アートの才能を伸ばす女子教育
中央大学法学部は都心移転によりどこまで復活するか?
みなさんの予想はどうですか?
私は、
出身学部別での司法試験合格者数は1位。
予備試験合格者数では2位。
国家公務員総合職の合格者数では早慶を抜いて1位。
民間は今より良くなる。
偏差値は普通に早慶上位レベルまで上がる。
多摩移転の前年の1977年4月、中央大学法曹会の小池金一幹事長は、その秋に新装なった新キャンパスで90周年記念と新校舎落成記念大祝典が行われることを喜ばしい限りと記す。
1968年、昭和43年12月から起きた全学封鎖ストライキの最中に金子理事長らと共に理事に就任し、主として学生担当になったが、翌年8月のスト解決後、理事会並びに教学内で教育施設の根本的改善なくして母校の発展はないとの考えが急速に強まり、多摩校地に一部移転させるとの従来の考え方を早急に実現させるべく具体策の検討が始められた。
理事会は教学、職員側両方に移転案を出してもらい、全学的な移転推進の機構をつくろうとなった。
それが教学施設充実問題特別委員会なのだろう。教学側では2学年迄移すか、ある学部二つ位を移すか議論があって容易に案は出なかった。
学員、教学の一部に根強い反対があったが、理事者、教学のそれぞれの責任者の高度の判断により、それから5年で4学部の新キャンパス完成をみることになった。
「多摩に良い施設が出来、良い先生方の良い講義があれば、良い学生が多く集まり、必ず各学部に優れた特徴が生まれるに違いない。
個性豊かなスケールの大きい人材が続々と育つのも夢ではあるまい」
獲らぬ狸の皮算用の極致の夢見る人たち。
そこには都心の価値、有効性、学生の通学の利便性など全く考慮にない。「陸の孤島」も眼中にはない。都心を離れた緑に包まれた広い多摩の地に新たな校舎を建設すれば、全てが上手く行くという現実離れの思考である。
下部構造が上部構造を規定するという一種の唯物論的思考だ。
むしろ彼らの現実は闘争して止まない一部学生たちの反対運動の封じ込め、紛争、騒動からの逃避、静穏への願いが最大の問題だったのだろう。中央大学以上に激しい学生運動が展開された大学は幾つもあったが、挙って神田駿河台から全面移転の都落ちをして逃げるような拙劣な短絡的な大学はついぞなかった。
多摩移転についての補正
1977年4月の中央大学理事長兼総長代行の渋谷健一氏(十条製紙会長)の手記によると、
1966年、教養課程移転問題審議会の審議及び評議員会の議を経て、教養課程の移転及び体育施設の集中化の計画が検討され、1967年、これに基づく造成工事が施行された。
1960年頃から数年間なねわたった学生会館管理問題及び学費改訂問題に端を発した学園紛争の活発化に伴い、この計画は実施できないままだった。
教育研究施設が狭隘になり、施設の充実改善が急務になった。
1967年に研究教育問題審議会が設置され、この理事長諮問を集中的に検討した。
その答申を具体化するため教学施設充実問題特別委員会が設置され、多摩移転に向けての基本方針を策定した。
その後、1973年から教学施設充実実施計画推進本部を設け、移転の実施案作成の具体的作業に入った。
12月の評議員会の承認を得、さらに1974年12月の評議員会でこの建設計画に伴う予算基本計画が承認された。
このように本学は長期の検討の結果、、、本学90周年を期に百年の大計を樹立することを決定した。
少なくとも、退任した久野修慈前学員会会長が一部の人が強行して決めたとの発言は事実ではなさそうだ。
既に1962年にそごう社長に就任し、後に中央法学部の担保法の講義をした水島広雄氏はともかく、2005年に理事長になった鈴木敏文氏も久野氏も、その30数年前にはまだ若すぎて業務に懸命で大学移転問題どころではなかったのではないか。
当時、中央大学における中央法曹会の存在は今より更に巨大で、元最高裁判事や日弁連会長などが理事長や学員会会長などの要職を占め、影響力を与えて来た。
経済人の南甲倶楽部が多摩移転に反対したという記述は寡聞にして見つからない。
1984年、昭和59年12月に中央大学法曹会が主催の中央法学部との座談会があった。
大学からは川添学長、法学部長、刑訴の渥美東洋教授ら11人の各法の教授が参加している。
ほぼ同数の法曹会からの参加者の中には懐かしい弁護士の名前があった。
卒業後、42年になるという弁護士は「多摩に移転したことによって交通が非常に不便である。建物物は立派だが、都心から多摩まで出かけて行くのは大変である。そうするなら優秀な学生はここまで来れないのがいるんじゃないか」
民法の教授は「水準の高い学生という問題で、入学試験の時に高い成績をとった学生がなかなか入学してくれない。その傾向が近年、ますます強まっている。素質の良い受験生で早稲田法学部と中央法学部と両方に合格したという場合、かつては早稲田より中央に多く来たのに、それがやがて半々になり、そして最近では早稲田に行く人の方が絶対に多くなったという現実がある」
多摩移転6年目の現実である。
今では5割を優に越す大学進学率だが、1955年は8.2%、1960年は12.8%だった。
司法試験合格者数で5連覇していたこの時期、神田駿河台の中央法学部の志願者は急速な伸びを見せた。
法律学科の定員300人、政治学科200人である。
そこへ1955年は1万6411人、1956年は2万5010人、1957年は2万3037人、1958年は1万9602人、
1959年は2万3896人、1960年は3万2594人と5年前の2倍に達した。
そこで対処として1957年から法律学科の定員を500人に、政治学科の定員を300人の計800人に増やした。
3万2500人、形式的な倍率は40倍とは今では考えられない数字である。
ちなみに1960年の司法試験の大学別合格者数は全体345人で、中央106人、東大51人、京都35人、早稲田18人、明治18人、九州16人、東北11人、日大11人、関西7人、大阪6人、金沢5人、立命館4人、法政2人、一橋1人、慶応0人、その他54人であった。
1960年は法学部だけで32,600人もの志願者ですか。早稲田全体で現役志願者数が35,000人ですから信じられないような数字です。
1961年の旺文社模試による合格者の平均点があります。慶應経済191慶應商167慶應法165、早稲田政経163早稲田商151早稲田法147、上智経済143上智法133、そして中央法は125です。
今のような偏差値ではありませんし、模試は英・国・数の3教科ですから、数学必須だった慶應は有利になります。
早稲田全体の現役受験生並みの志願者を集めながら、旺文社模試の難易度的には、早慶上智に及ばないのは何だか不思議な感じがしますね。
初めて目にする数字である。
【1956年から1959年の司法試験の大学別合格者数】だ。
〔1956年〕 中央88人 東大56人
京都30人 明治15人 東北12人 早稲田12人 九州11人 日大11人 立命館4人 関西3人 慶応0人
〔1957年〕 中央63人 東大56人 京都43人 早稲田12人 日大11人 九州9人 関西9人 大阪8人 東北6人 明治6人 立命館6人 慶応5人 法政3人
〔1958年〕 中央106人 東大57人
京都25人 早稲田22人 明治18人 日大11人 関西10人 法政10人 東北8人 九州7人 慶応7人 大阪6人 立命館2人
〔1959年〕 中央97人 東大36人
京都32人 東北23人 明治22人 早稲田17人 九州10人 関西9人 日大8人
法政7人 立命館5人 大阪3人 慶応0人
1957年は中央法学部の合格者が減少し、20連覇中、最も東大と僅差の年だった。
この時期、全体の合格者はせいぜい300数十人か、1960年の345人を上回ることはなさそうだ。
平成7年短答式法科大学院別合格者数(抜粋)※上段平成7年 下段平成6年
早稲田大学248(325)76.31%
267(330)80.91%
慶應大学 183(236)77.54%
214(246)86.99%
東京大学 177(232)76.26%
201(255)78.82%
京都大学 176(219)80.34%
172(217)79.26%
中央大学 147(190)77.37%
148(181)81.77%
大阪大学 125(168)74.40%
144(177)81.36%
神戸大学 103(136)75.74%
107(136)78.68%
一橋大学 97(128)75.78%
102(123)82.93%
今年の最終合格者は何となく京都大学法科大学院がトップの予感。2位早稲田大学法科大学院、3位慶應大学法科大学院、4位東京大学法科大学院、5位中央大学法科大学院か?





























