最終更新:

163
Comment

【2423497】1981年中学入試偏差値

投稿者: 遡ればぼろが出る   (ID:LonsUBcWoM.) 投稿日時:2012年 02月 11日 17:59

1981年 中学入試偏差値 競争率一覧
http://www.[削除しました].jp/gdata1981/1981ck.html

アドレスの伏字はgeocitieの語尾にsを付けたものです。
これを見るとどこが成り上がり校でどこが名門校かが良く判ります。
もし反応がよければ、1970年の日進の中学難易度表もUPします。
それを見ると驚きますよ。
今はそこそこの進学校でも当時は最底辺の学校がいくつかあります。
キーワードは立地環境ですね。
周辺環境が悪い学校は昔は底辺校だったところが多いです。
例えば風俗とか工場とかですね。

返信する

管理者通知をする

マイブックマーク

「中学受験情報に戻る」

現在のページ: 19 / 21

  1. 【4519267】 投稿者: 懐かし~  (ID:d.ZBTy2UKLY) 投稿日時:2017年 04月 01日 12:48

     2483553】 投稿者: 一覧表 (ID:e/urRa1u0fY) 投稿日時:12年 03月 25日
    の1981当時の偏差値一覧を興味深く拝見しました。
    自分は中学受験をしませんでしたが、この80年代の後半中学生で高校受験をしました。
    今はなき山田義塾という埼玉県では一番の進学塾に通っていましたがこの東進という塾の偏差値の序列によく似ていた記憶があります。国学院や日大二はここまで評価は高くなかったですが、今より全然難しかった記憶があります。市川とか東邦大東邦とかは今では信じられないですが当時はこの程度でした。
    巣鴨はこの後の急激な難化の直前の偏差値のようです。
     昔は当然インターネットなどなく受験雑誌などもなかったので、今思うと明確な偏差値って見た事ないように思います。当時埼玉県の中学生が受験していた北辰テストの偏差値もみたことありません。(たぶん学校の先生の手元に止まっていたんだろうと思いますが。)
     今40代、50代のみなさん70年、80年代当時の偏差値を記憶があれば教えていただけないでしょうか。偏差値もそれぞれ異なるでしょうから山田義塾とか栄光、市進とか明記して下さるとありがたいです。
     

  2. 【4783249】 投稿者: 1981海城高校入学者の率直な感想です。  (ID:aRG6DM/JQRk) 投稿日時:2017年 11月 23日 01:43

    1981年海城高校入学者です。当事者の肌で感じた実感をお話しします。
    (中学ではありませんが)。
    よく”数十年前は底辺高”だという論調を見ますが、少なくとも80年代では既に実情とは異なります。
    自分は早大学院・慶応志木のすべり止めで受けましたが
    同級生もやはり学院失敗者・都立西・国立・立川高校の敗戦組が結構いました。
    (特に学院)
    また、中学の同級生は武蔵の最終すべり止めに使ってました。
    第一志望で受ける方は少なかったですが、偏差値では60前半ほどであり
    当時すでに”底辺校”とはとても言えない学科校だったことは事実です。
    いわゆる”真のトップ校”とは10弱の偏差値の違いではなかったでしょうか。
    大まかに偏差値60以上の高校を三グループに分けると、三番手ぐらいでは
    あったと思います。
    中学受験ではありませんが、ちょと”数十年前は底辺校”という風評に抵抗があったため僭越ながら実体験を書かしていただきました。

  3. 【4783294】 投稿者: 元城北生  (ID:7X2Tm0yh2UM) 投稿日時:2017年 11月 23日 06:26

     海城さんと同じぐらいの年代ですが、高校受験で海城落ちました・・・(苦)
     都立上位校の滑り止めで受けている人がかなり多かったと思いますが、とても「底辺校」と蔑むようなレベルの学校ではなかったですよ。
     ちなみに私は第一志望でした。

     私は内申書が悪くて、当時都立は学区制・群制で3番手群の都立を逆に滑り止めにしました。結局都立は願書だけ出して受けてません。
     結果は×海城、○城北、○成城で、城北に進学。城北は都立に加え土地柄埼玉県立上位の滑り止め校として人気があり、浦和、川越あたりの不合格者がかなりいて、入学者の半分近くは埼玉県から通っていました。今もそうなんですかね・・・?
     中学は2クラス100人ですが、高校は一学年600人以上の大所帯。
     当時は中学受験する人はまだまだ少数派で、中入生はほんの一握りを除き、高入生よりも成績がふるわないというのが生徒の間での一般的認識。

     3校の中学難易度の上下関係は当時も今も変わっていないと思いますが、3校とも進学実績は当時よりかなり伸びてはいますね。
     城北は当時東大合格者が2,3人というところでしたが、なにしろ大所帯なので早大や明大合格者がやたらと多く、合格者数は毎年トップクラスだったと思います。

     以上、思い出話でした。

  4. 【4783476】 投稿者: 昭和63年日能研偏差値  (ID:BSca84ZR8Dk) 投稿日時:2017年 11月 23日 09:54

    どなたかのブログなので直リンクを貼っていいのかわからないのですが、
    http://star.ap.teacup.com/bunbundiary/
    2015/2/17の記事に 昭和63年(1988年)と1992年の日能研R4があります。

  5. 【4783611】 投稿者: 懐古  (ID:xm2afGDBsbc) 投稿日時:2017年 11月 23日 11:28

    高校から入学された海城OBの方・城北OBの方

    スレタイのURLを検索すると、中学入試だけでなく高校入試の偏差値も出ていてお話の裏付けになっています。お二方には懐かしい一覧でもあると思います。

    自分は当時まだ中学受験の最中。
    今と様相が違う数字や入試科目。なくなった学校、まだない学校・・・
    ほとんどの学校が面接を当たり前にやっていた時代だったなぁとしみじみ偏差値一覧を見ています。

  6. 【4783795】 投稿者: バラード  (ID:csLUf9DwGUc) 投稿日時:2017年 11月 23日 14:22

    たしかに、都内のご出身のお話読ませていただくと、都立が学校群になっていきなり中学受験へ、、、ではなかったですね。

    まずは、それでは都立の代わりにどの高校受けるか、行くのかからですね。
    書かれている、海城や城北もありましたたが。
    まず日比谷の代わりにとなったのは、教附教駒、それと学大付属ですね。
    続いて、開成、武蔵(高入あった)、それから早慶。
    ダメなら日比谷の11群でもいいかとか。

    続いて、都立と比べたのが駒東(高入あった)などで、あとは書かれている海城や城北などもあったと思います。立教はじめとする付属も浪人せずにということで人気があったと思います。

    それならいっそのこと中学から、とになったのは都立私立国立などの進学結果が出始めたころからですので、少し後の話で、その後、高校からとらなくなって完全一貫が増えていった時期からでしょう。
    中学御三家など言われだしたのは昭和50年代、女子は、もう少し後の昭和の終わりころからだったような気がします。

  7. 【4784036】 投稿者: ↑  (ID:VY9vvHUSThM) 投稿日時:2017年 11月 23日 17:38

    全く別の学校を同じ名前で官が作っただけです。渋渋などと同じと思えば、気にもなりません。

  8. 【4784408】 投稿者: スレ主は相変わらず  (ID:osSmfWLEMS.) 投稿日時:2017年 11月 23日 22:44

    懲りもせずに、いつも同じことを繰り返す。
    アンチ海城だろ。
    いつまでも粘着して、嫌悪感しかないわ。お前には。

あわせてチェックしたい関連掲示板

学校を探す

条件を絞り込んで探す

種別

学校名で探す