在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
京大凋落?
近畿2府4県からの合格者が
1750 人
を越えてから、「京大凋落」と言ってくれ。現状は、
1600 人
である。全合格者は、
2900 < 京大 < 3000
日本の科学が抱える本質的な問題は才能の流出そのものよりも、流れた先とつながり続ける制度を持たないことなのでしょう。
かつてのノーベル賞受賞者たちは、国内にまだ知の余熱があった時代の産物です。
今の若手が海外で成果を上げても、それが日本の知的生態系に循環しない。制度としての帰還経路が設計されていない。これは由々しき問題です。
研究は国家の枠を越えて行われるものになったけれど、成果の信用と資金の帰属は依然として国に縛られている。
このギャップを埋める発想が、日本ではまだ制度化されていません。だから優秀な人程、最初から国境を意識しない研究共同体に吸収されていく。
問題は出て行くことではなく、戻る必要のない構造にしてしまったことなのです。
自由な発想というのは大切な部分だよね。
それには基礎がしっかりしていてのことだよね。
何ごとにも興味を持ってひらめきや感動を大切にしていることも重要だよね。
大人だけれど好奇心や発想や探究心は子どものように純粋なところがあるのも研究者には必要だよね。
自由な発想を大切にするという考え方自体には異論はありません。ひらめきや感動を支える基礎が必要という点もその通りです。ただ、そこで話を終えてしまうと、知がどこに流れていくのかという本質が見えなくなってしまいます。
研究者に必要なのは、子どものような好奇心だけではありません。好奇心がどこに接続され、どんな構造を変え得るのかという視点です。発想が自由であっても、その自由が制度の内部に閉じている限り、知は循環せず、過去の延長にとどまります。
知が公共性を持つのは、個々の感性が磨かれているからではなく、その感性が次の場を設計する力につながった時です。発見も発想も、枠の外側に出口を持った瞬間に初めて価値を持ちます。
つまり、求められているのは好奇心の肯定ではなく、好奇心をどう社会の設計原理へと翻訳できるかという問いなのです。ここを押さえないと、自由という言葉はただの個人的態度に回収されてしまいます。
知は個性で終わらず、構造を書き換えて初めて前に進みます。そこに、今の時代の条件があります。
只今まで様々な理系の子や教師、教授など「教える側」の人達とも交流したり友達にも居るけども、概して話が下手なんですよね。
勿論上手な人、伝えるのが上手い人も居ます。が、そっちが少数派なんですよね。
子供が興味持っても、受ける授業が面白くなければ長続きしませんよ。内輪で理解できる話や面白い話ができても研究内では大丈夫かもですが、言うなれば新規顧客を獲得するにはそれはキツい。
人間性や今までの経験でそうなったのだろうけど、もう少し外部へのコミュニケーション能力上げなきゃダメだと思う。
理系が話し下手という指摘自体は日常的に観察される現象ですが、そこで議論を止めると論点が浅くなります。問題は個々の話術ではなく、知が伝わる経路そのものの設計にあります。
研究の世界では、内部で通じる語彙と論理で日々が回っているため、外部への翻訳が制度的にも文化的にも育ちにくいまま放置されてきました。結果として、面白さが内側に閉じ、外から見えなくなる。これは個人のコミュ力不足ではなく、知の流通構造が狭いまま更新されていないことの副作用です。
子どもが興味を失うのは、教師の話がつまらないからではなく、知の入口と出口がつながっておらず、学ぶ過程が社会のどこに接続しているのか見えないからです。内輪の面白さを外へ翻訳する仕組みをつくらない限り、誰が教壇に立っても同じ壁にぶつかります。
必要なのは話術の改善ではなく、研究者が持つ知を外部へ運ぶための新しい基盤です。学びの面白さは、語り口の巧拙ではなく、世界のどの扉を開くのかが見える時に初めて他者を動かします。話が下手な理系という常套句ではなく、知の流れそのものをどう変えるかが課題です。
> 只今まで様々な理系の子や教師、教授など「教える側」の人達とも交流したり友達にも居るけども、概して話が下手なんですよね。
そうかなあ。文系の人の話は一見分かりやすそうだけど、中身がないことが多いからね。具体例を求めるとすぐ詰まる。ごまかしたり、地頭の弱い人をだますにはいいかも。




































