今年入学した高1生が語る青春リアル
慶應の滑り止めは、早稲田?
慶應の滑り止めは、やはり早稲田でしょうか?
子供と親を同一視しない姿勢や社会形成が必要そうですね。
遺伝子や環境因子など様々語られますが、結果的に言えば自分がどのような人生を望むのか、そして自分なりに泳いでいるうちに自ずと道が見出せるものかもしれないとも感じます。
気が付かないうちに自分がどれだけいろんな人から手を差し伸べられていたかを気づくことができるのはずいぶん経ってからという気もしますが。
親と子を同一視しない姿勢は大前提として、その上で社会がどこまで初期条件の偏差を緩和できるか、という話をしていました。生き方を自分で選ぶという主体の問題と、そもそも選択肢へ到達する確率が家庭事情で大きく変動するという構造の問題は混ぜない方がいいと思います。
人に支えられていたことを後になって知る、という経験自体は誰にでもあります。ただ、その支えが届く範囲を広げられるかどうかは社会の設計の問題です。個の悟りの話と、構造の改善の話を同じ平面に置くと論点が霧散してしまう。
私が言っているのは、それだけです。
遺伝率というものをもう少し説明する必要がある。これは遺伝という要素でどの程度を説明できるか? というものだ。
幼少期はそもそもの発達段階にバラツキが非常に大きいので、知能、すなわち身体年齢と精神年齢の比のバラツキも大きくなる。つまり幼少期ほど、このバラツキゆえに身体年齢と精神年齢、両親のIQ状態との説明がリンクできなくなる。
で成長を遂げある段階になれば、発達段階はほぼ一緒になるから〜その環境における遺伝子の発現をほぼ終えるから〜、遺伝の説明しうる割合が6割あたりになる。
このことから幼少期の教育をして、先取り学習させてもその効果は真なる知能の発達にはそれほど寄与せず、成長を遂げるにつれて消滅するので、幼児教育には意味がないのではないかという指摘がある。
遺伝率という言葉を使うと話が分かった気になるけれど、この指標は個人の能力の何割が遺伝で決まるかを示す数字ではない。集団の中で見えている差のうち、どれが遺伝に起因すると統計的に扱えるか、というだけのもので、個人の人生や選択の幅を語る指標にはならない。
成長とともに遺伝率が高く見えるのも、遺伝子の発現がどうこうというより、周囲の環境差が小さくなるほど、統計的に遺伝の割合が大きく見えるという単純な構造が理由。そこを押さえないまま遺伝率を持ち出すと、議論の軸がずれたまま動いてしまう。
こちらが扱っているのは、子どもがどの選択肢に届くかが家庭事情でどれだけ変わるか、その初期条件の歪みを社会がどこまで緩和できるかという構造の話。個人がどう成長するかという内面の話とは混ぜない方がいい。遺伝率をどれだけ説明しても、この核心には触れていない。
幼児教育が効果を残さないという言い方も、今の実証研究の蓄積とは離れている。短期の学力に限定すればそう見える場面もあるが、長期では行動の軌道や非認知的な側面に影響が積み上がるケースが普通に観測されている。古いモデルのままでは全体像が見えない。
結局のところ、遺伝率の話をどれだけ重ねても、初期条件の偏差をどう扱うかという社会設計の論点には届かない。そこに触れない限り、議論は外側を回るだけで動かない。
子育てうまくいったと思っている方はこぞって、干渉しなかった、ただ見守ったと言い、うまくいっていない親に可干渉なんじゃない?放っておけば本人がなんとかすると上からアドバイス。
干渉したくてしてる親なんてほぼいない。
ほとんどの親は我が子を赤ちゃんの時から育てているなかでその子の性質を知っていき、それに合わせた子育てを試行錯誤で必死にやってる。
色々悩みながら育てた我が子が成人してほっとした今、これが子育ての正解ですよを語られてもなんとなくしらーっとした気持ちに。
子供の質によりますよ。
自ら学ぶのが好きな子供は、
なにもいわれなくともやります。いわゆる普通の子供は、無理です。いまやゲーム、YouTube、あそぶものがたくさんあり、なかなか我慢できずにいるたくさんの子供がいますよ。学校では、タブレットが
わたされ、いくら教師が、やめなさいといっても、ゲームをやる生徒が、たくさんいます。
ひどいときは、半数が、ゲームやYouTubeを見ているときがある。授業崩壊しています。
親が口を出してばかりいたら自立した大人になれない。
経済的な自立は勿論大切だが、その前に自立して自分の人生を生きようとする子を育てるのが先。
だから、勉強しなさいとか言わない。
勉強する必要があると思えばする子に育てるのが大事。




































