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【644113】平成13年度父母会だより3号

投稿者: 伊豆山元校長手記   (ID:bJNQmQmmuKw) 投稿日時:2007年 05月 26日 13:04

在校時代の想い出を現在の開成と比較して書いて欲しい、という依頼であるが、まず時代の違いが余りにも大きいことを指摘したい。道灌山の環境の変遷も、地元で成長した私にとっては感無量である。明治の末、父が小学校の遠足で、いまの第二グラウンドのあたりであろうか、立派なお屋敷の、それはそれは広い庭園にきている。東側に展開する平地の美しくも雄大な自然。遠く荒川に浮かぶ白帆がみえたという。そのころの荒川と言えば、隅田川のことか。
私の小学生の頃、渡辺町はこんもりした木々の茂みの下にあった。東京大空襲で開成周辺は焼け野原になったが、その中に開成だけひとりポツンと建っていた。無鉄砲な中学1年生は、空襲のさ中、開成の安否を確かめに行った。道灌山通りを進むのだが、おびただしい火の粉とだいだい色の煙に巻かれ、前進できなくなって、開成も焼けたと思った。翌朝目覚め外出してみて、母校の無事にびっくりした。
程なく、母と弟と一緒に那須に疎開した。電気も水道も井戸もない村はずれから、大田原中学校(現高校)に通った。片道10キロ以上を全くの徒歩通学である。開成も麻布も都立中学受験に失敗した敗者の受け皿であった時代である。県立大田原中学校がよく受け容れてくれたので、感謝であった。疎開生は差別され、教科書の支給もなかったが、むしろ感謝したものだ。開成の同級生には、仙台一中で編入を拒否され「私立の中学生は、仙台育英に入れ」と、育英に廻された者もいる。
東京では死体もたくさん見た。夜間、単機飛来したB29が自宅近くに大型爆弾を落として、私の部屋のガラス窓がこなごなになり、部屋いっぱいに飛び散ったこともあった。たまたま、茶の間でボーッと練炭火鉢で暖をとっていて、勉強も就寝もしていなかった12才の少年が、その怠惰の故に後の人生に恵まれたのだから、運命は皮肉である。
あとで考えれば大田原中学の経験は有意義であったが、この時代は、農作業、飛行場滑走路整備などにかり出される日が多かった。教科書なし、電気がないから夜の勉強ができない、毒虫に刺される、等々で苦労したことは忘れがちだ。
英語だけは教科書が支給されたが、ほかはなし。漢文も数学も教室では何が進行しているのかチンプンカンプン。数学は試験となると、ウンウンうなって答えをひねり出したのが信じられない高得点。可憐だったので先生がひいきしてくれたのだろう。その可憐さが祟って、地元の同級生から教科書が借りられず、漢文だけは困った。試験前にやっと借りた教科書を書写したまではよいが、漢和辞典を頼りに、ロセッタストーン解読のシャンポリオンの苦労を味わった。
このときは、母が遠く町まで行き、石油ランプと油を手に入れてくれた。石油ランプ頼りのChammpolionもまた格別だったが、母の苦労はそれ以上だった。まず水である。疎水から水を二つの桶に汲み取って天秤棒でかつぎ上げ、土間の水瓶まで運ばなければならない。次は食料である。農家は米を出し渋るので、着物や帯との交換になる。私も母のお供をして農家を巡る。交渉は長引き不調に終わって母が暗い顔で現れる。2,3軒まわってやっと米袋を抱えた母が現れる。外で待っていた私がそれをリュックに入れ、背負って帰る。
8月15日の玉音放送を大田原中学の講堂で聴いたあと、まだ農作業への動員が続く中の早朝、私は一人、西那須野駅に向かった。アブやブヨにさんざん食われて化膿した足の治療の為だ。東北線はまだ単線で蒸気機関車が1時間に一本来るかこないか。しかも切符は売らない。どうやって東京の自宅にたどりついたかはご想像に任せる。
9月早々から開成中学2年に復学し、開成は良い学校だったと実感した。父と祖母だけの家は食料不足で、空腹の日々であったが、ゆったりした開成。良い友人達、良い先生と言いたいが、授業は殆どなかった。クラスは20名足らずで、2年生は2クラスだけ。教室に現れた先生は雑談ばかり。インテリの先生だから、雑談も面白かったが。
学問は結局は自分でするものだ。塾はもとより学校で押しつけられるものでさえない。ただ学校は文化的土壌である必要があり、先生方の学識が重要であるのはもとより、学校側の知らないところで、友人間のつき合いを通じて互いに啓発しあうのだから、生徒の各家庭が持っている「家学」も役割を担う。
私にとっては、学校から帰って間もなく、庭をまわって縁側からひょっこり我が家に上がり込んで来る園田敏夫(ピアニスト高弘の弟)を忘れることはできない。中学3年になってからは、文字通り毎日のことであった。物理や化学のいろいろな本を持ち込んできた。彼の家は戦災にあって、我が家の隣の声楽家・城多又兵衛教授宅の一室に一家で部屋住みであったから、我が家でゆったりしたかったのだろう。ちなみに彼は父親を早くに亡くし、母親は小学校の教員でそんな時間には帰宅していなかったし、兄は音楽学校(現東京芸術大)でピアノばかり弾いていたから、我が家に来ない限り、身の置き場がなかったのだろう。あの本は城多家のものか、弟思いの高弘兄がどこかで仕入れてきたものか知らない。この状態は1年以上続いた。
文京区西片に住んでいた杉田。父親が名古屋大学医学部教授であった。何人か連れだって、よく遊びに行った。応接間には天井まで達する書架にいっぱい書籍が並んでいた。梯子を登って、いろいろ選び出して、仲間を忘れて夢中で読んだ。物理学や宇宙についての知の世界への夢となるものが、海綿が水を吸収するような速さで私の中に入ってきた。
当時は紙がないので、本の出版がない。神田や本郷通り一帯には古本屋が並んでいたので、休日は古本屋巡りをした。立ち読みに充分時間をかけ、どうしても欲しいものは、一週間、もじもじしたあげく、父親にねだって金を手にし、買いに行くときのはずんだ気持ちは忘れられない。
高校生の年齢になると、お定まりの、哲学、文学の議論仲間もできた。後で反省すればずいぶん未熟なのだが、カントだのヘーゲルだのマルクスだの、我ながら偉そうな気分になったものだ。実存主義はまだ流行っていなかった。
先生について言えば、中学3年になると、著名な国語学者「安田喜代門」がユークリッド幾何学を教えてくれた。先生が古典ギリシャ語までこなしておられたかどうかは知らないが、ユークリッドの幾何学原論の訳を先生が手書きで謄写版刷りにして、配ってくださった。定義、公理、定理と羅列してあって、証明は授業で先生がなさる。学問とは何か、思考力の原点となる厳正なる論理について教えられた。
当時の悪い紙にごちゃごちゃとした手書きであるから、頭がごちゃごちゃするので自分なりに整理し直してみると、論理の運びに無駄が多い。もっと良い本はないかと、古本屋を漁って、秋山武太郎の本に出会った。この本との出会いも大きい。しかしその出会いのきっかけは安田喜代門先生であったのだ。
今の開成の生徒は、その能力も先生も、はるかに恵まれている。ユークリッド幾何学で言えば、ヒルベルトの思想で洗練された論理で書かれた小平先生や佐々木先生の本も使用されている。
しかし自分で探し求めたあげくの「出会い」も重要である。「求めよ、されば与えられん。門を叩け、されば開かれん」であり、何よりも、科学には真理を求める心が必須である。哲学と言ってもよい。それがない知識だけの科学は政治の奴隷と化す。
高校2年になって、京城(現ソウル)帝国大学教授を追われた「松本」先生に西洋史を習った。この先生の感化も大きい。学問の何たるか、文化の何たるかを、先生は迫力をもって語られた。迫力というが、熱血漢のそれではない。学問を極めた人が語って、初めて他利の霊験は顕われる。それは人気とは違う。
成績や試験をバカにして、先生は試験というものをなさらなかった。しかし不思議なことに、先生の強調された世界史のキイポイントは頭に残っている。 
高校のうちに3ヶ国語くらいマスターできなきゃ学問に縁なき衆生だとおっしゃり、ドイツ語を教えてやる、で、朝7時からの授業を受けた。10名くらいは出席したろうか。
これがまたすさまじいもので、あっというまにメリーケの「Mozart auf der Reise nach Prague」。訳があるとはしらなかったので、ふたたび Chammpolion の苦労をした。今はもうはやらないが、こういう勉強も必要だと思う。
「いまどきのマルキストは原著を読まない。カントを翻訳なんかで読んで<観念論哲学>などと批判できるか。ドイツ語で読め」と先生はおっしゃる。古本屋でカントのクリテイーク を買ってまた Chammpolion になり、自分は学問には縁がない、との思いがつのった。向かいにお住まいの坪井忠治教授宅にうかがって悩みを打ち明けたところ、教授は豪快に笑い飛ばされ、「あんなもの僕は読んだこともないよ」。これで救われた。
私は教室の授業を熱心に聴いていなかった。反抗的な気持ちはなく、漫画や小説を読んでいたわけではない。数学の授業中には、勉強中の大学レベルの数学書を、といった配慮はしたが、それにしても無礼であった。先生方がよく理解してくださった。感謝あるのみである。数学の先生が私にも聞こえるように「数学というものは授業をよく聴いている生徒がよい生徒とはかぎらない」とおっしゃる。そのご恩のある先生が亡くなったとき、私はアメリカにいた。物理で可愛がられた曽禰先生が亡くなられたときはヨーロッパにいた。つくづく恩知らずの業である。
親から「勉強しろ」と言われたことはない。友人も同じだったろう。それが当時の世相であろう。学校からご褒美をもらっても親に黙っていた。中学4年終了のご褒美が母に漏れて、「おまえは本ばかり読んでいるから体ができていない。これで運動しろ」と言われ、サッカーボール状のものを買ってくれた。それは直ぐに市立2中(現上野高校)に通う弟のものになった。そんなことが祟って、高校2年のとき、3学期全部を試験を含めて休んでいる。医者が「こんなに難しい本を読んでいるのがいけない。頭を使わずぼんやりしていろ」と、休ませたままのほったらかし。誤診であった。学校に行きたくても行くな、というのは若者にとって極めてつらい。このような経験したのに、校長在任中は何人か自宅謹慎者を出した。ごめんなさい。
開成も歴史のなかにいろいろな phase があり、私の友人たちは文化的であったが、平均してみると、当時の生徒気質はかなり荒削りであった。いまの開成よりもはるかに粗暴な生徒が多かった。しかし大田原中学はさらに粗暴であったが。
開成もいろいろな意味で今と違う。運動会はどこにでもあるようなもので、棒倒しも到るところでやっていたようであった。もっと乱暴な集団競技が開成名物とされていたが、それは私の卒業後まもなく禁止された。幼児期の育ちかたが違うので、どこの学校の乱暴な競技でも、あまり怪我人は出なかった。危険から瞬間的に身を守る動物的機敏さの修得は中学からでは遅い。
那須野が原で飛行場に連れて行かれるときは、トラックの荷台に立ったままかがむことすら出来ない程詰め込まれ、舗装なきデコボコ道を突っ走られた。「イテテ、イテテ」と黄色い大声で耳が裂けそうになったが、誰一人振り落とされず、骨折も捻挫もしなかった。夏の炎天下に、木陰ひとつない滑走路の隅の作業では、水がない。さすがに弁当の後は、何人かで兵隊達が飯ごうを洗った水をばけつで運んできて、骨や油の浮いている水を皆で飲んだ。水筒を持って来い、とは予め言われていなかった。
勉強も運動も、今から見たらめちゃくちゃな時代だった、と言わざるをえない。自分の開成時代は決して自慢できるわけではない。勉強、運動、どちらか一方だけを昔に戻そう、という試みは失敗するだろう。両方セットで時代の思想というものがあったのだ。今は児童憲章で子供の人権が守られている。もうトラックに詰め込まれた石ころではないのだ。何時の時代でも、年寄りは若者についていろいろ言う。運動会ひとつとってみても、いまの開成生は立派なものだ。批判には剛健(心が平静である様子)に構えていて欲しい。
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