アートの才能を伸ばす女子教育
なんで早慶ばかり各界で活躍する人材が目立つのか?
カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した是枝裕和監督も、過去2回受賞した今村昌平監督も早稲田文学部出身と言う事を思い出しました。
文学の世界でも実業の世界でも政治の世界でもマスコミ業界も、
目立つのは早慶出身者ばかりじゃないですか。
こういうと「人数が多いから」とトンマな事を言い出す方が必ずおりますが、
早慶VS旧帝に置き換えても歴然とした差があります。
どうしてこういう事になるのでしょうか?
もっと本質的な観点からの批判である。
例えていえば、人間をそのように抽象化したアトム的要素として画一的に考えるべきではないというものだ。それは、最近はやりの「データ」至上主義にも言えるものである。すなわち、米国型社会科学の悪癖ともいえる、人間の行動をまるで自然現象と同じように工学的にとらえるというものだ。その極地が竹中平蔵らのうそぶく、あの時代遅れの「市場原理主義」であろう。
換言すれば、学問の対象である「人」をそうした「person」ではなく、具体的に実在する「Mensch」として考えるべきだ、ということでもある。欧州では、むしろこの考え方が主流である。
政治学含めた社会科学の本質論を語るのに、なぜそこからの演繹的議論を拒絶するのだろうか。
君のそうした帰納的志向はむしろ、自然科学におけるものだといえる。
ちなみに経済統計や計量経済学等の経済学分野でならいざ知らず、政治学の講座カタログにおいて、そのような計量的なアプローチはいまだ一般的ではない。むしろ、異端視されているとさえいえる。
なぜなら、そこには一人ひとりの生ける個人の顔が見受けられないからだ。Personあっても、
Menschがない。人間やその行動態様を抽象的にアトム化してとらえる「米国流計量至上主義」の病、ここに極まれり。
全然話しが噛み合っていません。
もっと初歩的な話で政治学を学ぶにあたって統計学が必要になる。そのため入試科目に数学を取り入れるというレベルの話に対していきなり社会科学の本質論(計量政治学批判)で反論する意味がわからないということです。
少なくとも本質論を語るのであれば計量政治学とはいかなるものかを知る必要がある。そのの基礎である統計学がわからないのにその先の計量政治学アプローチの議論や異端であるかの議論もできないでしょうという話。
だから議論以前の話と言っているのです。
中身を知らないものに対して議論もないでしょう。
君の言う統計学とはいかなるものであり、それがなにゆえに政治学で必要なのかをー最低限ーまず自ら明らかにすべきであろう。それすら怠り、現在の政治学の世界では異端にすぎない「計量政治学」※なるものを一方的に、あたかも規範のごとくに「~すべき(当為)」と所与の前提にすること自体、強い違和を覚える。
仮にそうした少数説を主張するのであれば、まず通説から論じることが先決になろう。君の議論は、そうした大前提を飛び越えて、唐突に小前提を声高に唱えるようなものだ。手前勝手な「舞台設定」をされても困る。
※「計量経済学」ならいざ知らず、「計量『政治学』」を単独で授業科目として設置している例が、全国の大学にはたしてどの程度みられようか。





























