今年入学した高1生が語る青春リアル
中央大学法学部は都心移転によりどこまで復活するか?
みなさんの予想はどうですか?
私は、
出身学部別での司法試験合格者数は1位。
予備試験合格者数では2位。
国家公務員総合職の合格者数では早慶を抜いて1位。
民間は今より良くなる。
偏差値は普通に早慶上位レベルまで上がる。
今から四十年前の1985年、中央大学創立百周年の年に当時の渋谷健一理事長に、元日弁連会長の堂野達也学員会会長が建議書を提出した。多摩移転から7年目の年で、客観的にはまだ直後の範疇の時期である。
「母校は多摩移転直後には、社会的羨望を集めていたにも拘らず、その後、各種国家試験の成績、入試における偏差値等において、社会的評価が低落するなど予期しない困難な事象に遭遇するに至っている」
「その要因は、一つには教育研究に最適と思われていた環境が[陸の孤島]と呼ばれて敬遠されていることである」
多摩移転後十年もしない時期だが、当時は多摩動物公園駅から山道を歩くしかなく、後に中央大学は自らの出資工事で、より近道を作るべく中大隧道というトンネルを掘ったというのだ。
都心中心部の神田駿河台では到底考えられない事態だ。
そもそも森林の多摩丘陵の台地を開拓し、とんだ地球表面改造者になったものだ。
これらのアクセス問題の解決は2000年の多摩モノレールの直結の中大駅の開設まで待たねばならなかったという。
司法試験の実績を見る限り、多摩移転の前から東大のトップはほぼ確定していたと思いますね。ただ早稲田が台頭してきていたのは事実。それでもトップになることはあったし、東大、早稲田のワンツーフィニッシュが定着したのはこの建議書の数年後だし、明らかな低迷は建議書から10年経った1990年代後半からですね。建議書時点で社会的評価が下がりましたかね?
司法試験実績“常勝”が中央大法学部のアイデンティティなら気持ちは分かりますが、すべてを多摩移転ー物理的理由に帰結させるのは、少し身勝手なような気もします。まァ多摩移転がボディーブローのように効いて来たのが10年後なんて主張もありますが、予備校の難易度をネットで調べても、移転前と移転後でそれほど大きな差は無いように思えます。
中央大卒の法曹関係者が通いづらくなり、後輩の面倒見が悪くなったのを、司法試験低迷の一要因にする関係者もいるようですが、もしそうなら法学部当局が大学として手立てを講ずるべきでしたね。
多摩移転の7年後、「陸の孤島」と自ら喝破した堂野達也学員会会長は「その現状を改善するための諸目標として①上位にランクされる高等学校の生徒が挙って受験する魅力ある大学体制を創り
②入学試験上位合格者が他大学に流れている傾向を防止し、上位合格者の入学を確保するための方策を樹立すること。また、都会志向の現在の学生気質を理解し、それを補完する方策を考慮し
③入学者選抜の多様化を図り、人間性や論理的思考の側面を評価する大胆な方策を考えるべきである」
1985年の同号
「法学部の入試合格者の成績順で上位百名のうち入学手続きをする者が2割にも満たないという現実は、かつての黄金時代に中大の栄誉を担って来た学年約百名の実力者層の大部分が、他学、とくに早稲田に流れて、早稲田の実績向上に寄与していることを雄弁に物語っている」
「雪崩的低落傾向のうちにも未だ余韻の残っている[中大法科」の伝統の火が消えない内に、起死回生の策を打つことが責任ある大学に期待されることである」
神田駿河台から多摩移転7年後、後の祭とはこの事だ。予見可能性、予見能力が問われる。
1973年、大塚理事長が最高裁判事に任命された後、堂野達也弁護士は後任の理事長となり、百年の計としての多摩移転への進展を決意していた。
十数年前には「都会志向の現在の学生の気質を理解」できなかったのか。幾つもの歌にも歌われたように、その昔から若者は大都会の東京に憧れを抱いて来た。
当時、地方から多摩に進学した学生が東京に来たのに、自分の田舎より田舎だったと嘆いたという話があった。
>1985年の同号
>「法学部の入試合格者の成績順で上位百名のうち入学手続きをする者が2割にも満たないという現実は、かつての黄金時代に中大の栄誉を担って来た学年約百名の実力者層の大部分が、他学、とくに早稲田に流れて、早稲田の実績向上に寄与していることを雄弁に物語っている」
これはもう中央大学法学部関係者にとっては半世紀続く“永遠”のテーマです。当時から早稲田法学部志望者の併願先トップは慶應法学部では無く、英国社で受験できる中央法学部が定番でした。確か次も明治法学部で慶應法学部はその次だったような?80年代なら司法試験は東大・早稲田が定着していましたし、民間就職も早稲田ブランドの強さは慶應と2強でしたしね。早稲田法学部とのダブル合格なら、早稲田選択は当然とも言えます。入試成績上位100人中、入学したのが2割にも満たないというのは、東大文Ⅰ合格者もいますから、そんなもんでしょう。むしろ「2割よく残った」が感想です。
ただ“だから司法試験実績が低迷している”はどうでしょうね。入試成績上位をそのまま4年後の司法試験に結びつけるのは幾ら何でも無理がありますし、早稲田落ちをバネに司法試験にチャレンジする学生も非常に多いと昔聞いたことがあります。当時の司法試験の低迷を、単純に入試に結び付けるのはやはり間違っていると感じます。
1971年に東大に司法試験合格者数21連覇を阻まれた中央法学部、そこから中東戦争と言われた時代に移行する。
1973年は中央法が130人、東大90人と奪回するが、その後は東大に首位を取られ、
そして早稲田が迫って来る。
1974年(491人)、東大95人、中央85人、早稲田70人、京都41人、明治25人、慶応20人。
1975年(472人)、東大108人、中央77人、早稲田52人、京都42人、明治19人。
1976年(465人)東大101人、中央69人、京都48人、早稲田45人。
1977年(465人)東大86人、中央71人、早稲田58人、京都28人、明治20人、東北20人。
1978年(485人)東大94人、中央87人、早稲田68人、京都33人、慶応27人。
1979年(503人)東大90人、中央83人、早稲田75人、京都44人、慶応31人。
1980年(486人)東大89人、中央86人、早稲田61人、京都42人、慶応28人。
1981年(446人)東大101人、中央58人、早稲田56人、京都44人、慶応19人。
そして多摩移転で神田駿河台の法科の中央の遺産が翳りを見せていたが、最後の輝きの首位奪還を果たしたのが1982年(457人)だった。
中央90人、東大78人、早稲田72人、慶応31人、京都29人、一橋20人。
そして1983年(448人)はついに早稲田が始めて首位になり、中央は初めて早稲田の後塵を拝し3位になる。。
早稲田88人、東大83人、中央63人、京都36人、慶応23人、一橋17人。
1984年(453人)東大102人、中央84人、早稲田76人、京都25人、慶応24人、明治18人、一橋16人。
1985年に、中大法曹会が早稲田に抜かれた事も悔しく中央法学部の下降を嘆いたのはこの時期だが、それでもまだ浅い混迷でしかなかった。
神田駿河台の中央大学の多摩移転策の経緯を振り返るといっぺんに全面移転ではなかった。
1966年5月30日、当時の決議機関である評議員会は「教養課程は多摩校地へ」と施設基本計画大綱を決定した。
つまり、一年次、二年次限定の多摩移転である。
同年12月24日には多摩校地新築地震祭が行われた。
1969年7月、多摩校地にプレハブ校舎完成
8月11日には同所で文学部の授業が開始された。大学紛争のためである。
そして1971年9月6日、多摩移転のキーマン、元日弁連会長の荻山虎雄弁護士が評議員会議長に就任する。
1973年5月21日、教学施設充実問題委員会は堂野達也総長代行に「法経商文の4学部、昼間部関係施設を多摩校地に建設する」等を中間答申。
ここで重大な方針転換、全学年の移転案である。
同年10年27日、学員会支部長の多摩校地見学会。学員会から桜の苗木千本の目録が贈呈された。
12月5日「法経商文4学部の多摩校地移転の中央大学施設充実実施計画案について」発行。
そして1974年12月22日、多摩校地施設建設計画に関する件を評議員会で承認されて、決した。
同会に出席した1954年.中央法卒で女性弁護士の先駆けとなった市橋千鶴子弁護士によると、施設建設費約500億円捻出のため、駿河台校舎敷地並びに理工学部敷地を除く殆ど全不動産を売却し、更に不足額推定162億円の資金調達をするという議案である。
渋谷健一理事長、崎田常任理事からは「この期に多摩校地移転計画を予定通り実施せずして狭隘の駿河台校地に固執している限り、中大は二流、三流の大学に下落すること、火を見るより明らかである。
大勇断をもって多摩移転案の遂行に邁進する以外に大学の進むべき道はない」との切々たる提案説明があった。
重大議題の決定に荻山評議員議長の水も漏らさぬ議事進行があったという。
常任理事の崎田直次商法教授は大学側の多摩移転推進の旗振り役だった。その講義で唯一記憶にあるのは、盛んに株を勉強すべしと株式投資を説いていたシーンである。法と正義を説く中央法学部に、と強い違和感を感じたものだ。
ある日、大学生協の食堂で知り合った大学職員は、あいつは自分の利益ばかり考えていると怒った。学生は勿論、職員も多摩移転に根強く反対していることが窺われた。
多摩移転の前年の1977年4月、中央大学法曹会の小池金一幹事長は、その秋に新装なった新キャンパスで90周年記念と新校舎落成記念大祝典が行われることを喜ばしい限りと記す。
1968年、昭和43年12月から起きた全学封鎖ストライキの最中に金子理事長らと共に理事に就任し、主として学生担当になったが、翌年8月のスト解決後、理事会並びに教学内で教育施設の根本的改善なくして母校の発展はないとの考えが急速に強まり、多摩校地に一部移転させるとの従来の考え方を早急に実現させるべく具体策の検討が始められた。
理事会は教学、職員側両方に移転案を出してもらい、全学的な移転推進の機構をつくろうとなった。
それが教学施設充実問題特別委員会なのだろう。教学側では2学年迄移すか、ある学部二つ位を移すか議論があって容易に案は出なかった。
学員、教学の一部に根強い反対があったが、理事者、教学のそれぞれの責任者の高度の判断により、それから5年で4学部の新キャンパス完成をみることになった。
「多摩に良い施設が出来、良い先生方の良い講義があれば、良い学生が多く集まり、必ず各学部に優れた特徴が生まれるに違いない。
個性豊かなスケールの大きい人材が続々と育つのも夢ではあるまい」
獲らぬ狸の皮算用の極致の夢見る人たち。
そこには都心の価値、有効性、学生の通学の利便性など全く考慮にない。「陸の孤島」も眼中にはない。都心を離れた緑に包まれた広い多摩の地に新たな校舎を建設すれば、全てが上手く行くという現実離れの思考である。
下部構造が上部構造を規定するという一種の唯物論的思考だ。
むしろ彼らの現実は闘争して止まない一部学生たちの反対運動の封じ込め、紛争、騒動からの逃避、静穏への願いが最大の問題だったのだろう。中央大学以上に激しい学生運動が展開された大学は幾つもあったが、挙って神田駿河台から全面移転の都落ちをして逃げるような拙劣な短絡的な大学はついぞなかった。
多摩移転についての補正
1977年4月の中央大学理事長兼総長代行の渋谷健一氏(十条製紙会長)の手記によると、
1966年、教養課程移転問題審議会の審議及び評議員会の議を経て、教養課程の移転及び体育施設の集中化の計画が検討され、1967年、これに基づく造成工事が施行された。
1960年頃から数年間なねわたった学生会館管理問題及び学費改訂問題に端を発した学園紛争の活発化に伴い、この計画は実施できないままだった。
教育研究施設が狭隘になり、施設の充実改善が急務になった。
1967年に研究教育問題審議会が設置され、この理事長諮問を集中的に検討した。
その答申を具体化するため教学施設充実問題特別委員会が設置され、多摩移転に向けての基本方針を策定した。
その後、1973年から教学施設充実実施計画推進本部を設け、移転の実施案作成の具体的作業に入った。
12月の評議員会の承認を得、さらに1974年12月の評議員会でこの建設計画に伴う予算基本計画が承認された。
このように本学は長期の検討の結果、、、本学90周年を期に百年の大計を樹立することを決定した。
少なくとも、退任した久野修慈前学員会会長が一部の人が強行して決めたとの発言は事実ではなさそうだ。
既に1962年にそごう社長に就任し、後に中央法学部の担保法の講義をした水島広雄氏はともかく、2005年に理事長になった鈴木敏文氏も久野氏も、その30数年前にはまだ若すぎて業務に懸命で大学移転問題どころではなかったのではないか。
当時、中央大学における中央法曹会の存在は今より更に巨大で、元最高裁判事や日弁連会長などが理事長や学員会会長などの要職を占め、影響力を与えて来た。
経済人の南甲倶楽部が多摩移転に反対したという記述は寡聞にして見つからない。




































