充実した教育環境の日大付属高校
中央大学法学部は都心移転によりどこまで復活するか?
みなさんの予想はどうですか?
私は、
出身学部別での司法試験合格者数は1位。
予備試験合格者数では2位。
国家公務員総合職の合格者数では早慶を抜いて1位。
民間は今より良くなる。
偏差値は普通に早慶上位レベルまで上がる。
中央大学が製作したらしい駿河台の思い出というYouTubeを見たが、寄せられたコメントに心が動く。
「駿河台校舎がなくなり本当に残念です。
多摩に移転してから個人的には別の大学になったように思います」
「私の中大は駿河台でしかない」
多摩卒者「駿河台時代の中央に行きたかった」
「懐かしい映像ですね。一番印象に残っているのは、講義の休講掲示板かな」
登校した学生がまず行くのが中庭の掲示板。
深緑色の板に白墨で教授の名前を書いた休講の札が掛かっているかどうかを確認した。
こういう東大生も「当時は本郷から聖橋を渡って法学部の有名教授の授業を潜りで聴きに行っていた。僕のように中央法学部の授業に聴講に行く学生は結構多かった。懐かしく拝見しました」
中央法学部から本郷に講義を聴きに行くばかりでなく、あちらからもという相互訪問の関係だった。
「中大が多摩に移転してから始まった半世紀近い中大の氷河期でした」
駿河台最後の卒業生の14年前のコメント
「今でも仕事に疲れると駿河台下の古本屋をうろつき、喫茶店や食堂に立ち寄ったりする。
駿河台の街が今も若者のエネルギーで活気に満ちているのが嬉しい、、、」
「このキャンパスに通いたかった。慶応三田図書館や早稲田大隈講堂にも比肩できる。素晴らしい!!」南門を入って右手の時計のある旧図書館や三号館の大講堂についてか。ここで70年前に結党大会を行ったのが自民党。
「八王子に移転しなければ、早慶中だったかもしれないのに実にもったいない」
法学部だけ見ても今、早慶中とか言ってる人いませんね。
中央法の偏差値は、このスレ主が初投稿した時の言葉通り、移転によって早慶に準ずる偏差値に上がることが期待されていました。しかし移転してからも偏差値はズルズル下がり、全く上がりませんでした。個別入試で見れば、国際企業関係法はずっと河合塾57.5のまま。頼みの法法も60.0に落ちました。これって明治法、立教法、法政法と変わらないんだよね。平成中期までは偏差値65.0でマーチの中では一応突出した難しさだった。それが今や他マーチと全く同じ。法曹がオワコン化したのが効いています。
他マーチは他学部も一緒でサークルも楽しい。立教や法政と比べれば、茗荷谷に特段アドバンテージもない。駅前はかなり寂しいと言っても良い場所です。どこまで落ちるのでしょうか、中央法。
ここは受験掲示板だからね。
司法試験とか就職とか昔の栄光とか、掲示板の趣旨からすれば脇道の話です。偏差値や倍率、志望動向など大学受験の話をするのがメインの掲示板だからね。大学全体なんて大上段に構えなくて良いと思いますよ笑
大学の格やブランドは偏差値が創ります。誰でも入れる簡単な大学がブランド化することはありません。学生の質も教育の質も偏差値におよそ比例します。唯一施設だけは低偏差値でも豪華な設備の大学も多いですが。中央法の難易度はブランド化するには易しくなり過ぎたということです。誰でも少し努力すれば合格できる偏差値に下がってしまった。
また中央は法学部キャンパス孤立化がこれからジワジワ効いてきます。明治法、立教法、青学法、法政法は他学部もいる刺激あるキャンパスです。移転してもちっとも話題にならず偏差値も上がらなかったのですから、中央法も多摩キャンパスに戻った方が今より良いと思います。
歴史とは現在と過去との対話である(EHカー)言うまでもなく現在はポツンとして存在するのではなく、過去の積み重ねの上にある。
過去の経緯を正しく認識しなければ現在を正しく認識できない。
「中央大学の多摩移転は一部の勢力が強行した」と言い出して止まない者がいる。
人の言を鵜呑みにするおめでたい質なのだろう。
ある人の退任の辞「最初の関わりは中央大学の多摩移転問題でした。私の所属する南甲倶楽部のリーダーは当時、大川さんとそごうの水島さんたちでした。その方々は多摩移転に反対しており、私にも反対の先頭に立つように言われました。徹底的に反対しましたが、結果的に文系の全面いあが行われてしまいました」を受けてのことだ。
経済人の南甲倶楽部の大立物だった東映の大川博社長は1961年に学員会会長に就任したのに続き、1962年に大学理事長に就任。
1966年に理事長3選、1967年に辞意表明したが、学員会会長は続き、1969年3月には決議機関の評議員会議長に就任、1971年8月に亡くなるまでその任にあった。
評議員会が1969年を目処に教養課程を多摩に移転させることを承認したのは1966年5月30日、大川博大学理事長の時である。
大川博氏は1971年に他界するが、1963年に漁業界に入り、若い時に南極に2回、北極に4回行ったのは中央大学卒業生で自分だけだろうと豪語する、とても南甲倶楽部会員の入会資格のない南極北極で忙しい平社員がどうやって多摩移転反対の先頭に立てたのか。
時系列が整合性を欠いている。
評議員会が昼間部の多摩移転を決めたのは1973年だが、10月27日、学員会支部長の多摩校地見学会を開催し、学員会本部からは多摩校地用の植木、吉野桜千本の目録が贈呈された。
1977年10月5日には学員会は朝日新聞朝刊全国版に多摩校舎落成学員祝賀会への参加呼びかけを広告で掲載した。
南甲倶楽部の依拠する学員会の多摩移転反対は窺うことができない。
神田駿河台の中央法学部は司法試験合格者数で断トツの20連覇を果たし、法科の中央として君臨し、東大と共に戦後法曹界を二分して来たが多摩移転により斜陽化した。
これを見かねた中央法曹界の多数の弁護士や法学部卒業生、大学関係者が都心回帰を熱望し、2023年4月に都心の茗荷谷への回帰が実現した。
これにより、かつてのように埼玉県、千葉県、横浜からの学生の通学圏に入った。
今、中央法学部は予備試験ではなく新制度の3年次で法科大学院に飛び級進学し、在学の2年目、都合5年目に本試験に合格する法曹コース3+2の早期司法試験合格路線に力を入れている。
昨年の自主申告による集計では、中央法学部卒業生の司法試験合格者は約150人となっている。
































