度にかけて、それゆえ、自由にのびのびの学校に入れてしまうとダメになってしまう子も多いように思います。

    議論の分かれるところでしょうが、だからこそ面倒見がよくて着実な大学合格実績を出している聖光のような学校が、より広い将来的選択肢を得るうえで有利であると考えられ、人気があるのも理解できます。

    聖光生は昔のままか。いえいえ聖光の若い卒業生の中には、起業したり、われわれのころでは考えられなかった分野で活躍している骨太な諸君もでており、かつての真面目で優秀で人はいいけどなんとなく線が細い、というイメージが変わっているのも事実であり頼もしい限りです。

    今回このスレを読ませていただいて、いろいろな議論があることはよいことだと思います。教育に完全はないと思います。先生方についてすら熱心で親身であればもちろんありがたいですが、実際、反面教師という言葉があるよう、丁寧に教えないからこそ、自分で学ぼうとする力がわくことがあるようダメ先生から多くを学ぶことも事実です。聖光が今の路線でよいのかどうか。あるべき日本の姿をにらみながら在校生、卒業生、教員、そして保護者はじめ関係者一同大いに議論することだと思います。

    尻切れとんぼのようですが、あえて結論めいたことは書かずにおきますが、私自身としては、既存路線の延長ではなく、不連続な革新をとげて、次代の日本を担う若者を育てる学校であり続けてほしい、そしてそうした若者たちがより成熟した文化をもった豊かで幸福な日本を実現してほしいと願い、やってきた寄付のお願いに微力ながらおこたえしようかと思うこの年末です。

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