今年入学した高1生が語る青春リアル
中央大学法学部は都心移転によりどこまで復活するか?
みなさんの予想はどうですか?
私は、
出身学部別での司法試験合格者数は1位。
予備試験合格者数では2位。
国家公務員総合職の合格者数では早慶を抜いて1位。
民間は今より良くなる。
偏差値は普通に早慶上位レベルまで上がる。
主要大学の学部の都心集中化策が続く。
この春に法政大学が町田市の多摩キャンパスにある経済学部を2030年をめどに市ヶ谷キャンパスに移転する決定したのに続き、明治大学が10年後をめどに中野キャンパスにある国際日本、統合数理の両学部を駿河台キャンパスに移転すると発表した。
法政の場合は23区外からのため、規制法の失効する2028年を待たねばならない。
明治大学の両学部の学生数は約3000人、駿河台は容積率が高く収容も容易であろう。
このニュースに焦り、更にキリキリしている中央大学の商、経済学部の学員たち。しかし、その声はカレー学長には響かないだろう。頼るは理事長、理事会のみだ。間もなく来る2025年には出されるであろう2035プランに注目している。
明治大、法政大のメインキャンパスと中央大のメインキャンパスの違い、それに移転する学部規模を考えないといけませんね。明治大国本、総理も1・2年は中野に置けば駿河台も楽になります。買収したホテルも活用するかもしれません。法政大も経済学部だけなら市ヶ谷でも何とかなるでしょう。無理すればもう1棟くらい周辺にスペースはあります。
しかし、中央大はメインキャンパスは多摩です。学生数の多い経済学部と商学部を明治大や法政大みたいに移転させるだけの場所がありません。後楽園キャンパスは巨大な新棟を建てるスペースはありません。それに経済学部・商学部が多摩から出るならほかの学部が静観するとも思えません。
明治大・法政大の学部都心回帰と中央大のそれとはかなり状況が異なります。中央大は簡単では無いように思います。
明治大学の中野の2学部の駿河台へのニュースへのヤフコメ。
≫≫昔は駿河台と言えば中央大学。明治や日大は中央大学に入れない学生が行った大学でした。
明治大学や青山学院大学は昭和50年ごろから本当に広報が上手かったと思いますね。
中央大学は法曹界、財界、過去の栄光があれば宣伝なんてする必要がないと思っていますね。
あと10年もすれば東洋大学に抜かれてると思いますよ。
ある学員の声
≫≫中央は危機感が全く感じられない。
多摩でのんびりカレーライスを食べている場合ではないよ!
別に明治や青山学院が広報が上手で中央が下手とは思わない。ここでも書き込まれるが、具体的に明治や青山学院がこうだから良くて中央はこうだから駄目との書き込みを見た記憶がない。漠然と上手と下手との言葉だけが独り歩きしてるだけ。明治や青山学院とて大した広報はやっていない。
神田駿河台の中央大学を知らない多摩世代の学員、卒業生たちも何故、都心のど真ん中の好立地を売り払って文系全学部の多摩移転をしたのかと批判する向きが多いが、同じお茶の水駅から東西を分けていた明治大学の領地拡張、伸長ぶりとの対比に落胆するのであろう。
事の始まりは1960年(S35)に由木村に校地として10万3531坪を購入したことだ。
多摩移転への嚆矢となったのは1966年(S41)5月30日の評議員会の施設基本計画大綱決定「教養課程は多摩校地へ」だったようだ。
しかし、まだ全面移転ではない。一ヶ月後の6月30日には大学生協のあった学生会館(小川町校舎、地下一階地上6階2197.9坪 7253平方メートル)が完成した。(これは学園紛争の大きな種になった)
東映社長としと名を馳せた大川博理事長の時だ。
実は理工学部も危うかった。1969年3月3日の評議員会で「後楽園校舎は多摩移転時に売却」としたのだ。
1972年5月26日、大塚喜一郎弁護士が理事長就任したが翌年の2月2日に最高裁判所裁判官に就任、元日弁連会長の堂野達也弁護士か後を継いだ。堂野達也弁護士は105歳の長寿を全うされた。
そして全面移転派で後に理事長になり多摩移転を仕切る渋谷健一氏が評議員会副議長に就任する。
そして1973年5月21日、教学施設充実問題特別委員会が堂野達也総長職務代行に【法経商文の昼間部関係施設を多摩校地に建設する】等を中間答申した。
この年の9月の司法試験合格者は133人でまた首位を奪還した。
翌年の1974年2月18日、堂野達也理事長が辞任、十条製紙社長の渋谷健一氏が理事長兼総長職務代行となる。
5月28日、評議員会は再び「後楽園校舎は多摩移転時に売却」を可決した。
後楽園の理工学部も危うしだったのだ。
与党123万円を大綱に明記へという最新ニュースが伝えられた。
昨日、田﨑史郎さん(中央法卒)がラスボス宮沢洋一自民党税調会長を政治オンチと評した。税調のドンだが対外的な交渉事には不向きだということだろう。何せ、これまでは多数与党で高所から税調を仕切って来たので平場での野党との交渉などしたことがない。
宮沢ドンは最初から落とし所としていた123万円を提示してしまった。(物価上昇率一割を根拠にした)113万円あたりをまず提示していればと。交渉の駆け引きができないというのだろう。
ゴルフのゴールの物言いにも国民民主党側を怒らしたらしい。更なる提示がないことに古川元久、浜口誠コンビが怒り心頭で協議打ち切りだと宣言して退席した。
しかし、不快でも通常の粘り強く協議交渉する姿勢ではない。
3大紙の最新の世論調査で国民民主党の支持率が立憲民主党を上回り、気も大きくなっている。怒るスタンドプレーでも拍手喝采だと舞い上がっていのか。強面、榛葉幹事長に影響されたのか。
中北浩爾教授の与党は政策論をしたい(178万円による8兆円近い毎年の恒久減税の財源やいかにも含めて)が国民民主党は選挙戦をしている、が的を得ている。
直後にまた玉木代表停止中議員は街頭演説に出て聴衆に呼びかけ拍手を浴びていた。
手取りを増やします、減税の財源は政府が考えろ、あるいは自然増収でどうにかなるは無責任な人気取りのポピュリズムそのものだ、
財源の裏打ちのない政策は民主党政権で懲りたはずではなかったのか。もっとも当時、初当選したばかりの玉木議員は内閣に加わることもなかった。
与党の側はもう協議しないならそれまでだ、であろう。
国民民主党側は蹴っても、榛葉幹事長のこれでは来年の本予算に賛成しないぞというブラフで、与党側からのまあまあそう言わずに続けましょうのなだめの呼びかけを読んでいたのかもしれないが、期日は明後日まで、もはやこれまでとなりそうだ。
これには石破首相と極親密な前原維新との関係があるのだろう。もう一枚の前原カードがドン宮沢のプライド保持に寄与している。
戦後界、政界にも大きな影響を与えたナベツネこと読売新聞のドン中のドン渡辺恒雄さんが98歳で亡くなられた。1991年以来、30年以上、社長兼主筆を務めて来た。
行きたかった朝日新聞の入社試験に落ちたことがここに繋がった。
半年に満たなかった陸軍生活でやたら殴られたことが生来の反抗心に火を点けた。
渡辺恒雄さん「軍隊という所はひどい所で栄養失調にはなるし、飯は食わしてくれんし、だ意味もなくひっぱたく。悪い意味の奴隷、ヤクザの世界でしたね」
敗戦後、東大に復学し共産党に入り、後の盟友で日本テレビ社長になる氏家斉一郎氏や西武の堤清二さん、構造改革論で社会党の江田三郎さんのブレーンになる安東仁兵衛さんらと東大細胞として活動した。
読売新聞では大野伴睦議員に気に入られて大野派を仕切るまでに政治活動に従事した。これほどまでに記者の範囲を越えた人はまずいない。
中曽根康弘議員、首相との親密な交流など政界の中心に足跡を残して行く。主筆として読売新聞の論調を右側に寄せても行った。
しかし、原点を忘れてはいなかった。戦争責任を追及し、頑として首相の靖国公式参拝には反対した。
戦後日本を生き抜いた唯一無二の記者であろう。
中央大学駿河台キャンパスの歴史を続ける。
1964年(S39)4月30日、4号館完成、同8月27日、5号館完成。14年後の撤退、多摩移転など眼中にない。更に3年後の1967年には両端に厳ついコンクリート柱の中央図書館まで新築した。十年でおさらばとは。
1964年は拡張の年だ。意外にも11月26日、明治大学から聖橋校舎(敷地404坪)を購入した。(引き渡しは翌年4月)後に総評会館となる地だ。
12月には正門北隣地に校地として314坪を購入している。
この年の司法試験でも駿河台20連覇道中の中央法学部は174人の合格者で東大の67人、京大37人、早稲田34人などを大きく引き離して圧勝を続けた。(慶応は9人)
翌1965年2月、1号館の増築工事に着工した。
その一方で6月28日、由木村移転問題協議会が設置され、翌年11月に荻山虎雄氏が評議員会副議長に就任したことが特記されるべきであろう。




































