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【1934980】私立中学の価値

投稿者: 自然体   (ID:KR1jc1G02kE) 投稿日時:2010年 11月 28日 08:25

この不景気の中、希望しない私立中学へ無理して行かせる道理がないと思います。
公立中学という保険もあることだし。
皆さんどう思われますか?
我が家の場合、子供はまだ小4ですが、受験希望は以下の通りで、それ以外の学校なら公立中学へ行かせるつもりです。
新興系、成り上がり系、スパルタ系、予備校風系は基本的にパスです。
希望の私立中学に合格しなかった場合は、公立中学から県立トップ高校を目指します。


2/1 麻布か開成(武蔵もOK)
2/2 なし(栄光、聖光は良い学校だけど遠いので)
2/3 早稲田か暁星(筑駒は学区外なので)
2/4 芝

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  1. 【1968953】 投稿者: 視点  (ID:4b.FmqGfp3Q) 投稿日時:2011年 01月 04日 07:45

    >ちなみに現総長の濱田さんは中学受験時代は「特に何も考えないで、「がんばって東大に行くものだ」と思って勉強してました。」と言ってますね。
    >ちなみに彼は灘中・灘高・東大です。



    5年の終わりくらいから塾に通って灘合格。高2くらいから勉強して東大合格。
    親からも、受験勉強したから1年くらい遊んでいいと言われていた。
    中学では地理歴史部で活動してあまり勉強しなかった。
    「当時はありがたいことに、塾に行ってるやつはほとんどいなかったんですね。進学校だから仕組みが整ってて、ただ授業をしっかり受けていればよかったから。ある意味じゃすごくストレスのない受験勉強でした。今でも思うけど、ああいう形で受験勉強をやってパスできたってのはありがたいことだと思います。」
    http://www.ut-life.net/people/j.hamada/


    濱田さんは、私が指摘する弊害↓には当てはまりませんね。


    ①中受塾の洗脳で偏差値至上主義の価値観が刷り込まれる。(塾にとっては偏差値至上主義でないと商売にならない。) ⇒親が偏差値至上主義が馬鹿げていることを教える。
    ②中学合格後も塾から離れられず、塾依存症(塾がないと勉強できない)になる。(大学に入れば研究のための塾などない。) ⇒小学生の時の通塾も最低限にして中学に合格すれば通塾させない。
    ③すりこまれた偏差値至上主義で、志とは関係なく偏差値で大学学部を決める。その典型が、医者への志(=人を助けるという志)もないのに受験のチャンピオンを証明するため医学部を志望する。⇒自分が将来何をやりたいのかをしっかりと考えさせる。
    ④小学生の時から「受験のための勉強(=点数のための勉強)」が身にしみつき、大学合格後勉強しなくなる。(「受験」や「点数」というニンジンがぶらさがらないと勉強する意欲がなくなる。)⇒受験などただの通過点。真価が問われるのは社会にでてからだと教える。
    ⑤中高一貫私立の過剰な受験対応のため、公立の生徒も受験秀才にならないと大学に合格できなくなくなり、変容してきた。
    ⑥その結果、東大や京大には、素質のある筋のいい人材ではなく、社会で活躍できない鍛え上げられた受験秀才の割合が増えている。特に医学部に顕著。
    ⑦小学校の時から受験大事で親に敷かれたレール(東大や医学部への道?)にのっかってきたので、学生時代に不可欠な「生きる意味」だとか「自分の将来」といった基本についてじっくりと考える経験をしない。⇒じっくりと
    ⑧受験のチャンピオンめざして受験勉強に特化してきた学生は、受験以外の能力(コミュニケーション能力、リーダーシップ、ぶれない価値観等)が欠如する。

  2. 【1968965】 投稿者: では  (ID:kQ5Z59om4Uc) 投稿日時:2011年 01月 04日 08:24

    視点さんの弊害に当てはまる人の割合って、とても少なそうですね。
    頑張って啓蒙活動するほどのことではないのでは。

  3. 【1968969】 投稿者: 地域、時代  (ID:n/a.8MpnH2A) 投稿日時:2011年 01月 04日 08:27

    結果オーライ、進むだけ。

    私は、凡才様が前に書いて下さったこの言葉がとても好きです。
    今年もよろしくお願いいたします。

    知的様と老眼様の話に関連して

    年末のNHKで、若者の就職について考える、という討論番組をやっていました。
    ある企業関係者の方は
    「大学で学んだ事が社会に出てあまり生かされていない。なので、もう少し職業訓練的な事を大学で行っても良いのではないか?」といつも大学関係者に問題定義なさっているそう。
    しかし「大学は学問を学ぶ場所である。職業訓練の場所ではない。」と常に一部の大学の先生達から猛烈に反発される。
    と。。。

    その話に対して、一人の先生の考え方は
    「大卒13%の時代は、大学は学問のみを教える場所で良かった。しかし、大卒50%である今の時代は’大学’の存在そのものが変化してきている。なので、大学側も変わっていかなければいけないのではないか?職業訓練的な教育も’これからの大学’が取り組まなければいけない大きな課題ではないか?」と。

    これに対して私は自分自身の意見は持たない、持てないのですが、知的様達の議論は、昨今の大学が抱える大きな問題点のようですね。

  4. 【1968978】 投稿者: 地域、時代  (ID:n/a.8MpnH2A) 投稿日時:2011年 01月 04日 08:44

    視点様

    親父ぃ~♪あけましておめでとう!

  5. 【1969024】 投稿者: 視点  (ID:4b.FmqGfp3Q) 投稿日時:2011年 01月 04日 10:12

    >視点さんの弊害に当てはまる人の割合って、とても少なそうですね。

    1年の通塾で中学受験。中学合格後は塾などいかず勉強以外のことに打ち込む。大学受験への勉強は高校2年から。
    今これが普通ならそうでしょうね。


    地域、時代 様

    明けまして、おめでとうございます。
    今年もよろしく!

  6. 【1969046】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 04日 10:41

    新年おめでとうございます。


    地域・時代さん、
    決定的に大学関係者もちがっているけれども、その企業人のご指摘(=企業での実学に資する)にかならずしも賛成はいたしません。大学が提供してきた教育を享受した学生さんと企業のニーズのギャップを感じていました。関連の問題意識として今日は2011年、新春に思いつくままに7つ挙げてみます。


    1)問題意識1:大学は問題がありそうだが、大学だけに留まらず、中学高校教育から替えるべきではないか。
    2)問題意識2:企業が求めているのは実学ができる人ではない。・・・考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、
      という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。
    3)問題意識3:中高生の教育を替える可能性は私学により大きい。学校説明会で見れば一目瞭然で判ると思います。
    4)問題意識4:大学は(価値ある)学問、社会は(下世話な)「実学」という区別は違うのではないか
    5)問題意識5:学生さんには報酬はポストで与えられるという官制給与の発想が強すぎないか
    6)問題意識6:大人になることは愉しいこともあることを伝えたい。面白さ・感動が必要。
    7)問題意識7:中高大、敢えてマスコミからの一時的隔絶をしてもよいのではないか。


    以上です。本年もどうぞ宜しくお願いします。


    ・・・とても、ゆるい書き込みになりますが、知的=量的らしく、以下にだらだらと書いてみます。
    興味のない方はスルーしてください。


    1)問題意識1:大学は問題がありそうだが、大学だけに留まらず、中学高校教育から替えるべきではないか。
    → 具体的には企業人の住んでいる社会が徐々に変貌していることがある。この変化は大きいモノ。しかもこれを肌で見知って表現できるひとが少ないこと。よって、「グローバルに活躍できる人材」とか「自立的勉強」とか漠然とした腰ダメの目標でこどもを育てていること。したがって、教育というコスト(時間・金)を親が掛けても、企業から評価できる学生がほとんどいないこと(=皆無・・)。根っこは大学もそうかもしれないが、中学高校の過ごし方にあるように思っています。


    → 大学の先生と話をしても、微分・積分が満足にできないので、研究室に入る前に特訓しないと行けない(誰もが知っている難関大学理系でもそういうことがある)



    2)問題意識2:企業が求めているのは実学ができる人ではない。・・・考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。
    →今の状況は・・
    ”優秀層も””普通の人”も大事だが、その人達が社会で働くときの、本人の期待されるValueは以前と変わってきている。敢えて言えばもとめられているのは実学ではない。(外から実学的要素に見えることがあっても) グローバルな競争が激しさを増せば増すほど、時間いくらで支払われるしかない単純労働をこなせる人材はニーズを満たすターゲットからはずれていて、社会の経済システムでそのように位置づけられる。価値がかってあった熟練のスキルでさえも例外ではないかもしれない状況。(下記の例を参照)


    「熊谷工業高校。作業服を着た生徒が真剣なまなざしで先晩加工機に向かう。腕を磨いた彼らは100分の1ミリの制度で金属を切削する。だがそのその技を活かす職場を見つけるのが難しい。・・・東芝深谷工場、今は高負荷克ちたいの薄型テレビ組み立てなどに絞っており、地元の工業高校生が目指せる職場ではない」(2011.1.4 日経一面、「作り手世界仕様に」の本日記事です)


    ・・・これらのことは大学生・大学院生で、まさに当てはまる。本人が頑張ったと主張し、親が大いに期待しても、本人の社会での「価値」は上がらない。今の学生は面接すると「自分のやってきたこと」をとうとうと立て板に水のように述べるが、企業のニーズに会っているかは本質的には興味がないようだ。部活をやっていれば、「協調性があり、ともに助け合うよろこび」、大学院を出ていれば、「専門分野で研究ができます」というステレオタイプの答え。「インターネット社会での学び」は「ネットでお手軽に調べることに終わりがちだが、そういうことを問題だ感じたことはありますか?」「社会で真に力を発揮する大学卒業生はどういう人材と自分は想像し考えるか?」とちょっと聞いて見ても、「今まで考えてみたことがない」と素直に答えたりする。


    → では大学卒業生に求められていることは何なのか、(あくまで個人的な、ひとつの例として)
     考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。自分たちの活動を瞬時に「見える化」できる表現力があれば尚良い。


    企業では(中小企業はまた違うだろうが)行動とは、一定のワークフォースの固まりで力を発揮するモノ。個人の優秀さは、集団の卓越さに転化され、大きな効果的な力になる。その結果、タイムラグがあるものの役立つ仕事(=企業収益であり社会貢献)が実現される。企業活動はたしかにコストダウン・収益向上など金儲けの面があるが、「金儲け」だけではない活動にも満ちている。中長期のスコープは、まさに国民からみた価値と近い。


    → その意味で、ここで問題の中高大の時代です。セレクトされた内容での積み上げ勉強は、以前にまして必要になったとの考え方をしています。(以前にここでも議論したと思っておりますが)・・・理系・文系ともに知的職業では、最先端分野が遠い分、プロになるには何が必要かを、よくよく選ぶことが以前より重要。


    3)問題意識3:中高生の教育を替える可能性は私学により大きい。学校説明会で見れば一目瞭然で判ると思います。
    → 真にニーズからの発想の欠如は首都圏の公立中高校でも顕著に見えます。(例=インターエデュの公立校の宣伝)真のニーズとは、卒業生との深い対話、社会の深い観察、踏み込んだ調査、とそれらに根ざした洞察からしか得られない。唯一の可能性は、そういう面を判った教官が練りに練った独自のカリキュラムと教材を用意すること。その意味で中高一貫校が現実には有利なのではないかと思っています。(あくまで可能性ではありますが、地道に努力している学校は結構ある)


    → 公立では、あてがわれた科目別の評価軸で点を取れば良いという、40年前(1970年代大阪万博の頃の)高度成長と基本発想は変わっていない教育理念。むしろ、公立の方が首都圏では進学実績に各種の制度で縛られる。曰わく、「進学重点高で難関大何名・・」


    → 変わったのは、あの頃なかったコンピュータが増えて埃を被っただけ、とも揶揄する人が出るかもしれない。・・・実際、ある公立高校(進学校の一角)でもコンピュータは台数が多く、稼働しているように見えても、コンピュータでの資料作り・プレゼンを苦手としている先生方が多く、実際、半数以上は、ハード・ソフトとも初歩のレベルでも使えこなせていないそうでした。忙しく、手が回らない都のことで、結構、どの学校でも一般的な状況のように聞きます。(生徒はコンピュータを使った作業では結局、上達しないことになります。)


    → 薄くなった教科書をそのまま教えても暗記になるだけのことが多い。特に歴史・古典・現国・数学。では教科書を厚くして授業時間を増やせば、親はほっとできるのか。これらの科目では、多くの場合、教科書そのものだけを教えてはいけないのではないでしょうか。(教科書を教えるなということではないです) なぜ、いけないかと言えば、教科書はもれなく、万人対象に作っているので、「面白くない」「勉強する気がおきない」ことが極めて多い。実際、教科書もらって一日で読んでしまう人も多いでしょう。それで十分として。(最近、教科書販売会社に行って、高校の教科書を手にとって見て、教師用のガイドブックも伝手で見てきました)しかし、独自の規律口をつけて興味を引き出す授業は公立では、今は益々評価もされないばかりか、逸脱になることがある。むしろメインはモンスターP対策や、いじめ・安全へのケア。家庭力が落ちた分を公立の学校が補わねばならない構図。(これは今や、教育内容よりも優先度が高い業務)先生がプリントをつくるかどうかは外面的なことだが、そのプリントが生徒を刺激する切り口で、ワクワクするもの(=感動の入り口)でしかも社会の窓であるなら(ズボンのファスナーではなく)それらは猛烈な知識欲を喚起する。受験勉強も本当の勉強もくそもない、理解したいという知識欲に繋がる。 


    4)問題意識4:大学は(価値ある)学問、社会は(下世話な)「実学」は違うのではないか
    → 社会では、(下世話な)「実学」、大学では(価値ある)「学問」だ、という区別は、社会から隔絶された一部の大学人の思込みではないかとさえ思える。実際、優秀な大学教授は絶えず企業の目指す、本当のニーズに耳を澄まし、目を見開く。これが大学生の志向(・・思考ではない)にも色濃く影響してくる。世の中、一般的には、少ししかないアカデミックなポスト(=ニーズ)に群がり、社会の大きなニーズには目を向けず、アカデミアを目指すスタイルそのままに企業を訪問し討ち取られているように見える。また、そのときの人気企業が何かとか、かせいぜい考えても短期ビジョンでの優秀企業を目指しても、それは表面的である。自分の未来を託すに足る企業をきちんと見つけることは必要。(もちろん、理想論ではなく妥協が最後にあることは認めても) 明帯メディア・マスメディア、コンテンツがあふれる中で、表面的なことにに極めて影響されやすいように見える。われわれはまともな先生が直に育てた学生を探し始める。・・・それが浜辺の真砂から光る宝石(優れた資質の学生でまともな教育を受けたモノ)を見いだす最も効率の良い手段だからです。


    5)問題意識5:学生さんには報酬はポストで与えられるという官制給与の発想が強すぎないか
    → どこかのスレッドにもありますが、公務員になればどうとか、医者になればどうとか、の興味が多すぎるようです。理系は給与が安いと言われるが、そうではないことが分かりつつあります。実際、給与が「価値」からでていることを考えれば、”価値を生み出せれば”、評価と報酬は後からついてきます。”この価値を生みだせば”という部分は”汗をかけば(=努力をすれば)”(=ガンバイズムの精神論)とは微妙に違うこと、しかし、同時に継続の精神力も「価値」を生み出すには必要、という微妙な部分、(つまり発想がキーであるが、積み上げの努力も必要) これが学生さんへ伝えるべきことのひとつのように思える。


    6)問題意識6:大人になることは愉しいこともあることを伝えたい。面白さ・感動が必要。
    →古くは、「贈る言葉」、「赤ずきんちゃん気をつけて」、「モラトリアムの時代」、・・・おとなになることの苦さを描いた本は多かったデスが、社会人になって目標に向かって努力したり、人間としての生活を創造的に作り出すことの積極的な魅力を語られる文学に触れることは少ない。矮小化された表現世界にさらされている。よって若い人は、ダイナミックな社会を怖いと思っている傾向が根っこにあるように見え、それからの逃避により、なんとなく大学や大学院に進学しているのではないか。今、その点はあまり注目されないけれども。人生で人が受け身になると、益々、可能性を狭め、就職・結婚、子育て、でマイナスの連鎖・スパイラルがあることを考えると(回りに例あり?)、中高生での”立ち向かう”意識改革と(大人が提供する)教育改革(=内容の改革)は喫緊の課題。もちろん、この部分大人とは、親や周りの大人、が果たす役割も大。


    7)問題意識7:中高大、敢えてマスコミからの一時的隔絶をしてもよいのではないか。
    → 今、携帯やテレビからこどもを隔絶できればかなり教育効果はあります。これ自身、大変なことです。でも、これは出発点。それ以降の教育の中身の話は、じつは大量のノイズを避けたところからスタートしなければならない。以前より親が干渉しなければならない理由がひとつあるとすると、個人の身体範囲まで浸食し始めている「大量の情報の洪水」だと思います。ほっておけば「洪水的情報に溺れ」ます。


    → 大量の情報排除と一方できちっとした積み上げ勉強・思考の錬成とは、両立するというのも、不思議ですが、微妙なさじ加減なのです。マスメディアの情報よりも、「長期での流れの理解」、「長期スパンに対する自ら考えること」が若い世代の未来への行動を大いに助けるのではないでしょうか。立ち止まって考えられる「読書」に「テレビの優秀番組」がおよばないことがあるのは当然というところあり。。

  7. 【1969063】 投稿者: 知的=量的  (ID:4o3wqWLqUZc) 投稿日時:2011年 01月 04日 11:04

    (訂正いたしました)

    新年おめでとうございます。


    地域・時代さん、
    決定的に大学関係者もちがっているけれども、その企業人のご指摘(=企業での実学に資する)にかならずしも賛成はいたしません。大学が提供してきた教育を享受した学生さんと企業のニーズのギャップを感じていました。関連の問題意識として今日は2011年、新春に思いつくままに7つ挙げてみます。


    1)問題意識1:大学は問題がありそうだが、大学だけに留まらず、中学高校教育から替えるべきではないか。
    2)問題意識2:企業が求めているのは実学ができる人ではない。・・・考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、
      という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。
    3)問題意識3:中高生の教育を替える可能性は私学により大きい。学校説明会で見れば一目瞭然で判ると思います。
    4)問題意識4:大学は(価値ある)学問、社会は(下世話な)「実学」という区別は違うのではないか
    5)問題意識5:学生さんには報酬はポストで与えられるという官制給与の発想が強すぎないか
    6)問題意識6:大人になることは愉しいこともあることを伝えたい。面白さ・感動が必要。
    7)問題意識7:中高大、敢えてマスコミからの一時的隔絶をしてもよいのではないか。


    以上です。本年もどうぞ宜しくお願いします。


    ・・・とても、ゆるい書き込みになりますが、知的=量的らしく、以下にだらだらと書いてみます。
    興味のない方はスルーしてください。


    1)問題意識1:大学は問題がありそうだが、大学だけに留まらず、中学高校教育から替えるべきではないか。
    → 具体的には企業人の住んでいる社会が徐々に変貌していることがある。この変化は大きいモノ。しかもこれを肌で見知って表現できるひとが少ないこと。よって、「グローバルに活躍できる人材」とか「自立的勉強」とか漠然とした腰ダメの目標でこどもを育てていること。したがって、教育というコスト(時間・金)を親が掛けても、企業から評価できる学生がほとんどいないこと(=皆無・・)。根っこは大学もそうかもしれないが、中学高校の過ごし方にあるように思っています。


    → グローバルな活躍といってもいろいろある。グローバルな活躍とは、それぞれでどういう具体イメージで教育していこうとしているのか?


    → 自分で勉強と言っても、調べるだけが決して勉強ではないが、今では、せっかくのレポート学習が、コピーペーストで体裁を整える単純作業になることがある。


    → 大学の先生と話をしても、足元の微分・積分が満足にできないので、研究室に入る前に特訓しないといけない(誰もが知っている難関大学理系でもそういうことがある)


    → 深く考えることも許容し、積み上げることもするには、結局、ギリギリまでカリキュラムを厳選し、教える内容を興味アルモノに変化させることが必要ではないか。


    2)問題意識2:企業が求めているのは実学ができる人ではない。・・・考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。
    →今の状況は・・
    ”優秀層も””普通の人”も大事だが、その人達が社会で働くときの、本人の期待されるValueは以前と変わってきている。敢えて言えばもとめられているのは実学ではない。(外から実学的要素に見えることがあっても) グローバルな競争が激しさを増せば増すほど、時間いくらで支払われるしかない単純労働をこなせる人材はニーズを満たすターゲットからはずれていて、社会の経済システムでそのように位置づけられる。価値がかってあった熟練のスキルでさえも例外ではないかもしれない状況。(下記の例を参照)


    「熊谷工業高校。作業服を着た生徒が真剣なまなざしで先晩加工機に向かう。腕を磨いた彼らは100分の1ミリの制度で金属を切削する。だがそのその技を活かす職場を見つけるのが難しい。・・・東芝深谷工場、今は高付加価値帯の薄型テレビ組み立てなどに絞っており、地元の工業高校生が目指せる職場ではない」(2011.1.4 日経一面、「作り手世界仕様に」の記事です)


    ・・・これらのことは大学生・大学院生で、まさに当てはまる。本人が頑張ったと主張し、親が大いに期待しても、本人の社会での「価値」は上がらない。今の学生は面接すると「自分のやってきたこと」をとうとうと立て板に水のように述べるが、企業のニーズに合っているかは本質的には興味がないようだ。部活をやっていれば、「協調性があり、ともに助け合うよろこびを学んだ」、大学院を出ていれば、「専門分野で研究ができます」というステレオタイプの答え。「インターネット社会での学び」は「ネットでお手軽に調べることに終わりがちだが、そういうことを問題だ感じたことはありますか?」「社会で真に力を発揮する大学卒業生はどういう人材と自分は想像し考えるか?」とちょっと聞いて見ても、「今まで考えてみたことがない」と素直に答えたりする。「他の人にない「自分らしさ」は何ですか?」 という部分に、練習したのか表面的な答え方を感じてしまう。


    → では大学卒業生に求められていることは何なのか、(あくまで個人的な、ひとつの例として)
     考える力、と企画する力、そして処理・行動する力、という基礎力/ポテンシャル。そして、それを土台とした説得力アル「価値」を見つけられる力。自分たちの活動を瞬時に「見える化」できる表現力があれば尚良い。


    企業では(中小企業はまた違うだろうが)行動とは、一定のワークフォースの固まりで力を発揮するモノ。個人の優秀さは、集団の卓越さに転化され、大きな効果的な力になる。その結果、タイムラグがあるものの役立つ仕事(=企業収益であり社会貢献)が実現される。企業活動はたしかにコストダウン・収益向上など金儲けの面があるが、「金儲け」だけではない活動にも満ちている。中長期のスコープは、まさに国民からみた価値と近い。


    → その意味で、ここで問題の中高大の時代です。セレクトされた内容での積み上げ勉強は、以前にまして必要になったとの考え方をしています。(以前にここでも議論したと思っておりますが)・・・理系・文系ともに知的職業では、最先端分野が遠い分、プロになるには何が必要かを、よくよく選ぶことが以前より重要。


    3)問題意識3:中高生の教育を替える可能性は私学により大きい。学校説明会で見れば一目瞭然で判ると思います。
    → 真にニーズからの発想の欠如は首都圏の公立中高校でも顕著に見えます。(例=インターエデュの公立校の宣伝)真のニーズとは、卒業生との深い対話、社会の深い観察、踏み込んだ調査、とそれらに根ざした洞察からしか得られない。唯一の可能性は、そういう面を判った教官が練りに練った独自のカリキュラムと教材を用意すること。その意味で中高一貫校が現実には有利なのではないかと思っています。(あくまで可能性ではありますが、地道に努力している学校は結構ある)


    → 公立では、あてがわれた科目別の評価軸で点を取れば良いという、40年前(1970年代大阪万博の頃の)高度成長と基本発想は変わっていない教育理念。むしろ、公立の方が首都圏では進学実績に各種の制度で縛られる。曰わく、「進学重点高で難関大何名・・」


    → 変わったのは、あの頃なかったコンピュータが増えて埃を被っただけ、とも揶揄する人が出るかもしれない。・・・実際、ある公立高校(進学校の一角)でもコンピュータは台数が多く、稼働しているように見えても、コンピュータでの資料作り・プレゼンを苦手としている先生方が多く、実際、半数以上は、ハード・ソフトとも初歩のレベルでも使えこなせていないそうでした。忙しく、手が回らない都のことで、結構、どの学校でも一般的な状況のように聞きます。(生徒はコンピュータを使った作業では結局、上達しないことになります。)


    → 薄くなった教科書をそのまま教えても暗記になるだけのことが多い。特に歴史・古典・現国・数学。では教科書を厚くして授業時間を増やせば、親はほっとできるのか。これらの科目では、多くの場合、教科書そのものだけを教えてはいけないのではないでしょうか。(教科書を教えるなということではないです) なぜ、いけないかと言えば、教科書はもれなく、万人対象に作っているので、「面白くない」「勉強する気がおきない」ことが極めて多い。実際、教科書もらって一日で読んでしまう人も多いでしょう。それで十分として。(最近、教科書販売会社に行って、高校の教科書を手にとって見て、教師用のガイドブックも伝手で見てきました)しかし、独自の規律口をつけて興味を引き出す授業は公立では、今は益々評価もされないばかりか、逸脱になることがある。むしろメインはモンスターP対策や、いじめ・安全へのケア。家庭力が落ちた分を公立の学校が補わねばならない構図。(これは今や、教育内容よりも優先度が高い業務)先生がプリントをつくるかどうかは外面的なことだが、そのプリントが生徒を刺激する切り口で、ワクワクするもの(=感動の入り口)でしかも社会の窓であるなら(ズボンのファスナーではなく)それらは猛烈な知識欲を喚起する。受験勉強も本当の勉強もくそもない、理解したいという知識欲に繋がる。 


    4)問題意識4:大学は(価値ある)学問、社会は(下世話な)「実学」は違うのではないか
    → 社会では、(下世話な)「実学」、大学では(価値ある)「学問」だ、という区別は、社会から隔絶された一部の大学人の思込みではないかとさえ思える。実際、優秀な大学教授は絶えず企業の目指す、本当のニーズに耳を澄まし、目を見開く。これが大学生の志向(・・思考ではない)にも色濃く影響してくる。世の中、一般的には、少ししかないアカデミックなポスト(=ニーズ)に群がり、社会の大きなニーズには目を向けず、アカデミアを目指すスタイルそのままに企業を訪問し討ち取られているように見える。また、そのときの人気企業が何かとか、かせいぜい考えても短期ビジョンでの優秀企業を目指しても、それは表面的である。自分の未来を託すに足る企業をきちんと見つけることは必要。(もちろん、理想論ではなく妥協が最後にあることは認めても) 明帯メディア・マスメディア、コンテンツがあふれる中で、表面的なことにに極めて影響されやすいように見える。われわれはまともな先生が直に育てた学生を探し始める。・・・それが浜辺の真砂から光る宝石(優れた資質の学生でまともな教育を受けたモノ)を見いだす最も効率の良い手段だからです。


    5)問題意識5:学生さんには報酬はポストで与えられるという官制給与の発想が強すぎないか
    → どこかのスレッドにもありますが、公務員になればどうとか、医者になればどうとか、の興味が多すぎるようです。理系は給与が安いと言われるが、そうではないことが分かりつつあります。実際、給与が「価値」からでていることを考えれば、”価値を生み出せれば”、評価と報酬は後からついてきます。”この価値を生みだせば”という部分は”汗をかけば(=努力をすれば)”(=ガンバイズムの精神論)とは微妙に違うこと、しかし、同時に継続の精神力も「価値」を生み出すには必要、という微妙な部分、(つまり発想がキーであるが、積み上げの努力も必要) これが学生さんへ伝えるべきことのひとつのように思える。


    6)問題意識6:大人になることは愉しいこともあることを伝えたい。面白さ・感動が必要。
    →古くは、「贈る言葉」、「赤ずきんちゃん気をつけて」、「モラトリアムの時代」、・・・おとなになることの苦さを描いた本は多かったデスが、社会人になって目標に向かって努力したり、人間としての生活を創造的に作り出すことの積極的な魅力を語られる文学に触れることは少ない。矮小化された表現世界にさらされている。よって若い人は、ダイナミックな社会を怖いと思っている傾向が根っこにあるように見え、それからの逃避により、なんとなく大学や大学院に進学しているのではないか。今、その点はあまり注目されないけれども。人生で人が受け身になると、益々、可能性を狭め、就職・結婚、子育て、でマイナスの連鎖・スパイラルがあることを考えると(回りに例あり?)、中高生での”立ち向かう”意識改革と(大人が提供する)教育改革(=内容の改革)は喫緊の課題。もちろん、この部分大人とは、親や周りの大人、が果たす役割も大。


    7)問題意識7:中高大、敢えてマスコミからの一時的隔絶をしてもよいのではないか。
    → 今、携帯やテレビからこどもを隔絶できればかなり教育効果はあります。これ自身、大変なことです。でも、これは出発点。それ以降の教育の中身の話は、じつは大量のノイズを避けたところからスタートしなければならない。以前より親が干渉しなければならない理由がひとつあるとすると、個人の身体範囲まで浸食し始めている「大量の情報の洪水」だと思います。ほっておけば「洪水的情報に溺れ」ます。


    → 大量の情報排除と一方できちっとした積み上げ勉強・思考の錬成とは、両立するというのも、不思議ですが、微妙なさじ加減なのです。マスメディアの情報よりも、「長期での流れの理解」、「長期スパンに対する自ら考えること」が若い世代の未来への行動を大いに助けるのではないでしょうか。立ち止まって考えられる「読書」に「テレビの優秀番組」がおよばないことがあるのは当然というところあり。。

  8. 【1969065】 投稿者: エンドロール  (ID:YxztyN9KWxU) 投稿日時:2011年 01月 04日 11:10

    視点さんってやっぱりゆがんでる気がします。
    天才が人生の中でいろんな遊び幅を持たせながら、最低限の努力で最上階へ上り詰める事が、この世の中の構造として一番だと思っているようですね。
    でも、凡人でも火をつけられてジェット噴射して同じ位置まで上り詰める事が出来ると、そういった本物の才能ある人の芽がつぶれてしまうと思っているんでしょうか?
    そうではないはずです。
    視点さんは火をつけてジェット噴射させる塾や学生を敵対視していますが、それはお門違いではありませんか?
    凡人が火をつけられたくらいで、天才と同じ場所に立てるくらいの最上階なら、しょせんそこはその程度の価値しかないのだと考えたほうがいいです。
    ただ凡人にとっては、才がないから、其処へたどり着いたということにはとても価値があるはずです。
    でも、凡人全てが焚き付けられて其処へたどり着けるわけではないです。火をつけられて発火できるかどうかも、才能なんですよ。
    其処に辿り着いた時にその後の人生をどうするかはその人次第。
    そして、視点さんがいう天才は、そんな凡人がたどり着けるような場所に固執しなくても才能で勝負すればいいのです。
    あなたのお気にいりの安藤忠雄さんも学校の名前は関係ないわけですしね。
    天才は昔みたいに遊び幅を持たせた生活の中で上に上り詰められるべきだと考えていたのに、凡人が必死で受験勉強したもんだからその枠からはずれてしまうことがそんなに悔しいのでしょうか?
    本当に才能があるなら、学校なんて関係ないはずです。
    凡人がちょっとがんばっておいつけるなら、結局は天才だって其処へ行くための努力が足りないというだけのことです。
    もしくはそんな小手先では入れる学校なんだと、学校または入試制度を批判すべきで、凡人が必死でがんばっていることを揶揄するのはお門違いです。
    結局視点さんも、偏差値至上主義的考え方に染まっているということですね。

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