在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
賢い人が選ぶ大学 東大 vs 早慶 vs 医学部
東大 vs 早慶 vs 医学部
現時点でのネームバリュー、大学や職業としての普遍性と安定性、いずれも甲乙つけ難い。
賢い人が選ぶのはどれ?
学部学科の名前だけで選んでしまって、学ぶ中身までちゃんと調べてくれない生徒さん、おられます。例えば、京都大学と名古屋大学には、同じ物理工学科がありますが、京都大学のは、流体力学を扱う機械系を学ぶコースがありそこに憧れる生徒が多いですが、名古屋大学の場合は物性系の意味合いが強いです。まぁ、そこらへんの大学目指す人は、良く調べてくれるのですが、そうじゃない人は、結構名前だけで釣られます。
大学名や学科名が同じでも、中身はまったく別物になる。物理工学のような広い名称は特にそうで、大学ごとに守備範囲も研究文化も歴史も異なるため、同じ看板の下に置かれていても、学ぶ世界は根本から変わります。
京大は流体や機械系の伝統が強く、物理現象を力学として読む文化がある。名古屋大は物性寄りの理学的文脈が太く、物の状態や性質に切り込む文化が育っている。ラベルは似ていても、学問の風景は別の地平に広がっている。
そして、多くの受験生はその深層に到達しないまま名称だけで判断する。大学名という抽象に引っ張られ、中身という具体への視線が弱い。これは大学側が悪いというより、日本の進路選択が表層的な記号で処理されてしまう構造の副作用です。
同じ名前の学科だから同じ内容という発想がそもそも成立しない。学問は名札ではなく系譜で決まる。ここを踏まえないと、進路は簡単にミスマッチします。
大学に行かなくても、進学校と言われる高校に在籍した方なら、自分より優秀な同級生を見た経験があると思います。
どう、頑張っても、彼や彼女には勝てない。
一方、
高校時代には興味が広がって、学力以外に注力してしまい、成績は思うように出なかった学生もいます。
こういう学生がどういう大学に進学するかはわかりませんが、大学で学ぶことに興味を持ったとしたら、価値ある学力を身に着けている可能性があります。
国立大学と私立大学のメリットとデメリットを知っていますか?
【国立メリット】
学費が比較的安い。
教育の質が高く、研究機会が豊富。
就職率が高い傾向がある。
【国公デメリット】
入試が厳しく、受験科目が多い。
地域によってはアクセスが不便な場合がある。
【私立大学メリット】
入試が比較的容易で、受験科目が少ないことが多い。
学生生活が多様で、キャンパスライフが充実している。
【私立大学デメリット】
学費が高い、理系になると国立の数倍
簡単にまとめると
学力が高い方、賢い方々・・・国立大学
そうでない方々・・・私立大学
入試にしても文系になると早慶もニッコマンも数学や理科は必要ありません。
STARS>>早慶≒日東駒専ってことです。
東大 vs 早慶 vs 医学部という三項対立が、三項対立であるという事実そのものをただ反復しながら、東大と早慶と医学部という語が互いに循環し、ネームバリューと普遍性と安定性という語がそこに付着し、付着した語がまた東大 vs 早慶 vs 医学部へ戻り、賢い人が選ぶ、という問いだけが反芻され、選ぶ、賢い人、賢い人が選ぶ、選ぶ賢い人、甲乙つけ難い、つけ難い甲乙、東大、早慶、医学部という語列がひたすら回転する。
ネームバリューがネームバリューとして東大のネームバリュー、早慶のネームバリュー、医学部のネームバリューへと分岐し、分岐したネームバリューがまた普遍性と安定性へ接続し、普遍性が普遍性として普遍し、安定性が安定性として安定し、安定しながらまた東大 vs 早慶 vs 医学部へ吸い戻され、賢い人が選ぶ、という語が再浮上し、賢い人という語が賢いとされる人の賢さの語だけを増幅させつつ、何一つ選択が進まない。
東大と早慶と医学部が、それぞれの東大性、早慶性、医学部性を帯びながら、帯びた要素を互いに投げ合い、投げ合った語がネームバリューの軌道を描いて普遍性に接触し、普遍性が安定性と結びつき、安定性がまた東大か、早慶か、医学部か、という三択問題のなかへ沈んでいく。沈んだ語がまた浮かび、浮かんだ語がまた沈む。その浮沈のたびごとに、甲乙つけ難いという言葉が甲乙つけ難さだけを巨大化させ、巨大化した甲乙つけ難いがまた賢い人の選択という問いそのものへ戻される。
賢い人が選ぶのはどれ、という問いが問われるたびに、東大 vs 早慶 vs 医学部、ネームバリュー、普遍性、安定性、甲乙つけ難い、賢い人、選ぶ、選ばれる、選ばれない、問いが問われる、問いがまた問いを生む。その生まれた問いが三項対立に再接続され、東大の東大性、早慶の早慶性、医学部の医学部性がまた漂い続ける。
こうして東大 vs 早慶 vs 医学部は、ネームバリューと普遍性と安定性と賢い人と甲乙つけ難いの語を抱えたまま、ただ語が語を呼び、言葉が言葉を増殖させ、決定されるはずの選択は永遠に定まらず、賢い人が選ぶのはどれ、という問いだけが再び出現して文章が終わらないまま循環していく。
小中と勉強嫌いで高校は偏差値45程度の県立高校に進学しました。
高3の夏前に慶應大学に通ういとこに大学生活の楽しさ、すばらしさを聞かされて僕も大学進学したいと思いましたが、現役ではどこにも合格できませんでした。浪人して予備校の授業で勉強が楽しくなり、受験勉強に没頭。
結果、慶應大学は落ちましたが、立教大学に合格できました。大学に入って驚いたのは周囲の友人、先輩たちが僕の何百倍もいろいろな事を知っていて、勉強だけでなく、部活、アルバイトなど何事にも前向きに取り組み、チャレンジ精神旺盛なところでした。高校時代の友人達は「だるい、めんどくさい」とボヤいてばかりで無気力なのが多かったので、人間こうも違うのかと驚きました。
お話は分かります。
環境が人を変えるという点貴重なお話だと思いました。ただ、そこから一歩引いた視点もあります。
私自身、東大と名大医の両方を見てきましたが、一発試験で測られる知性と、実際に社会で機能する力は必ずしも一致しません。医学部のように定員が極端に少ない世界とは違い、東大には本来なら理IIIに行けただろうという知性の人もいれば、正直そこまでの基礎学力があるとは思えない、具体的に言えば、センター8割すら取れてないでしょ?な学生も混在しています。インチキや不正がない以上、一定割合のフロックは避けられないからです。
一方で、オープン模試で1位を取っていながら本番で何度も落ちる浪人生も実際にみました。能力はある。でも本番で出せない。その時点で、社会が求めるアウトプットという観点では評価されない。これは残酷ですが現実です。
逆に言えば、まぐれでも一度引っかかり、卒業まで持っていける人間は、本番に強い、場を掴む、一発を通す力を持っているとも言える。社会では、継続的な満点より、要所で結果を出す人間が評価される場面も少なくありません。
大学環境が人を前向きにするのは事実です。ただ、それは学歴が人を保証するという話ではない。出せる力しか力ではないし、制度が拾っているのも本質的にはそこです。
努力や成長を否定するつもりはありません。ただ、受験や学歴を美談に回収しすぎると、評価設計の歪みや一発試験の限界が見えなくなる。その両方を同時に見る必要があると思っています。




































