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【6432293】自慢話が好き

投稿者: 時代錯誤というより存在自体が錯誤無効   (ID:ZcqB7O1jyWE) 投稿日時:2021年 08月 02日 11:49

何でも書き込める掲示板ですが、時々事実を述べているだけなのに「○○を自慢したいだけだろう」式の突っ込みが入り、そこで話がとまるのを見かけることがあります。
これは惜しいと思います。
薄い論評はなくても問題ありませんが、各人固有の経験は貴重です。
論評としてはあり得ない珍論を展開していながら、趣味や個人的に経験したことはなるほどと思うことがしばしばありませんか?
むしろその種のことを寛容に見ていく方が読むに足る話が出てくる気がします。
みなさんはどう思いますか?

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  1. 【6447251】 投稿者: 訂正  (ID:tOQxEHlr6eI) 投稿日時:2021年 08月 16日 21:40

    外国に受注→外国に発注

  2. 【6447363】 投稿者: 発想の土俵が異なるとの印象  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 16日 23:15

    そこで私が注目するのは、マルクスになる次の言葉である。ここにはヘーゲル批判のみならず、フォイエルバッハの宗教批判の抽象性に対する批判も含まれているといえる。これで以て、マルクスは自分自身の立場に決定的な第一歩を踏み出したと認めることができる。

    「人間の自己疎外の神聖なる姿が面被をはがれてしまったのちは、なによりもまずその神聖ならぬ姿における自己疎外の正体を見届けることが哲学の任務である。かくして天国の批判は地上の批判に、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判に変わってくる(『ヘーゲル法哲学批判序説』)」

    たしかにヘーゲルの如き世界史の内容を神の計画の遂行とする限り、われわれは過ぎ去った歴史の解釈は可能でも、今我々に課された現代的課題の中から何を為すべきかは見出し得ない。しかしながら、人間的活動を対象的にとらえるわれわれの立場では、マルクスのいう「人類はその生活の社会的生産において、彼らの意志とは係わりのない、特定の必然的な関係―彼らの物質的生産力の一定の発展段階に照応する生産関係」を明確にとらえることができる。その結果、もはやこの特定の必然的関係は人間の意志と無関係ではない。そしてわれわれは意識的な変革の自由のための条件としての土台を得ることが可能になるといえる。

    この唯物弁証法こそ、生産力は一定の生産関係のもとに生長せしめるものの、同時にそれはその関係を自己の桎梏と感ずる否定面での生長過程でもあるとする。そして一度生産力がもはや既存の関係のもとでそれ以上の発展を期待しえぬまでに障碍として成長するとき(矛盾)それは、既存の生産関係ならびにそれを担う支配階級は新しい生産力の担い手たる新興階級の意識的な実践によって取り払われると思われる。

    私たちの発想や行動原理は、このような理念から演繹的になされていく。そこでは、歴史的傾向や展望などの資本制社会全体の「本質認識」や「全体認識」といった総括的な把握が中心の課題になる。したがって、「減価償却」云々といった現象的な概念に矮小化されてはならず、また親和性にも乏しいと言わざるを得ないのである。

  3. 【6447440】 投稿者: パリ留学  (ID:jgXuv/jDZbY) 投稿日時:2021年 08月 17日 01:43

    >「人間の自己疎外の神聖なる姿が面被をはがれてしまったのちは、なによりもまずその神聖ならぬ姿における自己疎外の正体を見届けることが哲学の任務である。かくして天国の批判は地上の批判に、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判に変わってくる(『ヘーゲル法哲学批判序説』)」

    刺激的でそそられる文言ですね。毛沢東が言った「和尚打伞无发无天」を連想します。無髪無天というのはこれと同じ音の無法無天を示唆しており、法も天も無視して傘一本で頭上を覆って闊歩するヤクザ坊主を意味する。これは毛沢東自身の自画像を表していると言われています。
    聖性で己を抑圧する神や天、権威で己を支配する法律や政府の偽善や欺瞞を暴いて無軌道な自由を獲得するのはいつの時代でも爽快で、革命家を突き動かす動機になっているということだと思います。
    ブルジョア経済学の偽善や欺瞞を暴くことで析出された人々をそこに巻き込んで経済活動へと駆り立てる価値形態もまた人々を疎外し破局へと導いていく悪の体系であるべきだというご意見でしょう。
    確かに価値形態によって駆動される資本の絶えざる増殖は資源を蕩尽し環境を破壊し続けるし、ガルブルイスの依存効果やヴィブレンの顕示的消費は、人々が健全な欲望を逸脱した歪んだ欲望の満足に向けた消費へと駆り立てられることを意味している。資本の自己増殖運動は本来不必要な消費への欲望を起動力にしていく。
    だが、そうすると今度は、資本主義を打倒しようとする革命運動の自己疎外としての正体も暴きださなくてはならなくなってくる。こうなるともう、文化大革命ですね。
    でも、それが弁証法の真実でしょう。

    これは確かに一面の真実だと思います。

  4. 【6447584】 投稿者: アフガニスタン  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 17日 08:58

    アフガニスタンをめぐる状況に既視感を覚える方も多かろう。それは一見、あのベトナムやカンボジアをめぐる戦争での様相に似ているからだ。そしてヘーゲルのとらえたものも、こうした与えられたどの瞬間においても静止してはいないとの現実であった。

    自らが育てる自己存続のその条件のなかに、自らを滅ぼす新興のものが育てられていく。そして時くれば古きものは、もはや古き統一、その統一の諸形式を維持しようとしても徒労である、とのヘーゲル弁証法の合理的確信。

    その結果、「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」とするヘーゲル。思惟を始原とする観念論者たる彼は、アジアで約半世紀ぶりに再び繰り返されようとしているこの世界史の現実をみて、いかに解釈するのであろうか。Talebanによるアフガン新国家建設をやはり「合理的」と評価するのであろうか。

    他方、わが唯物論者はこの現実から、自ら育てた矛盾に因ってもはや非合理になったものは崩壊せねばならぬとの核心を得る。観念論者のうそぶく如く、矛盾の統一は人間の解釈次第―気の持ちよう―でどうにでもなる、とは考えない。蓋し、われわれがどのように解釈を深めようとも、矛盾はわれわれの意識とは関係なく、客観的に世界に、社会に厳存するからだ。したがって本件も、米国による腐敗したアフガン傀儡政府による間接統治が矛盾そのものであったとの暴露でしかない。

  5. 【6447642】 投稿者: パリ留学  (ID:x3tKdnPHPGY) 投稿日時:2021年 08月 17日 10:25

    >この唯物弁証法こそ、生産力は一定の生産関係のもとに生長せしめるものの、同時にそれはその関係を自己の桎梏と感ずる否定面での生長過程でもあるとする。そして一度生産力がもはや既存の関係のもとでそれ以上の発展を期待しえぬまでに障碍として成長するとき(矛盾)それは、既存の生産関係ならびにそれを担う支配階級は新しい生産力の担い手たる新興階級の意識的な実践によって取り払われると思われる。

    唯物弁証法を一番わかりやすく端的に表しているのは、エンゲルスの『反デューリング論』の「量的な変化がある臨界点を超えて進行すると質的な変化を引き起こす」という記述だと思っている。
    これを御所論に当てはめると、生産力の増大が量的変化となり、これが臨界点を超えて進行すると質的変化である生産関係の変化を引き起こすということだと思う。
    だけど、これだと自由を求めて対象に働きかけ環境を変革しようとする人間行動がそぎ落とされてしまう。
    この問題意識の下に、マルクス主義を現象学の論理基盤に移植して読み替えていこうという試みがサルトルの『弁証法的理性批判』です。
    その延長線上で、彼は「魂に触れる革命」をキャッチフレーズにした毛沢東の文化大革命を賛美したが、その悲惨な実態が明らかになるにつれ激しいバッシングを受け、結局『弁証法的理性批判』は未完で終わってしまった。
    サルトルが生きていたら、タリバンのアフガニスタン支配をどのように理解するのであろうか。

    それはともかく、上記の御所論は唯物弁証法の観点からは理解できます。
    ただ、最後の「新興階級の意識的な実践」という部分に関して言うと、この場合の新興階級というのは、共産主義者でもなければ額に汗する労働者でもない、AIを使いこなせるITオタクです。

  6. 【6447711】 投稿者: お答えする  (ID:wWmR05FXUsQ) 投稿日時:2021年 08月 17日 11:40

    エンゲルスの業績のうち、もっとも大きな役割を果たしたものは自然の弁証法の確認であった。とくに「量から質への転化とその逆の法則」「諸対立物の浸透の原則」「否定の否定の原則」につき、物質的自然そのものの運動の中につきそれらを発見しようとした。しかもそれはー既述のようにー、観念論者が運動変化の原因を「創造主からの働き」とするとの妄言を繰り返す限り、自然は唯物弁証法にとって最高の宝庫であり、存在の論理たりうるのであった。

    しかしながら、そうしたわれわれの自然認識は客観的には歴史的に条件つけられており、一挙に対象全体の把握・解明に到達できるものではない(科学の限界は、唯物論の限界でもある)。一方で、そうした認識の相対性と同時に、本質とは何かという真理の絶対性を要求する思惟の本質との矛盾こそ、認識の発展の原動力だと考えられる。そこで唯物論は、この認識の進行過程と客観的実在の運動過程を統一的に把握する。

    しかもそれは、―創造主によってではなく―自然からの人間の発生という唯物論的土台の上で、あくまで「感性的に、対象的に」歴史世界としてとらえられる。それはヘーゲルのいう「神の支配の内容、神の計画の遂行」などではなく、新興階級による意識的な革命的実践行動によってのみ取り払われるものであるといえる。マルクス主義が変革の哲学と言われる所以である。

    もっとも、哲学が「時代の子」であり「時代の魂」たろうとする限り、そのときどきの歴史的社会的現実とそれが提起する諸問題との真摯な対決を余儀なくされることも不可避である。本件 Talibanによる権力奪取もその一例であろうか。

  7. 【6447838】 投稿者: パリ留学  (ID:kG6A02ozzjA) 投稿日時:2021年 08月 17日 14:14

    >一方で、そうした認識の相対性と同時に、本質とは何かという真理の絶対性を要求する思惟の本質との矛盾こそ、認識の発展の原動力だと考えられる。そこで唯物論は、この認識の進行過程と客観的実在の運動過程を統一的に把握する。

    分かっているじゃありませんか。
    サルトルが『弁証法的理性批判』で弁証法的理性の特性として論じているのも、この認識と客観的実在(存在)のズレなんです。
    つまり、認識と存在が一致している状況が変化して、認識と存在の間にズレが生じたとき、両者の統一に向けた生成発展が起動するということです。例のテーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼの運動過程です。
    だけどこれは、かなり弁証法にすり寄った解釈で、もともとは現象学の超越論的認識と世界定立とのズレであったものを弁証法の枠組みで読み替えたものです。
    この世界定立をハイデッカーは人間の行動原理にまで敷衍して「世界内存在」という概念を創出しましたが、サルトルはこれをetre dans le mondeと訳しました。世界に投げ出されている存在、くらいの意味です。
    つまり、世界に収まりきらない存在ということで、世界と存在とのズレを前提とした解釈になっています。
    因みに、メルロ・ポンティはこれをetre au mondeと訳し存在と世界との密着を強調しています。

  8. 【6448160】 投稿者: 誤解あるようだ  (ID:AJsfpoTMGiY) 投稿日時:2021年 08月 17日 20:08

    私はあくまでヘーゲル体系との相違を意識したに過ぎない。
    すなわち、ヘーゲルもマルクスもともに、認識論の最高形態は世界史の哲学である。だが他方で、たとえばその著『経済学批判』に関連して成立した方法論的吟味においてマルクスは、ヘーゲルに対立して「カテゴリー」の運動は、それによって再現された現実とは厳密に区別されねばならぬとする立場を厳守するなど、明確な一線を画しているといえる。

    そうした文脈において、ご笑覧賜りたい。

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