充実した教育環境の日大付属高校
共通テスト 東北の受験生が全国の受験生の平均点に比べ文系約30点理系約47点下回り年々得点差拡大しているのは? 少子化人口減少のせい?
全国平均と差がありすぎませんか?
全国平均を上回ったのは倫理のみ。
共通テストの受験者数は年々減少しているのに東北の高校生は共通テスト受験率が高いの?
各地域での中堅、低偏差値高校で高校による共通テスト参加推奨レベルが影響しているのですか?
それとも少子化、人口減少の影響?
受け入れを推進する政治家はもし受け入れた外国人が犯罪を犯した場合の責任まで取る覚悟をして受け入れて下さい!
治安悪化は現実に起こってて被害を被ってるのは普通の一般人です!
どうしてそこまで日本を壊したいんですかね?
被害に遭った家族は一生忘れませんよ!!
治安の議論をするなら、まず前提を正確にしないといけません。
昔の日本は今より治安が良かったという前提自体が事実と合っていません。
戦後から90年代までの日本は、強盗も殺人も今よりはるかに多かった。
人口構成も警察統計の体系も同じ日本国内の数字で比べても、凶悪犯罪件数は長期で一貫して減ってきました。犯人の大半は日本人です。
つまり現実のデータでは、治安悪化を外国人受け入れのせいにする根拠はゼロです。
昔の方が事件は多く、犯人はほぼ日本人でした。これは感情論ではなく公式統計の事実です。
犯罪が起きた時に重要なのは国籍ではなく、どう防ぎ、どう再発を減らすかという制度設計です。
そこを国籍で語り出した瞬間に、原因分析でも対策でもなく、ただの思い込みになります。
治安を本気で守るなら、数字に基づいて語るしかありません。
事実に基づかない不安は、どれだけ声が大きくても現実を動かしません。
東北の受験生が全国平均に比べて文系約30点理系約47点下回るという話は、少子化人口減少かどうかという問いそのものが視野を狭めていて、共通テスト受験率とか倫理だけ全国平均を上回ったとか、受験者数が年々減少しているのに東北の高校生は共通テスト受験率が高いのかという問いが単線的に並んでしまっているせいで、現象が現象を説明しているような状態になっています。中堅低偏差値高校で高校による共通テスト参加推奨レベルが影響しているのかという指摘と、少子化人口減少の影響という指摘がそのまま平行線になり、全国平均との差がありすぎませんかという問いがどこにも接続していないように見えるのは、構造的な前提のズレが積み重なっているからです。
まず、共通テストの受験率が高いという数字は、受験生の学力分布より先に制度的な選好の違いを反映します。東北の高校生は共通テスト受験率が高いという話がそのまま文系約30点理系約47点下回る理由と直結するという見方は、全国平均を上回ったのは倫理のみという一点突破的な事実を逆に文脈から切り離し、倫理だけが平均を上回ったという現象を単独で浮き上がらせてしまい、全体の分布の歪みを増幅させます。共通テスト受験者数が年々減少しているのに東北は受験率が高いという状況が、地域の違いによる高校の進路指導方針、中堅低偏差値高校の共通テスト参加推奨レベル、さらに進学の地域偏在と相互作用すると、全国平均と比較した場合に文系約30点理系約47点の差が生まれやすい構造的バイアスが発生します。
また、少子化人口減少が影響しているかどうかという問いは、母数の変化と学力分布の再編が同時並行で進む現代において、原因を単一要素に収束させるという発想そのものが限界に達していることを示しています。東北の受験生が全国平均との差を広げているのは、少子化人口減少のせいなのかと問う時点で、全国平均を上回ったのは倫理のみという異質な点数特性を一旦棚上げし、文系約30点理系約47点という差を同じ線上で扱おうとするため、議論の地平そのものが低くなりがちです。倫理だけ全国平均を上回ったという事象は、テストが問う能力と高校教育の地域差がどの領域で強く出るかというグラデーションを示しており、文系理系で大きく下回る部分とは別の領域の教育文化の痕跡と言えます。
つまり、全国平均との差がありすぎませんかという問いも、共通テストの受験者数が年々減少しているという事実も、東北の高校生は共通テスト受験率が高いという数字も、中堅低偏差値高校の推奨レベルの影響も、少子化人口減少の影響かどうかという疑問も、すべてが同じ議論空間の中で混在しているように見えて、実際には異なる階層の現象が折り重なっています。ひとつひとつの要素が単独で説明力を持っていないため、それらを結び付けようとした瞬間に、理由が理由の形を保てなくなり、全体がダラダラとした因果の迷路のように見えます。
東北の得点差拡大の本質は、少子化人口減少の単純な問題でもなく、共通テスト受験率の単純な問題でもなく、全国平均を上回ったのは倫理のみという単独の特異点でもなく、各地域での中堅低偏差値高校の推奨レベルでもなく、それら全てが地域の教育構造の異なる層に入り込み、文系約30点理系約47点という数字の背後に複雑に折り重なって沈殿しているため、表層の問いが表層のまま循環し続けるという状況です。
国としての利益を目指すべき、という言い回しがあまりにも巨大な抽象度を帯びているせいで、その直後に続く私大の存続という極めて局所的で制度疲労の寄せ集めみたいな話題との距離感が、読む側の中で妙な浮遊感を生む。しかも受験産業が自前に都合の良い話しかしていない、というこれまた観察なのか感想なのか判然としない断定が、母数の比較を無視する、という別方向の論点に無造作につながっていくあたり、議論としての構造がほぼ不在のまま、語感だけが連結して進んでいく独特の連なり方になっている。
そもそも国としての利益を目指す、という言葉は、言った瞬間にそれっぽい正義の仮面をかぶるけれど、中身を詰めていくと、誰が何をどう配分し、どの層のどの未来を選びとるのかという具体の話に落とし込まざるを得ない。その手前で抽象のまま使えば使うほど、実質は発泡スチロールのように軽くなっていく。それに対して、私大の存続に浪費という語は一見強いが、浪費と判断する基準自体が恣意的だし、そもそも大学制度の歴史的成層や財政構造に言及していないので、言葉だけが過剰に尖っている印象になる。
受験産業に至っては、自前に都合の良い話しかしていないという批判は、それ自体は当たり前のことで、ほぼ全ての産業は自前に都合の良い話しかしない。そこで母数比較の無視に話を飛ばすのも、形式としては否定を積み重ねているだけで、なぜ無視されるのか、どの母数をどう扱うべきなのか、その至近距離の論理がごっそり欠落している。
だから、この書き込みを冗長に読み解くと、内容そのものよりも、語が語を呼んで連鎖し、結論らしきものがどこにも定着しないまま漂う、その漂いの質感がむしろ本体になってしまう。抽象と断定が繰り返されるけれど、どちらも地面を持たないから、読むほどに足場が見当たらず、ただ言葉だけがゆっくり増殖する。その無意味な増殖こそ、このレスを成立させている唯一の力学なのだと思う。





























