アートの才能を伸ばす女子教育
受験する学校選び
以前は偏差値表や大学合格実績を頼りにできるだけ偏差値や大学合格実績の良い難関校を目指すご家庭が多かったのですが、現在はお子さんの性格や目指す将来像に適した学校を目指すご家庭が顕著になっています。
探究型の学び、グローバル教育、STEAM教育、リベラルアーツ等の教育内容
面倒見が良く、イベントが多くて楽しそうな学校等の教育環境等で選ぶご家庭が増えています。
社会や大学受験等が大きく変化する中、どのような学校を受験するのが良いのか、情報共有しませんか。
学力テストやPISA自体がもう古くなっていることに気づこう。
ドメな人間は国内だけしか見ていない。文部科学省はとか、ゆとり教育の失敗とか
そんなことグローバル競争の時代に視野が狭すぎる。社会にでれば世界と競争する。
日本の教育は劣っているから衰退した。
インターネット、スマホ、クラウド、AI等すべて米国発の技術。
東大入試でほぼ満点の中、AIでできることを人間が競っても意味がない。AIをつくる人間を輩出するのが本当の大学や教育だよね。
視野を広げるべき、という指摘自体は筋がいいですね。ただ、その先の結論が少し短絡的です。
PISAや学力テストが万能ではないのは事実です。測定できる能力には限界があるし、時代に合わせて評価軸を更新すべきという議論も妥当。ただ、それをもって「もう古いから無意味」と切り捨てるのは別の極端です。国際比較の基礎データとしては依然有効で、少なくとも教育の土台を把握する指標としての価値は残っている。
また、技術が米国発という一点で教育全体を劣位と断じるのも粗い。イノベーションは単一の教育制度から直線的に生まれるものではなく、資本市場、移民政策、リスク許容文化など複数の要素の掛け算で成立している。教育だけを原因に据えるのは構造の切り分けとして不十分です。
AIの話も同様で、作る側を育てる重要性はその通り。ただ、その前提として数学・言語・論理の基礎が必要になる。そこを支えるのが、まさにあなたが軽視している基礎学力です。基礎を飛ばして応用だけを語ることはできない。
結局、
基礎の計測も必要
高度な創造性の育成も必要
この両立の設計こそが論点です。
どちらかを否定して済む話ではありません。
世界の教育は個人の好奇心、探究心に基づく各個人の主体的な学びに移行している。
文部科学省がゆとり教育で失敗したのは世界の教育の動きを見ていなかったからだ。
世界はすでに探究的な学びに移行している。日本の知識偏重教育では世界に勝てなかった。研究力、産業創出力等あらゆる点で負けまくった。
知識偏重教育の学力向上は社会の役にたっていなかったということ。失われた40年をみれば明らか。
その認識も、かなり単純化しすぎています。
まず前提から崩れています。いわゆるゆとり教育を一括りにして失敗と断じる根拠は、実ははっきりしていない。学力低下の象徴として語られがちですが、国際学力調査であるPISAを見ると、日本はゆとり期を経た後も読解力や数学的リテラシーで上位圏を維持している。少なくとも「制度として崩壊した」という事実はない。
さらに、ゆとりの目的は単なる授業時間削減ではなく、詰め込み偏重からの転換、思考力や主体性の育成にありました。問題が出たとすれば、それは理念ではなく実装。現場の指導体制や評価方法が追いつかなかった点であって、方向性そのものを否定する話ではない。
次に「世界は探究へ移行している」という部分。これは半分正しく、半分雑です。確かに主体的・探究的学びは各国で重視されている。しかし同時に、基礎的な知識・技能の徹底はむしろ強化されている。探究だけに振り切っている国はほぼ存在しない。両輪です。
そして「日本は負けた」という総括。研究力や産業競争力の変化をすべて教育に帰すのは因果の飛躍です。研究力低下には研究費配分、ポストの不安定化、産業構造の成熟など複合要因がある。教育だけを原因に据えるのは分析ではなく願望に近い。
結局のところあなたの論は、
世界は進んでいる
日本は遅れている
だから原因は教育
という一直線の物語に過ぎない。
実際には、
ゆとりの理念自体は国際的潮流と整合している
問題は導入と運用
基礎学力と探究は対立ではなく補完関係
ここを外した時点で議論は成立しません。
失敗という言葉で片付けるほど、この話は単純ではない。
は、どうゆうこと?
2021-22年に学力テストの内容がガラッと変わった事実なんてないけど?
探究に時間を割いた分、削られた教科時間があり学力低下を憂慮する声があるのは気のせいってか?笑
あんたやっぱり子育てしてないんだね。
まず確認しておきますが、私は「2021-22でテスト内容がガラッと変わった」などとは一度も言っていない。
評価の枠組みは連続的に調整されている、と言っているだけです。
したがって、あなたの指摘は前提の取り違え。論点の外側です。
その上で本題。
仮にテストが大きく変わっていないとしても、そこから
「探究の時間が増えたから学力が低下した」
という因果は導けない。
学力の変動は複合要因で動く。
コロナ期の学習機会の断絶、家庭環境の格差、ICT導入の過渡期。
少なくともこれらを切り分けずに、単一要因に帰属させるのは分析ではない。
あなたの提示しているのは
教科時間が削られた → 学力低下
という直線的な仮説に過ぎないが、それを裏付ける定量的な因果は一切示されていない。
さらに言えば、「声がある」というレベルの話はエビデンスではない。
どの指標が、どの期間で、どの程度変動し、それがどの要因と結びつくのか。そこまで降りて初めて議論になる。
最後に。
子育ての有無を持ち出した時点で、あなたは論ではなく属性に逃げている。
それは自分の主張に根拠がないことの裏返しです。
結論。
部分的な事実を押さえたつもりで、因果を一切示せていない。
その状態で断定に飛ぶのは、分析ではなく印象論に過ぎません。
>あんたやっぱり子育てしてないんだね。
よほど自分が子育てした事がないのがコンプレックスなんだね。
私はそう思うならどうぞどうぞご自由にと返しておきますね。あなた達の印象に興味はないので。
自分が前提間違っておいて他責投稿するの、よくやってるよね。
こっちは最初から全国学力テストの結果見ろと言ってるし、探究が問題視されてるのは教育現場に関心のある親なら常識。
因果関係は未調査だが、それ以外に何がある?あるなら言ってみ。
おやおや。劣勢になると語彙が一気に荒くなる。ずいぶん分かりやすい反応ですね。
中身で押し切れない時に人格評へ逃げる。典型です。
で、本題。
「因果関係は未調査だが、それ以外に何がある?」
ここで議論は終わっています。
自分で“因果は示していない”と認めた上で断定している。
それ、分析ではなく思い込みです。
さらに言えば、「それ以外に何がある?」という問い自体が成立していない。
学力変動は単一要因で説明されるほど単純ではない。
コロナ期の学習機会の毀損
家庭環境による格差の拡大
ICT導入過渡期の混乱
指導体制の負荷増
この程度の候補すら想定できていない時点で、視野が狭い。
そして「全国学力テストを見ろ」。
見たところで、相関しか出ません。
相関と因果の区別もつかずに、
データを盾にした気になっているだけ。
さらに「現場の親なら常識」。
常識はエビデンスではない。
むしろその“常識”こそが、検証されていない仮説を固定化する温床です。
結局あなたの主張は、
因果未確認だが断定
他要因は検討せず排除
空気を根拠に一般化
この三点で成り立っている。
議論の体裁を取っているだけで、実質は信念の表明です。































